流水のままに流れてゆく落葉を眺める医者と検事との価値観の違いを映画の後半に展開する「終の信託」を観て、世界チャンピオンにまで育てた中年女ボクサーを安楽死させて何処かに去り行く老トレ―ナーの物語「ミリオンダラー・ベイビー」を思い起こしたのです。

後者は、アメリカで公開後、保守派コメンテーター、障害者団体、キリスト教団体などから映画のボイコット運動が起こり話題となったようです。半面、前者に対する日本の諸団体からは、後者のような公の話題として取り上げられていないようです。
「ミリオンダラー・ベイビー」は、クリント・イーストウッド監督・主演の映画であること、第77回アカデミー賞で、作品賞、監督賞、主演女優賞(ヒラリー・スワンク)、助演男優賞(モーガン・フリーマン)の主要4部門を独占したことは、先刻ご存知でしょう。
老トレーナーのフランキー.・ダン(クリント・イーストウッド)は、ウエルター級イギリス人チャンピオンに挑むマギー・フイッツジエラルド(ヒラリー・スワンク)に、緑色のガウンを贈り励ます。世界チャンピオンの座を獲得したマギーは、ガウンの背中に縫いこんである「モ・クシュラ」の意味をフランキーに問い質すのですが、彼は言葉を濁します。
さて、「終の信託」です。
「これが周防流ラブ・ストーリー」と、プログラムは謳っています。

江木 泰三(役所 広司)が好んで歩く散歩道で偶然出会った折井 綾乃(草刈 民代)は、愛車の中に江木を誘い、彼への想いを告げます。
そこで、自分の死期が迫っていることを自覚している江木から、最期の時は早く楽にしてほしい、と依頼されるシーンを撮影中に、これはラブ・ストーリーであると確信した。江木の依頼に対して、貴方がいなくなったら、私はどうしたらいいの、と問い詰める綾乃は、女医としてではなく、女性として愛の告白をしている。このように、周防監督は、プログラムのインタビューで語っています。
さらに、医者だって人間。必ず好きな人、あるいは患者であっても人間的に好きになれない人はいるはず。綾乃も江木に対しては、患者と医者という関係以上の感情を抱いてしまった。周防監督は、それを愛情と解釈している、と続けています。
先の「ミリオンダラー・ベイビー」では、世界チャンピオンという栄光の世界から、完治の見込みがない延命治療を受けるまでに生活環境が激変したマギーは、人生に絶望し自殺を図るが未遂に終わる。そんな中で、彼女はフランキーに生命維持装置を外すように意思表示をする。様々な価値観を熟慮した末、彼女への愛情を選択するフランキー。
ガウンの背中に刺繍した言葉の意味を明かされ微笑みで答えるマギーにフランキーは、彼女にアドレナリンを過剰投与し安楽死を確かめて、娘とも疎遠であった住みなれた町から姿を消す。
冒頭に書いた綾乃と検事・塚原 透(大沢 たかお)との尊厳死を廻っての攻防で、周防監督は女医綾乃を一人の女性・綾乃を強調している。その意図は、世界チャンピオンになったマギーの尊厳を守るために残されたフランキーの選択肢は、安楽死しかなかったと主張し、マギーへの思慕の深さを描いたことに通ずるもの。元気印の勝手気侭な映画話ですから、独断と偏見に満ちた感想は、許容範囲と自負しているので、お気になさらずに・・・。
喘息患者・江木に寄せていた女医・綾乃の心境を端的に表せば、落花流水(らっかりゅすい)です。
安楽死とはこういう状態である、尊厳死とは云々、生前意志表示(リビング・ウイル)はカンヌンなどなど、女医・綾乃が江木に施した行為は、司法が規定する価値観の枠内で判定すると殺人罪である、と執拗に追詰める塚原との攻防戦は、この映画のクライマックスです。この場面で、ダンサー草刈 民代が一皮剥けた演技をしています。
その昔、「Wの悲劇」で薬師丸ひろ子が、劇団の看板女優の醜聞の身代わりになって記者会見する場面では、切羽詰る演技で乗切り女優に脱皮したように、ダンサーのイメージが強い草刈から、「終の信託」で綾乃を演じた女優に変身したことを印象付けられるシーンでした。そして、周防監督は、江木を殺したことを綾乃に認めさせます。
女医・綾乃が検事の塚原に、「あなたは、自分の患者である江木さんを殺したのですね」と念を押され「私が殺しました」と答える台詞に、アドレナリンの投与に決断を下したフランキーの姿が重なったのです。
尊厳死を軸に据えて主人公の生き様をドラマテイックに表した監督・クリントと周防は、マギーや江木が信頼する相手に殺させる行為に社会人としての矜持を、フランキー、綾乃が安楽死させた相手に抱いている愛情の刹那さ、信頼の厚さを、濃淡を込めて主張している。そこには、医学や司法や宗教がもたらす倫理観、世間が喧伝する価値観などよりも勝るものがあるとする、両監督の見識を窺い知った映画でした。
「おまえは、私の親愛なる者、お前は私の血」
フランクは、アドレナリンを過剰投与され意識朦朧とするマギーに「モ・クシュラ」の意味を囁き、緑色のガウンに縫いこんだ彼の心根を伝えます。
「私が江木さんを殺しました」
と検事に言い切った綾乃の江木に対する思慕の念も、「モ・クシュラ」だった。
検事と綾乃との尊厳死に対する攻防戦を後半に設定した周防監督の狙いは、主治医でありながら喘息患者の江木に抱いた綾乃の女心を描き切ることであった。同僚の医師に失恋し自殺を試みるが未遂に終り、失意のどん底にあった綾乃を信頼する江木に心の癒しを求めた一人の女性として、彼が熱望した安楽死を叶える。
「その心は、水面に浮かぶ落花が、流水のままに流れていく晩秋の情景ですか。そのように勝手に決め込んでいる元気印さん、日米の映画監督に、モ・クシュラ、ですね」
ボケ封じ観音さまが、本稿を締めてくれました。
注記
11月17日、旧タイトル「ラブ・ストーリーは、落花流水がいい!!」を変更しました。

後者は、アメリカで公開後、保守派コメンテーター、障害者団体、キリスト教団体などから映画のボイコット運動が起こり話題となったようです。半面、前者に対する日本の諸団体からは、後者のような公の話題として取り上げられていないようです。
「ミリオンダラー・ベイビー」は、クリント・イーストウッド監督・主演の映画であること、第77回アカデミー賞で、作品賞、監督賞、主演女優賞(ヒラリー・スワンク)、助演男優賞(モーガン・フリーマン)の主要4部門を独占したことは、先刻ご存知でしょう。
老トレーナーのフランキー.・ダン(クリント・イーストウッド)は、ウエルター級イギリス人チャンピオンに挑むマギー・フイッツジエラルド(ヒラリー・スワンク)に、緑色のガウンを贈り励ます。世界チャンピオンの座を獲得したマギーは、ガウンの背中に縫いこんである「モ・クシュラ」の意味をフランキーに問い質すのですが、彼は言葉を濁します。
さて、「終の信託」です。
「これが周防流ラブ・ストーリー」と、プログラムは謳っています。

江木 泰三(役所 広司)が好んで歩く散歩道で偶然出会った折井 綾乃(草刈 民代)は、愛車の中に江木を誘い、彼への想いを告げます。
そこで、自分の死期が迫っていることを自覚している江木から、最期の時は早く楽にしてほしい、と依頼されるシーンを撮影中に、これはラブ・ストーリーであると確信した。江木の依頼に対して、貴方がいなくなったら、私はどうしたらいいの、と問い詰める綾乃は、女医としてではなく、女性として愛の告白をしている。このように、周防監督は、プログラムのインタビューで語っています。
さらに、医者だって人間。必ず好きな人、あるいは患者であっても人間的に好きになれない人はいるはず。綾乃も江木に対しては、患者と医者という関係以上の感情を抱いてしまった。周防監督は、それを愛情と解釈している、と続けています。
先の「ミリオンダラー・ベイビー」では、世界チャンピオンという栄光の世界から、完治の見込みがない延命治療を受けるまでに生活環境が激変したマギーは、人生に絶望し自殺を図るが未遂に終わる。そんな中で、彼女はフランキーに生命維持装置を外すように意思表示をする。様々な価値観を熟慮した末、彼女への愛情を選択するフランキー。
ガウンの背中に刺繍した言葉の意味を明かされ微笑みで答えるマギーにフランキーは、彼女にアドレナリンを過剰投与し安楽死を確かめて、娘とも疎遠であった住みなれた町から姿を消す。
冒頭に書いた綾乃と検事・塚原 透(大沢 たかお)との尊厳死を廻っての攻防で、周防監督は女医綾乃を一人の女性・綾乃を強調している。その意図は、世界チャンピオンになったマギーの尊厳を守るために残されたフランキーの選択肢は、安楽死しかなかったと主張し、マギーへの思慕の深さを描いたことに通ずるもの。元気印の勝手気侭な映画話ですから、独断と偏見に満ちた感想は、許容範囲と自負しているので、お気になさらずに・・・。
喘息患者・江木に寄せていた女医・綾乃の心境を端的に表せば、落花流水(らっかりゅすい)です。
安楽死とはこういう状態である、尊厳死とは云々、生前意志表示(リビング・ウイル)はカンヌンなどなど、女医・綾乃が江木に施した行為は、司法が規定する価値観の枠内で判定すると殺人罪である、と執拗に追詰める塚原との攻防戦は、この映画のクライマックスです。この場面で、ダンサー草刈 民代が一皮剥けた演技をしています。
その昔、「Wの悲劇」で薬師丸ひろ子が、劇団の看板女優の醜聞の身代わりになって記者会見する場面では、切羽詰る演技で乗切り女優に脱皮したように、ダンサーのイメージが強い草刈から、「終の信託」で綾乃を演じた女優に変身したことを印象付けられるシーンでした。そして、周防監督は、江木を殺したことを綾乃に認めさせます。
女医・綾乃が検事の塚原に、「あなたは、自分の患者である江木さんを殺したのですね」と念を押され「私が殺しました」と答える台詞に、アドレナリンの投与に決断を下したフランキーの姿が重なったのです。
尊厳死を軸に据えて主人公の生き様をドラマテイックに表した監督・クリントと周防は、マギーや江木が信頼する相手に殺させる行為に社会人としての矜持を、フランキー、綾乃が安楽死させた相手に抱いている愛情の刹那さ、信頼の厚さを、濃淡を込めて主張している。そこには、医学や司法や宗教がもたらす倫理観、世間が喧伝する価値観などよりも勝るものがあるとする、両監督の見識を窺い知った映画でした。
「おまえは、私の親愛なる者、お前は私の血」
フランクは、アドレナリンを過剰投与され意識朦朧とするマギーに「モ・クシュラ」の意味を囁き、緑色のガウンに縫いこんだ彼の心根を伝えます。
「私が江木さんを殺しました」
と検事に言い切った綾乃の江木に対する思慕の念も、「モ・クシュラ」だった。
検事と綾乃との尊厳死に対する攻防戦を後半に設定した周防監督の狙いは、主治医でありながら喘息患者の江木に抱いた綾乃の女心を描き切ることであった。同僚の医師に失恋し自殺を試みるが未遂に終り、失意のどん底にあった綾乃を信頼する江木に心の癒しを求めた一人の女性として、彼が熱望した安楽死を叶える。
「その心は、水面に浮かぶ落花が、流水のままに流れていく晩秋の情景ですか。そのように勝手に決め込んでいる元気印さん、日米の映画監督に、モ・クシュラ、ですね」
ボケ封じ観音さまが、本稿を締めてくれました。
注記
11月17日、旧タイトル「ラブ・ストーリーは、落花流水がいい!!」を変更しました。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます