丹 善人の世界

きわめて個人的な思い出話や、家族知人には見せられない内容を書いていこうと思っています。

小説「祭りの音が消えた夏」第8章

2010年09月23日 | 詩・小説
 第8章 悪夢

 昼過ぎに先輩は戻ってきた。昼はもう済ませたということで、母親には帰る時に声を掛けると言うことで2階の先輩の部屋に上がった。二人だけでの話もしたいでしょうから、と言って母親はお茶とお菓子を運んだだけで降りていった。
 すこしぎこちない時間が過ぎた。
「この部屋よね。先輩に抱かれたの」
「……もう4年になるのか、由布と最後に会ってから……」
「何があったのか、もう覚えていない。たぶん夢を見ていたんだと思う。悪い夢をね。正義のヒーローが実は最低の悪者だった夢。子どもにとっては悪夢かもね。私、あのTV、今も見られないの」
「子どもも夢を壊したらだめだよな、さすがに」
「私にとって現実はこの部屋でのこと。あの日先輩に抱かれて……そしてお別れをした。その時のことしかないの。そこから始まったの」
 先輩はいきなり由布に向かい合うと土下座を始めた
「やめてよ、そんなこと。格好悪いでしょ」
「いいや、謝らせてくれ。君の人生狂わせたのは俺なんだから」
「別に変になってないわよ、死にもしないし、いい学校に入って、ちゃんと4年で卒業できる目処もついてるし、今だってこうやって帰ってきてるし」
「でも……大変だったんだろうと思う」
「いいから、顔を上げてよ。そんなんじゃ話もできないから」
 ようやく先輩は顔を上げて普通に座り直した。
「そりゃ、いろいろあったけれどね。ううん、謝られることなんかないわよ、私は私の道を歩んできた結果なんだから。あれから何人もの男に抱かれたりしたけれど、それだって私が選んだことなんだから、先輩には関係がないこと。それより、わたしこそ、もう先輩には釣り合わない人間になってしまったことの方が大きいかも」
「今、好きな人がいるとか?ううん、俺が気にする資格はないけれど」
「一緒に住んでいる男友達はいるわ。セックスフレンドって言い方好きじゃないけれど、気の会う友だちが一人」
「その彼とは結婚するの?」
 由布はゆっくり首を振った。
「子どもでもできたら結婚してもいいかも、って思ったけれど、そんな気配もないし。第一、その彼も、本当は好きでしかたがないのに別れてしまった彼女がいるのよね。お互い身の上話をしあってて、彼が、私にここに帰れって言ったの。自分の原点を見つめ直して、これからどうしたいのか考えてみろって」
「優しいんだね、その彼って」
「ええ、修二郎……彼のことだけどね……修二郎って、私が祭りがトラウマになってるって知ったら、無理矢理祭りに連れ出すのよ。そんなんじゃ中学教師にはなれないぞって。同じ口調で、故郷に帰れないのならどこに行っても同じ事だって、それで送り出してくれたの。帰ってこなくなってもいいの?って聞いたら、それが運命ならそれもいいんじゃないって。自分はどうなのって言ったけれどね」
「どう?久しぶりの故郷は?」
「いろいろびっくり。一番びっくりしたのは先輩のこと。まさか暢の担任だなんて」
「4年も経つと人間、変わるもんさ。今度は俺の悪夢の話を聞いてくれるかな?」
「悪夢なんて聞きたくもないけれど、聞いて欲しいのなら聞いてあげてもいいわ」

「俺、中学の時に好きな子がいたんだ。2年下の子でね。最初はその他大勢の後輩の一人としか思っていなかったんだが、いつも目立って部活を早く抜けるんでね、1年のくせにやる気無いのかなって思ってたら、母親の体が悪くって、小さい二人の弟の面倒を見ていて大変なんだ、って誰かが教えてくれたんだ。それじゃあわざわざ部活やらなくってもいいんじゃないのか、って思ってたんだけど、部活にいる間は一所懸命なんだ。でもそれじゃあとっても他の部員のレベルについていけないじゃない。だからちょっと手を貸してやろうかなって関わりだして。そうするとその子の良い面がいっぱい見えてくるんだ。家のことがなかったら確実に中心メンバーになれる素質あるのに。素直な子でね、気がつくとその子のことばかり目に着くようになって。同じ学年の他の部員に指摘されてからかわれて、それで初めて気がついたんだ。俺、あの子が好きなんだって。
 卒業してもその子のことが気になって、しょっちゅう中学校に出向いてね、その子が中学3年になったときには、うちの高校に来ないかって誘ってみた。1年しか一緒にはいられないのにね。でも同じバスケットでつながっているというのは気持ちの良い物だった。バスケットさえやっていればすぐそばにいられる、みたいな感じで。
 高校の1年は短かった。でも充実はしていたと思う。ツーと言えばカーというような関係で。家の事情で、バスケットやってることが知られたらまずいらしくて、だったらということで俺の家に招いた。別に下心も何もないんだけど、特別な関係になったみたいで、ついつい勘違いしてしまいそうだった。

 良いことも続かない。大学に入ってバスケット続けてたけど、先輩にもいろいろいて、俺の面倒見てくれる良い先輩もいれば、遊ぶことしか考えていない先輩もいて。俺が1年の時、由布も知ってるとおり、父親が事故で亡くなって。俺、こんなに父親に甘えきっていたのか信じられないくらい落ち込んじゃって、その子のことを考えることさえ忘れてしまうくらいだった。そんなときに目を付けられたんだ、悪い先輩に。先輩Aは金持ちのボンボンで、お金さえあれば何でもやっていけると思い込んでる人物で、実際単位さえお金で買ったという噂もある。先輩Bは腰巾着で、まあ要領よくやっていくタイプで、金は持ってるけれど頭はそんなによくないAを実際は操っていたようなところがあったんだが、この二人にからまれて、なんとなく一緒に行動することが多くなったんだ。犯罪すれすれのことをやったこともあるし、女の子のナンパもしょっちゅうのこと。もちろん俺は一緒にいるだけで、女の子と遊んで気を紛らわせるようなそんな心境にはならなかったんだけどね。

 4年前の夏。俺が帰っていたら、突然この二人から連絡が入って、祭りをやっていると聞いたので、近くをとおりかかったついでに寄ってみるって言ってきたんだ。断る理由も勇気もなかったから会うことにしたんだけど、昼間からお酒を飲んで、俺もつきあわされて、常識やら何やらとんでしまってたんだ。言い訳と言われてもしかたがないけれど。
 夜になって、誰か可愛い女の子でもいないか、なんて言い出して、さすがにこれはまずいなと思った。俺が好きだった子をちらっと見かけたから、目を付けられたら困ると思って。それで、うまくいいくるめて、人気のない場所に連れ出したんだ。みんなからはお化け屋敷と呼ばれている場所に。ここは誰も寄りつかない場所だから、ここにいれば誰も被害に遭わないだろうって。先輩二人は、良い環境だって喜んじゃってるから、ここで一晩過ごしても構わないかなって。なのに、誰も近寄らないはずなのに、一人だけやってきたんだ。暗闇で誰かはわからなかったけれど、浴衣を着た女の子が一人で。よし、やっちゃえ、って先輩達は飛び出してその子を空き家に無理矢理連れ込んだ。二人は合図して、一番やる気のなさそうな俺からまずやれって命令して。で、酔いにまかせてついつい。月明かりが指して初めて気がついたんだ。その女の子が、俺が好きだった子だったことに……」

 由布はいつのまにか耳を押さえていた。でも声は聞こえていた。先輩が見た悪夢。
「ある日、その子が家を訪ねてきた。俺は何も言えなかった。抱いてくれと言ったから抱いたけど、空しいだけだった。もう会いたくないと言われた。それで俺の恋は終わった。
 もう何もする気が起きなかった。彼女のいない人生、先輩達につきまとわれる生活、すべてが嫌だった。死にたくなったけれど、父親を亡くしたばかりで母親を一人にする勇気もなかった。
 そんな時、電話がかかってきたんだ。昔から俺のこと目をかけてくれていて、面倒見てくれていた千葉というバスケットの先輩がいて、学校が始まっても授業にもバスケットにも出てこない俺のことを心配して、今この町に来てるから会わないかって。わざわざ俺のこと訪ねに来てくれたんだ。喫茶店で千葉さんに会ったら、驚くことを話してくれたんだ。あの、俺につきまとっていた二人の先輩が交通事故にあったというんだ。無謀な運転だったという。それぞれお互いの彼女を乗せてドライブしていて、スピードの出し過ぎでハンドル操作を誤って、ガードレールに激突。運転していたA先輩と彼と一緒だった彼女は即死したそうだ。B先輩の方も手足を骨折する重症で入院。その彼女も骨折もあったけれど、顔に大きな傷が残る怪我をしたとか。これはそれから半年後に聞いた話なんだけれど、さすがに女性の顔に一生残る傷を残したということで、彼女の父親が怒鳴り込んだとか。地方の酒屋を形成している人なんだそうだけど、娘の責任を取れ、とかで、B先輩は卒業後の就職内定も取っていたのにキャンセルして地方に婿入りしたとか。小さくなって暮らしているらしい」

 この話の中に、一つだけはっきりとは話さなかった事実があった。それは、A先輩の彼女という人が、斉藤の初めての相手となった女性だったという事だ。
 前からその彼女という人とは会った事もあるのだが、A先輩といつも一緒にいる人という認識で、A先輩があんなのだったから、その彼女も似たような人だと勝手に思っていた。ある日、さほど離れていない町に出かけた時に、偶然に出会って声を掛けられ、A先輩がいなかったから最初は誰かわからなかったのだが、名乗られて一瞬困ったなとは思ったのだが、断る事も出来ないうちに一人暮らしの彼女の部屋に連れて行かれた。
 意外な事に、けっこうきちんと片付いた小綺麗な部屋だった。聞けば彼女の両親がこの町の出身だったとか。以前に祖母に連れられてきた事があって、町の雰囲気が気に入ってたので、親と喧嘩して家を出て行くことになった時に、この町に住みたいと思ったとか。斉藤の家からそう離れてはいないと言う事で、なんとなく身近な気分になって親しみを覚えていたと言った。どこまで本当なのかはしらないが。

 彼女は勝手に身の上話を語り出した。
 父親が姉ばかりを可愛がって自分の事など見向きもしてくれないという。小さな頃はよく遊んでくれて大好きだったのに。姉が中学受験をする頃に両親は姉に構いきりになって、その頃から自分には構ってくれなくなったとか。今から思えば自分のひがみだったのかもしれないが、小さなしこりとなって、それ以来素直に甘える事ができなくなった。
 自分の中学入試の時は運悪く、姉が盲腸の手術で入院したり、父が半年間の単身赴任とかが重なり、姉の時ほどには構ってはもらえなく、事情があったとはいえやる気も失ってしまい、結果は不合格。両親から冷たい目で見られているような卑屈な気分になった。そんな時に、気晴らしだと、同居していた祖母がこの町に連れてきてくれた。両親が祖母を引き取るまではこの町に住んでいたという事で、この町にいると気分が和らぐ思いがした。祖母が住んでいたという家にも行き、父も大学に行くまではこの家にいたという話に、その時は素直な自分に戻れたのだが、いざ家に戻れば、重苦しい気分だけが漂っていた。
 祖母がいるうちはまだ安らぎの場所もあったのだが、大学に入った翌年にその祖母が亡くなってからはもう自分の場所は見あたらなかった。親と喧嘩して家を出て行き、足は自然とあの町に向かっていた。遊び歩いているうちに知り合って付き合っていたAとは、ごく自然な形で『彼女』の位置にいるようになっていたのだが、彼の援助(実際にはAの親のお金だが)でこの部屋を借りられるようになったという。
 時々は家にも電話はするのだが、父は決して電話には出ようとはしなかった。それほどまでに嫌われているのならそれでもいい、とは思っていたのだが、一度実家の側まで行った時に、自分が大切にしていた花の世話をしてくれている父を見かけて涙がこぼれそうになった。結局は声も掛けることなく引き返したのだが、今でも父の事が大好きなんだと思う自分に気がついたのだが、どうしても素直にはなれなかった。それは父も同じなのかも知れない。こういうのをボタンの掛け違いと言うのだろうか。どこかで違えてしまった。寂しそうな表情を彼女は見せた。
 斉藤も父を亡くしたばかりの喪失感が癒されず、そんな思いが彼女との距離を近づけてしまったようで、気がつけば彼女に導かれるままに初めての時を迎えてしまっていた。
 すべてが終わった後、Aには黙っておいてあげるね、と言われて、初めてとんでもないことをしてしまったことを気づかされた。A先輩の彼女に手を付けてしまったのだ。このことがA先輩に知られればどうなるのか。そのことばかりが心を占め、A先輩の無理難題も聞かざるを得ない状況に追い込まれてしまっていた。
 後から考えれば、罠にはめられたのかもしれなかったが、あの時に見せた彼女の寂しげな表情までも嘘だとはどうしても思えなかった。
 二人が事故で亡くなった事を聞いた時、正直ほっとした。千葉先輩から、彼女の葬儀の時人目をはばかる事もなく父親が号泣していたと聞かされた。ボタンの掛け違いはすべてはずさなければ掛け替える事は出来ないとは知りつつも、死んでようやく父娘の関係が修復されたことを悲しく思った。
 彼女のお墓がどこにあるのか、事故現場がどこなのか、あえて聞こうとは思わなかった。あの寂しげな表情と共に、自分の心の奥深くに封印する事にした。由布にさえ語る事は一生ないだろう。

「そんなことで、もう誰も俺につきまとう者はいなくなったから学校に戻ってこい、って千葉さんが言ってくれたけれど、俺はあの子に対しての責任をどう取ればいいのかわかたなくて、千葉さんにすべて打ち明けたんだ。黙って聞いてくれた千葉さんは、一生かかっても償えないかもしれないな、って言った。でも、お前にしかできない償い方もあるんじゃないかって。たとえばこれからの人生を世界の困っている人のために使ってみるとか。そういう償い方もあるんじゃないかって。
 でも、母親を一人残して海外には行けないし、って言ったら、別に海外でもなくこの町にだってやれることあるんじゃないかって。お前みたいに迷いやすい若者に、正しい道を示してやるのも償いになるんじゃないか。取り返しの付かないことをやってしまっても、必ずやり直せるって事を示すことはできるんじゃないか、って。その言葉を聞いて悩んでいた俺の心に一本の道が見えてきたんだ。ひょっとしたら今頃はあの先輩達と一緒にいて、事故で死んでいたかも知れない。彼らから離れることになって、今自分は生かされているんだ。だったら、失ったかもしれないこの人生を、もう一度生まれ変わった気持ちでやり直してみようって。
 それで俺は教師になることを決めたんだ。以前は良い会社に入って母親を楽にさせてやりたい。バスケットをやってるのも、体育会系で就職に有利になるかもしれないなんて気持ちもあったんだけれど、せっかくやってきたことを、今度は将来ある若者達のために使おう、と決めたんだ。進路変更だから勉強する内容も変更することになるから、最低でも1年よけいに学校生活を送ることになるだろう。母さんに、卒業が1年遅れるかも知れないけれどいいか、って尋ねたら、何にも聞かないで了承してくれた。一から勉強のやり直し。バスケットも力を入れた。そして一年遅れで卒業。うまくこの中学校に教師として入ることが出来た。

 いきなりで驚いた。何と俺のクラスの生徒になる子どもの中に、あの子の弟がいるじゃないか。もうほどけて消えてしまったと思っていた糸の端が見えたような気がした。神様は俺に赦しのチャンスを与えてくれたんじゃないか。本気でそう思って神社に行ってありがとうを言ったよ。あの子のことには何も触れないで、純粋に一人の生徒として彼女の弟に接してきたけれど、もし本当に神様は俺のことを許してくれるんだったら、必ず償いの機会を与えてくれるはずだと信じていた。そして昨日、あの子が戻ってきた時、俺は正直泣きそうになったよ」

 ふと先輩の顔を見ると、本当に目に光る物があった。自分もつらかったけれど、先輩もやっぱり同じように傷ついていたんだ。
「昨日、暢に言われたの。何があったのか知らないけれど、先生のこと許して上げてって。泣きながら訴えてた。それから、みどりって女の子にも言われた。暢君を泣かすようなことをしないでくれますかって。だから……」
「だから……?」
「暢のため、先輩のこと許して上げます。何もなかったことにしてあげます。4年前に夏は来なかったって」
「ごめん……」
「だから、何もなかったって。先輩に謝られるようなことは何もなかったの。長い長い夢を見ていたの、私。悪夢をね。正義のヒーローが実は極悪人だって言う変な夢。そんなの梅の中でしかありえないことなんだから」
「ありがとう」
「でも、一つだけお願いがあるの。聞いてもらえるかな?」
「由布の願いだったら何でも聞く。ライオンの口の中に手を入れろって言われてもやってもいい」
「そんな怖ろしいこと言わないで。つまらない願いよ。私、すべてを忘れるって約束するけれど、先輩のことを好きだったって気持ちまで忘れたくない。だから一つだけ思い出を残したいから……、最後にキスして。それですべてを忘れるから」
 先輩はちょっと困ったような顔をしたけれど、うなずくと、二人は顔を近づけて唇を重ねた。不思議な気持ちがした。今まで心の中に溜まり混んでいたどろどろとしたものが消えていくような、そんな気持ちだった。これが最後になるのかもしれない。
「これから始まるのだったらいいのにね」

小説「祭りの音が消えた夏」第7章

2010年09月23日 | 詩・小説
 第7章 母親

 毎日のように通っていた家は少しも様子が変わっていなかった。
 楽しい思い出が多かったはずなのに、あんなことで終わってしまうなんて思いもしなかった。いろんな思いを蘇らせながらしばらくたたずんでいるといきなり玄関のドアが開いて、懐かしい顔が覗かせた。
「由布ちゃん、おかえりなさい」
「お母さん……ただいま」
 自分の家でもないのに、ごく自然な会話に一瞬涙が出かかった。不義理をしてしまった先輩のお母さんに、飛びつきたい気持ちで一杯だった。きっと思いっきり泣き出してしまいそうだから、普通に誘われるままに玄関に入っていった。
 昨日もそのようにやっていたかのように、ごく自然にリビングのいつもの椅子に腰掛けた。4年の月日が一気に逆戻りして高校生に戻ったような気分だった。
「お昼まだなんでしょ?何もないけれど、今、焼き飯でも作るわね、いいでしょ?」
「すみません、ありがとうございます」
 この家で遠慮という言葉は不要だった。当たり前のように甘えられる、そんな関係ができていた。子どもは先輩一人っきりだったから、自分のことを娘のように可愛がってくれた。本当の母親以上に仲が良かったから、この家に二度と来ないと決めた時にも、先輩のお母さんにだけは会いたくて仕方がなかった。詳しいことは何も告げられずに、突然会わなくなってしまったことを、何よりも一番後悔していた。

 何もないと言いつつ、中身は立派な物で、おまけにサラダや漬け物までも用意されている。さりげなくふだんと同じを装いながらも、由布がやって来たことの喜びがその料理に表れていた。
「ユニフォーム、ありがとうございました。驚きました。まだ置いてあったんですね」「そりゃ大事にしてたわ、由布ちゃんのだし」
「でも、もう引退した後だったし」
「実はね、私もあなたたちと同じ高校にいたのよ、バスケットもやってた」
「へえー、そうだったんですか」
「ユニフォームは今とは違ってるんだけど、でもバスケットのユニフォームだって思うと懐かしくてね、あの頃を思い出したりもしてたのよ。由布ちゃんだけに教えるけれど、私も3年の先輩にあこがれて入部したの。あなたと一緒」
「それって、ひょっとして……」
「ううん、全然関係ないわよ。私は下手くそで、ただ憧れていただけ。見向きもされなかったわ。それに、その人にはちゃんと同じクラスの彼女がいてね、二人で都会の同じ大学に入って、卒業したら結婚したって聞いてるわ」
「その人、今もこの近くに住んでおられるんですか?」
「いいえ、都会の一流企業に入って、そちらで家を建てて親も呼び寄せてからは、もうここらに来ることはないみたい。元々親は他の地方から来た人みたいだったみたいだし。つい最近耳にした話では、2・3年前にまだ大学生だった下の娘さんが交通事故で亡くなって、ずいぶん落ち込んでおられたという話を聞いたけれど、もう立ち直って元気にやっておられるそう。お気の毒は話だけれどね」
 ちょっとしんみりした雰囲気を変えるように話を変えた。
「昨日孝がいきなり、由布たのユニフォーム、どこにあるかな、なんて言い出してね。由布ちゃんの名前、あの子の口から出てきたの久しぶりだったから驚いたわ」
「昨日、帰ってきた時に、中学校のそばまで行ったら、バスケット部がランニングしていて、目があったんです。だからたぶんそれで……」
「練習、見に行くって言ったの?」
「いえ、その時は先輩だとは思わなくて……よく似ている人だとは思ったんですけれど。まさか中学校の先生しているなんて思いもしなくて」
「懐かしいわね、あなたの『先輩』って言葉。あの子にもちゃんと孝って名前あるのに、一度も孝さんとか呼んだところ見たこと無いわね」
「えっ?あ、すみません」
「ううん、いいのよ。その響きが今は心地良いの。飛んでいた時間が埋められたみたいでね。まあいつかは孝さんって言ってくれるようになるかもそれないしね」
「……たぶん、いつまでも先輩って呼んでるような気がします……」
 そう言うと二人してクスッと笑った。先輩のことを別の呼び方で呼ぶ日なんて来るんだろうか。
「でも、それだけで、あの子は今日、由布ちゃんが見学に来るって思ったのね。私も、必ず由布ちゃんがここに来てくれると思ってたけど」
「すみませんでした。勝手にいなくなって、ご無沙汰してしまって」
「ううん、いいのよ。今、こうして帰ってきてくれたんだから。……でも、正直寂しかったわ。もう4年になるのよね、あなたが来なくなって。あなたたちに何があったのかは知らない。あの年、孝の父親が亡くなって、思いの外あの子は落ち込んじゃって。そんなところからきたのね。ある日を境にして、あの子の口からぱったりあなたの名前が出てこなくなったのは。あなたと大喧嘩でもしたのかしら、すっかり嫌われてしまったみたいで、あなたもまったくこの家に寄りつかなくなっちゃったし。私も主人を亡くして忙しかったこともあったから、ついついそのままになっちゃって」
「すみませんでした、お母さんにも迷惑掛けてしまって」
「私のことはいいんだけどね。あの子、はっきりわかるくらい落ち込んでしまって、学校にも行けないくらいになっちゃって、今で言う引きこもり状態ね」
「そうだったんですか。知りませんでした」
「ある日、大学のバスケット部で、あの子のこと目をかけてくれていた先輩から電話があってね。近くまで来ているから会わないか、という誘いがあって、近くの喫茶店でかなりの時間話をしたみたいでね、その後ようやく学校に行きだしたの。それからしばらくして、真剣な顔で話があるって言い出して。1年学校をダブることになるかもしれないけれど構わないかって。どうしたのって聞いたら、学校の先生になるために勉強をやり直したいから、たぶん1年よけいに通わないといけなくなるかもしれないけど、許してくれるかなって。あの子が学校に戻ることになって、しかも将来のことも真剣に考えているんだったら構わないわよ、て言ってあげたの。それからは立ち直ったみたいで毎日本当に真剣に勉強していたわ。もちろんバスケットもしっかり頑張りながらね」
「そうだったんですか」
 暢から聞いた話が思い出された。やはりあの日のことが原因で先輩は道を変えたのだ。そして由布もこの町を離れることにしたのだ。
「私ね、喧嘩なんて、時間が経てばいつか元に戻る物だってすっと信じ込んでいた。でもあなたは戻ってこなかった。てっきり孝と同じ大学に入る物だと思い込んでいたのに、風の噂では遠くの大学に行ってしまったとか。もうあの子の顔だけじゃなく、この町にいることさえ嫌なほど嫌われてしまったんだって、すごく悲しかった。この家からすっかり火が消えてしまったようだった。

 孝から笑顔が戻ったのは、忘れもしない、この春のこと。ここの中学校の教師に採用されて、1年の担任になることが決まって、バスケット部の顧問にもなって。それはある意味、決められた未来だからそれほど気にはしなかったんだけど、あの日、見るからに嬉しいことがあたのが丸わかりの表情であの子が帰ってきてね。どうしたの?って聞いても教えてくれないの。でも、この机の上に、こっそりあの子が受け持つことになるクラスの名簿が置かれていてね。誰か知り合いでもいたのかしら、って思って見ていって見つけたの。『篠宮暢』って名前。由布ちゃんの3歳下の弟さんは元君って言ったわよね。よく覚えてるでしょ。それからずっと下にもう一人弟さんがいたのも覚えている。確かこんな名前だったような。孝の喜びようで間違いないって思ったわ。それから毎日のように学校の報告をしてくるの。まるで小学校入りたての子どもみたいにね。ほとんどが暢君の話ばかり。あなたの名前は決して出さないの。もし口に出したらするっと滑り落ちてしまうかのように慎重にね。小学校の先生から、運動もよくできるって聞いてるから、バスケットやらせようかとか。それからもう一人和馬君って言うのかしら、暢君のお友達ね。その子の話も増えてきた。暢と和馬が、って二人一組でね。そうそう、その和馬君のお姉さんと元君が仲が良いんですってね」
「はい、ここだけの話ですが、大学出たら一緒になる予定だそうです」
「まあまあ、それはおめでとうさん。それで暢君と和馬君が義兄弟になるってことなのね。そんなこと言ってたわ。そんなえこひいきみたいに偏った話ばかりじゃだめよ、って言ったら、もう一人別の女の子の話もしてくれたわ。確か……えーーっと」
「みどりって子じゃ?」
「そうそう、みどりさん。あら、知ってるの?」
「ええ、暢と和馬君のあこがれの子みたいで、親友らしいです」
「なーーんだ、やっぱり偏ってるんじゃない。それじゃあダメ教師ね」
「そんなことないようですよ。生徒の評判はすごく良いって……暢や元が言ってました……ってこれじゃあだめですね」
「まあ、これからね。あの子、部活の生徒の遠征用にって7人乗りの車も買い込んだりしてね、レギュラーばかりひいきしてもだめでしょ、なんて言ったら、下働きの子たちを乗せてるんだ、なんて言ってるけれどね。でも、時間が解決してくれるなんて、口だけ言ってても本当には私も信じていなかったみたい。だって、本当に、今日あなたが戻ってきてくれたんだから」
 どうして自分はここに来たんだろうか。それは由布自身も不思議に感じていた。見えない不思議な力が自分を戻してくれたんだろうか。あの神社に祀られている神様が、申し訳ないことをした、と自分に謝ってくれているんだろうか。
「何があったのか知らないけれど、孝のこと許してやってね。ううん、もしどうしても許してくれなくても、私とは仲良くしてね。あの子には悪いけれど、あなたと孝のどちらを偉ぶって言われたら、迷わずにあなたを選ぶから。もし孝の顔を永久に見たくないって決めたとしても、こっそり私には連絡を頂戴ね。今はメールなんて便利な物もある時代だから。私のアドレス押しておくわね」
「はい。お母さんに会いたくなったら必ず連絡します」
「約束よ」