丹 善人の世界

きわめて個人的な思い出話や、家族知人には見せられない内容を書いていこうと思っています。

祖母のこと

2008年08月26日 | 個人史
祖母は東京出身で、良家の子女だったようだ。幼い頃に日舞を習っていて発表会の写真を見たことがある。寅年生まれで煙たい存在だった。いい思い出は一つもない。
祖母は二人の息子を溺愛していて、その嫁には冷たかったようだ。終戦の年に伯父が亡くなり、4人の子ども、男女女男、のうち、後を追うように次女が亡くなり、ただでさえ悲しい状況でありながら残された3人の子どもを置いて伯父の奥さんを家から追い出したという。事情は知らない。当時5歳を筆頭に生まれたての子どももいるというのに、家を出て行くことになった女性の気持ちはいかばかりだったろうか。その後その女性とは一切関わりがない。風の噂では再婚してまた4人ばかりの子どもが産まれたとか後に聞いたことがあるがそれも噂でしかない。

祖母は父の奥さんにも冷たかったようだ。おそらく父は当時出征していたと思うが、同じく終戦時に一人娘と奥さんを同時に亡くすという不幸を背負う。家から女手がいなくなった。
残された3人の子どもを育てるのも大変なこと。溺愛する一番上の男の孫だけは家の跡継ぎとして残し、他の2人の子どもはお寺さんの紹介で養子に出すことにする。
もっとも、後に下の男の子だけは養家になつかないまま返されることになるのだが。
それでも子どもを育てるのは大変なこと。そこで打って出た手が、当時隣に住んでいた家にちょうど年頃、というか戦争のために少し行き遅れていた娘を父の後妻にもらいうけることだった。
こうして昭和21年2月4日に父と、後に僕の母になる人との結婚が成立。もともと伯父の子どもを育てるためというのが目的の結婚。戻ってきた子も含めて最初から2人のこぶつきだった。母と祖母の仲もあまり良くはなかったと思う。母が生計を支えるために働きに出たことはまだ救いだったかもしれない。
当時は家族全員合わせて8人で、生活は貧しかった。祖母も最中作りの内職をしていた。縁側であんこを炊いて、粒あんやらこしあんにして、最中の皮に入れて封をする。よく手伝わされた最中は商売物だから口にすることはまったくなかったが、こしあんで残った皮を集めて固めたお菓子はおいしかった。
一度、その商品を納品に行くのに付き合わされたことがある。相手先での世間話から、上の二人の兄(以前から養子だということは戸籍を見ることがあって知っていたが)が伯父の子どもで祖母の実の孫だと言うことをそのときに知った。僕の知識はほとんどが耳学問だった。

祖母は結局は伯父の二人の子ばかりを溺愛していた。不憫な子と思っていたのだろう。父の子と親しく関わることは少なかった。根からの東京人で、大阪風のジョークも通じなかったこともある。晩年はひたすら納豆を食べたがっていたが、いざ買うと実際にはほとんど食べなかった。
いろんなことにいちいちうるさく、家に友だちを連れて来ることも嫌がった。

祖母が倒れたのは僕が中学の時。
母と買い物に出かけた帰り道、急に歩けなくなりへたりこんだという。それから寝たきりの生活になる。当時は一番上の義兄と僕の二人の兄は家を出ていて、5人家族だった。体調もなんとなくましになってきて、どうにか立てるようになったのだが、ある日、家に僕しかいないときに、台所で食事をしている僕に祖母が近づいてきたが、再び倒れ、そのままはって布団まで戻ったが、その日を最後に祖母は二度と起き上がることはできなくなった。
祖母は薬とかには無頓着で、目薬などは直接目にくっつけてさすため、雑菌が中に入りその目薬は二度と使えなくなる。また与えられた薬の中にカプセルがあったのだが、カプセルの本来の目的は溶ける場所やタイミングを遅らせて胃の負担をなくすためなのだが、祖母は飲み込みにくいからと言って、はさみで半分にして飲んでいた。当然胃を荒らしてしまって逆効果だった。
当時は病人食も満足な物が亡く、ベビーフードも買ってはみたが、当時のベビーフードは食べられた物ではなかった。今はけっこうおいしいものが出ているのだが。ということで満足に食べられたのは瓶詰めの栗だけだった。
いろんな人がお見舞いに来たけれど、持ってくるのが決まったように「銀莊のカステラ」だった。今でもこれを見るたびに祖母のことを思い出す。

祖母が亡くなったのは僕が中学3年の三学期の始業式の日だった。
前日夜中、隣の祖母の部屋から、ガリガリというまるでネズミが柱をかじっているような音が鳴り続けていた。後で思えば、痰がからんでいる音だったのだろう。翌朝祖母は誰に看取られることもなく息を引き取っていた。数えで80歳になろうという年だった。同じ姿勢で寝ているばかりだったから床ずれがひどかった。父が体を起こそうとすると、背中の皮がずるっとめくれたとか。布団はもう使い物にならなかった。

亡くなって数日後、荷物の片付けをしていると、机の引き出しからはさみで切り取った祖母の写真が出てきた。3人並んだ写真なのに端の一人は切られていた。3人並んだ写真は演技が悪いとも言うが、おそらくは葬式の写真にこれを使って欲しかったのかもしれない。後でわかっても遅いのだが。

祖母が亡くなって今年でちょうど40年。なんとなく振り返りたくなったのもきりがいい年だからかも。