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日陰小町が雨に打たれてハス池から消滅したことから始まった小町シリーズも、花托(かたく)に成長した小町たちが、次世代を託する果托(かたく)へ成熟する時期に入ると、老年小町は、様々なメッセージを発するようになります。
ハンチング帽を被って、腰のあたりまで伸ばした仙人ばりの白ひげ3本を残して、開花4日目を迎えた老年小町(写真)からのメッセージもそのひとつです。
雨粒が水滴となってハスの葉に三々五々と溜まっている写真と、その理由を説明したパネルが蓮華亭(れんげてい)に掲示してあることは「その1」に書きましたが、これは、七夕の午前9時頃に降った通り雨が上がり、ハスの浮葉(うきは)に溜まる水滴が撮りたくなり、ハス池を再訪した時に出遭った老年小町と壮年小町です。
老年小町は、壮年小町に今の境地を語りかけているようです。
わたしのお墓(花托)に佇み泣かないでください
わたしはそこにはいません、わたしは眠りません
雨脚の強い雨が通り過ぎた直後のハス池には、雨に打たれて全部の花弁を散らした老年小町が多数観られました。通り雨に討たれ立葉(たちは)の上に散った花弁を傍観している花托だけになった老年小町、花弁1枚を残して幼年小町の横に佇んでいる老年小町など、など悲喜こもごもの光景が目に留まります。
わたしはふきわたる千の風
わたしは雪上のダイヤモンドのきらめき
わたしは豊穣の穀物にそそぐ陽光
わたしはおだやかな秋雨
気紛れな通り雨の直撃を受けて、予想だにしなかった姿になっても、老年小町達は意気軒昂、そのものです。
あなたが朝の静けさの中で目覚めるとき
わたしは翔け昇る上昇気流となって
弧を描いて飛ぶ静かな鳥たちとともにいます
わたしは夜に輝くやさしい星々
老年小町に励まされ、白いあごひげに負けじと、花弁を奮い立たせる壮年小町。
わたしのお墓(花托)に佇み嘆かないでください
わたしはそこにはいません、わたしは死ななかったのです
開花の4日間を因果倶時(いんが・ぐじ)の信条で刻々と歩む壮年小町と老年小町は、気紛れな通り雨の悪戯を楽しんでいるかのようです。
ちなみに、「わたしのお墓に佇み泣かないでください」は、平成13(2001)年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件で父親を亡くした11歳の少女が、1年後の追悼式で朗読して話題になっていますが、昭和7(1932)年、アメリカの主婦が書いたものを、近親者の死、追悼、喪の機会ごとに読み継がれてきた程の詩です。
この詩が日本で最初に朗読されたのは、昭和60(1985)年です。
それは、葬儀委員長であった永六輔がデーブ・スペクターに紹介されて、坂本九の葬儀の時に朗読しています。「わたしのお墓に佇み泣かないでください」であったと推察しますが、確証はありません。
一方、「千の風になって」は新井満の訳詩で、NHK大河ドラマ「龍馬伝」の主役を演じている福山雅治が平成18(2006)年11月に行ったライブでは、同時多発テロの写真を上映しつつ朗読しています。秋川雅史が、この年のNHK紅白で「千の風になって」を熱唱してから、大ブレークして現在に至っていることは、先刻ご存知でしょう。
長々と「千の風になって」に関することを、ウィキペディア日本語版から引用して書いてきました。老年小町が壮年小町に語りかける詩は「わたしのお墓に佇み嘆かないでください」が相応しいと思うからです。
「わたしのお墓に佇み嘆かないでください」は、直訳のようですが、大根おろし器でおろした野生ワサビの辛さを感じます。アメリカの主婦が詩に込めた願いが心のひだに響いてきます。
一方、行間を読むことが不得手な元気印には、「千の風になって」は、極めて目の細かい「おろし器」でおろした都会ワサビの辛さなのです。
ですから、因果倶時を地で歩んでいる野生ワサビの辛さを秘めた老年小町には、「千の風になって」は不釣り合いである。「わたしのお墓に佇み嘆かないでください」を語っている、と勝手に決め込んで次第です。
ハンチング帽を被って、腰のあたりまで伸ばした仙人ばりの白ひげ3本を残して、開花4日目を迎えた老年小町(写真)からのメッセージもそのひとつです。
雨粒が水滴となってハスの葉に三々五々と溜まっている写真と、その理由を説明したパネルが蓮華亭(れんげてい)に掲示してあることは「その1」に書きましたが、これは、七夕の午前9時頃に降った通り雨が上がり、ハスの浮葉(うきは)に溜まる水滴が撮りたくなり、ハス池を再訪した時に出遭った老年小町と壮年小町です。
老年小町は、壮年小町に今の境地を語りかけているようです。
わたしのお墓(花托)に佇み泣かないでください
わたしはそこにはいません、わたしは眠りません
雨脚の強い雨が通り過ぎた直後のハス池には、雨に打たれて全部の花弁を散らした老年小町が多数観られました。通り雨に討たれ立葉(たちは)の上に散った花弁を傍観している花托だけになった老年小町、花弁1枚を残して幼年小町の横に佇んでいる老年小町など、など悲喜こもごもの光景が目に留まります。
わたしはふきわたる千の風
わたしは雪上のダイヤモンドのきらめき
わたしは豊穣の穀物にそそぐ陽光
わたしはおだやかな秋雨
気紛れな通り雨の直撃を受けて、予想だにしなかった姿になっても、老年小町達は意気軒昂、そのものです。
あなたが朝の静けさの中で目覚めるとき
わたしは翔け昇る上昇気流となって
弧を描いて飛ぶ静かな鳥たちとともにいます
わたしは夜に輝くやさしい星々
老年小町に励まされ、白いあごひげに負けじと、花弁を奮い立たせる壮年小町。
わたしのお墓(花托)に佇み嘆かないでください
わたしはそこにはいません、わたしは死ななかったのです
開花の4日間を因果倶時(いんが・ぐじ)の信条で刻々と歩む壮年小町と老年小町は、気紛れな通り雨の悪戯を楽しんでいるかのようです。
ちなみに、「わたしのお墓に佇み泣かないでください」は、平成13(2001)年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件で父親を亡くした11歳の少女が、1年後の追悼式で朗読して話題になっていますが、昭和7(1932)年、アメリカの主婦が書いたものを、近親者の死、追悼、喪の機会ごとに読み継がれてきた程の詩です。
この詩が日本で最初に朗読されたのは、昭和60(1985)年です。
それは、葬儀委員長であった永六輔がデーブ・スペクターに紹介されて、坂本九の葬儀の時に朗読しています。「わたしのお墓に佇み泣かないでください」であったと推察しますが、確証はありません。
一方、「千の風になって」は新井満の訳詩で、NHK大河ドラマ「龍馬伝」の主役を演じている福山雅治が平成18(2006)年11月に行ったライブでは、同時多発テロの写真を上映しつつ朗読しています。秋川雅史が、この年のNHK紅白で「千の風になって」を熱唱してから、大ブレークして現在に至っていることは、先刻ご存知でしょう。
長々と「千の風になって」に関することを、ウィキペディア日本語版から引用して書いてきました。老年小町が壮年小町に語りかける詩は「わたしのお墓に佇み嘆かないでください」が相応しいと思うからです。
「わたしのお墓に佇み嘆かないでください」は、直訳のようですが、大根おろし器でおろした野生ワサビの辛さを感じます。アメリカの主婦が詩に込めた願いが心のひだに響いてきます。
一方、行間を読むことが不得手な元気印には、「千の風になって」は、極めて目の細かい「おろし器」でおろした都会ワサビの辛さなのです。
ですから、因果倶時を地で歩んでいる野生ワサビの辛さを秘めた老年小町には、「千の風になって」は不釣り合いである。「わたしのお墓に佇み嘆かないでください」を語っている、と勝手に決め込んで次第です。
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