いきけんこう!

生き健康、意気兼行、粋健康、意気軒昂
などを当て字にしたいボケ封じ観音様と
元気印シニアとの対話。

佐倉城天守閣にまつわる余話

2007-04-03 11:45:34 | 散策
佐倉城址公園へ花見に出かけた。
2年前に千葉県が行った再就職支援事業のPC講師養成講座で知り合った仲間達7人で、酒の肴にした満開寸前の桜は格別の味がした。

満開状態になると花びらが散り始め、公園一面が花絨毯を敷き詰めたようになる。花吹雪として舞う直前の桜は、命の輝きを放っていた。

天守閣があった本丸跡地は、花見を楽しむ人達で埋まっていた(写真)。
佐倉城天守閣は武具の倉庫にとして使われていたが、2度泥棒に襲われている。

衣裳、武具などを盗んだ泥棒は捕らえられ、獄門刑を受け打ち首のうえ、晒し首にされた。
最初の盗人はプロだったのだろう。だから、佐倉藩として厳罰に処して再発を防止する意図があった。

江戸時代に限らず武士達は刀、槍などに装飾を施しそれを嗜んでいる。
象牙の彫刻を飾りに取り付けた種子島が、天守閣に保管されていた。
それを狙って泥棒が忍び込んだ。犯人は佐倉藩の誰だれまでは判明したが、うやむやの内に捜査を終えた、との伝聞が残っている。盗人が置き忘れた提灯のローソクが火種になり天守閣が焼失しているのに・・・。

プロの盗人を捕らえ斬首刑に処して見せしめにしたときとは雲泥の差がある。
身分の高い人に対する醜聞隠しは、古今変わらないのだろうか。

泥棒が押し入ったのは文化10(1813)年、徳川幕府第11代将軍徳川家斉の時代で、佐倉正愛(まさちか)が第4代佐倉藩主になって2年目、時に14歳の時の事件だ。

焼失した天守閣を再建しようとする機運が浮上するたびに、佐倉藩は再建を断念している。天守閣を焼失した当時、佐倉藩は22万1160両の借金に悩まされていたという。現在に換算すると、1両は6~7万円位だろうか。

廃藩置県の際、佐倉藩の抱えていた負債を明治政府に預けた、とも言われているから、為政者として苦渋に満ちた判断を下したのだろう。

7人の仲間達の話が弾み、レストランでの昼夜兼用食事会はさらに盛り上がり、陽が落ちた19時過ぎに帰宅した。







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