いきけんこう!

生き健康、意気兼行、粋健康、意気軒昂
などを当て字にしたいボケ封じ観音様と
元気印シニアとの対話。

旧古河庭園 その2 虎之助の洋館とコンドル

2008-01-25 01:11:02 | 散策
古河財閥の三代目当主・虎之助が迎賓館として使用した洋館(写真)の玄関口です。

クレオパトラ、乾杯、デザート・ピース、ブルームーンと名付けられたバラの写真を洋館前のバラ園で撮り、日本庭園を巡り終えてここに戻ると、洋館に入りたくなります。

洋館からバラ園を窓越しに展望できる喫茶店を見つけました。コーヒーを飲んで一服してから洋館の内部を見学しようと思いつき、喫茶店の入り口へ向かうと、かなりの人たちがたむろしています。

喫茶店玄関左側にメニュー板が置いてありました。
珈琲:840円 紅茶:630円 ジュース:420円 ケーキ:525円、オーダーストップは4時と表示してあります。
180円コーヒーに魅せられている珈琲党には少し高いなあ~と迷った末、洋館の内部が観られるのならば一服しようと決心したのですが、生憎、この日(昨年11月21日)は2時過から札止めでした。満員御礼!

「こんなこと知らなかった。それなら、もっと早く来たのに・・・」

洋館内部の一角(玄関左側1階部分)を仕切って喫茶店にしているようです。
洋館の内部を見学するには、事前予約(有料)が必要であることも後で知りました。当日、見学者の定員に空きがある場合のみ飛び入り見学は可能なようです。それでも、時間指定のある見学ですから、その日の“運”次第です。先ほど小耳に挟んだ中年女性の無念さは、元気印も同じでした。

「事前に調べもしないで見学したのでしょう。諦めが肝心です」
ボケ封じ観音さまが慰めてくれます。

「ところで、陸奥宗光の邸宅跡に建てられた今の洋館に、彼の面影が残っていましたか。虎之助の意図を汲んだ建物の設計図がないと、家は建ちません。設計者は誰にしたのですか?」
「・・・・・・」
「虎之助は、古河家の三代目当主でしよう。実父(古河市兵衛)と養父(陸奥潤吉)が築き上げた人脈は継承しています。そのつながりで適任者を探しています。岩崎弥太郎(三菱財閥の創設者)と関りが深い設計者を選んでいます。三菱一号館(丸の内ビル街)、弥太郎邸宅(清澄庭園洋館)、岩崎弥之助高輪邸(三菱関東閣)などを設計したジョサイア・コンドルでしたね」

明治政府は、維新後の国家を近代的に改革する政策として、産業、資本主義を育成するための諸政策を推進します(殖産興業)。それを支える中央官庁として工部省を明治3(1870)年10月に発足させ、翌11年、人材養成期間として設置した工学寮(6年後、工部大学校に改称)を管轄することになります。

当時、殖産興業政策によって日本を近代化し、西洋諸国に対抗できる人材を養成する担い手は国内に見当たりません。そこで、初期の明治政府は海内に担い手を求め、政府に雇われた欧米人がお雇い外国人です。ジョサイア・コンドルは、その中の一人でした。

Boys, be ambitious like this old manと若者に夢と勇気を与えたウイリアム・スミス・クラークは札幌農学校初代教頭、パトリック・ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は『怪談』『骨董』などを著した随筆家、日本研究者です。寺院に祀られた仏像、曼荼羅(まんだら)を信仰の対象としていた日本に、国宝の概念を導入したアーネスト・フェノロサは岡倉天心の師でした。
映画『喜びも悲しみも幾年月』の舞台にもなった安乗崎(あのりさき)灯台(三重県志摩半島)は、日本の灯台の父・リチャード・ヘンリー・プラントが建設した26灯台のひとつです。

古来、日本で使われている農具に、目の細かさの違う「ふるい」があります。日本での古墳調査に使っていた日本考古学の父・ウイリアム・ゴーランドは、ストーンヘンジの調査にその「ふるい」を利用して、腐食した青銅の痕跡を発見します。その結果、ストーンヘンジの巨石は紀元前1800年頃のものであると認定され、年代測定を可能にする契機になりました。
他方、古墳研究の先覚者ゴーランドは、鉱山技師として飛騨山脈を調査しています。飛騨山脈をヨーロッパのアルプス山脈に因んで「日本アルプス」と『日本案内』で紹介しています。明治14(1881)年のことですから、一般に「日本アルプスの父」と呼ばれているウオルター・ウェストンが『日本アルプスの登山と探検』を出版する15年前になります。その多くが語り継がれているウエストンと地元猟師との友情関係もあって、日本人との馴染みが深まり、ウエストンが「日本アルプスの父」と呼ばれるようになり、そのまま定着したのでしょう。

このように、産官学の様々な分野で、今に残る影響を与えたお雇い外国人は、家族や在外公館の雇用者を含めると、その総数は2,299人との記録があるようです。
当時、月給が数百円であった政府首脳が、数百円から千円を越す報酬を支払ってまで「お雇い」をしています。その殆どは、任期が終わると帰国しています。ですから、彼らの指導者・教育者としての能力、技術力は玉石混合であったと思われますが、先に紹介したような優れた足跡を残した「お雇い」先達がいたのです。
その1にも書きましたが、虎之助が経営している足尾銅山本山鉱抗部課長の月給は12円であった頃の数百円は、サラリーマン感覚では想像を絶する給与額ですね。
ちなみに、明治14年の巡査初任給は6円、5銭で食パンが買えた明治15年、この年の銀座三愛付近の坪当たり売買価格は20円です(値段の風俗史)。福田内閣の閣僚さんの給与は幾らなのでしょうか、調べる時間が勿体ないから、止めにします。

さて、明治9(1876)年、明治政府と5年契約を交わした24歳のコンドルは、翌年来日して、工部大学校造家学科(建築課程:東京大学工学部建築学科)主任教授及び工部省営繕顧問に着任します。
                      
やがて、コンドルの教え子・辰野金吾(たつの・きんご)は、造家学科を首席で卒業し、明治13(1880)年、ロンドン大学へ留学します。コンドルの師であるウイリアム・バージエスの事務所でも建築を学び、3年後に帰国します。その翌年、コンドルは主任教授を解雇されて、金吾が後任教授に就任しました。

その当時、工部大学校各科(8科)の首席卒業者には官費留学が約束されていました。明治政府が、留学から帰国して後進の指導に当たることを期待しての待遇です。
給料の高いお雇い外国人と交代させる方針を執行したのですから、コンドルの解任は当然の処遇です。

それからのコンドルは工部省営繕局顧問として出仕し、退官するまでの期間に、鹿鳴館(ろくめいかん)、上野博物館本館や文部省博物館本館(東京国立博物館)などの設計に携わり、百を越える洋館を建設して、日本近代建築界の父と称されるに相応しい、優れた作品を残しています。

コンドルは工部省を退官(明治23年)すると設計事務所を開設します。ニコライ堂、横浜山手教会などを手掛け、岩崎弥太郎家本邸、古河虎之助(古河財閥・三代目当主)邸が含まれています。前者は、旧岩崎邸庭園(東京都台東区)として公開されており、洋館の内部見学ができます。後者が旧古河庭園になります。

自分の設計事務所を切り盛りしていたコンドルも、明治23(1890)年、三菱社(明治26年の商法改正で三菱合資会社に改組後三菱本社:三菱財閥形成の基になる)の顧問になります。コンドルが38歳になっていた時です。

当時、原っぱであった丸の内に、近代的なオフイス街を建設する構想を三菱社は練っておりました。造家学科を首席で卒業した第1期生・金吾とは同級生、同郷(佐賀県唐津)でもある曽根達蔵(そね・たつぞう)を、三菱社の構想を具体的な設計とするために設立した丸の内建設事務所の主任技師に招いたのは、恩師コンドルでした。

達蔵は海軍に入り、呉鎮守府の建設委員などを務めましたが、コンドルの紹きに応じ、三菱社に入社します。設計が完了した2年後から、三菱一号館(平成21年に復元竣工予定)の建設が始まり、二号館、三号館へと続き七号館まで竣工します。丸の内は、煉瓦造りのロンドン風のオフイス街に変貌し始めていたのです。

余談になりますが、東海道線、東北線などの列車運行は東京駅を基点にしています。
新橋から横浜へ国鉄汽車が走ったのは明治5(1872)年9月、日本最初の営業鉄道の開業です。列車運行区間を新橋から横浜にした理由は省略して、鉄道事業が儲かることを証明したことだけにします。

それから10年後に、採算が取れる鉄道事業に、私鉄の日本鉄道会社が、北の玄関口・上野駅を開業して参入しましたが、新橋から上野間は直結していませんでした。東京市に中央停車場が開業するまでに、四半世紀以上の時間が流れます。中央停車場の駅舎は完成してから東京駅と命名されましたので、これ以降は東京駅と書きます。

大正3(1914)年12月18日に開業した東京駅を設計したのが辰野金吾です。
金吾が駅設計を依頼されたのは明治36年です。その設計が佳境に入ったのは3年後あたりでした。設計を始めて5年経っても設計は完了しませんでしたが、東京駅建設工事は着工に向けて走り出してしまいます。

駅建設現場の前に広がっている原っぱが、ロンドン風のオフイス街に刻々と変貌する光景を毎日見せつけられている金吾を襲う闘争心、恩師コンドルと同期生達蔵に対するライバル心が、火に油を注いだようにカッカ、カッカと燃え上がってきたのでしょう。そんな金吾を想像するだけでも楽しくなります。

コンドルはヴィクトリアン・ゴシック建築家のようです。ロンドン留学で当時の建築に見聞がある金吾は、イギリス建築の主流であった歴史主義建築様式の影響を受けているでしょうし、師匠コンドルの設計思想・手法は熟知しています。ましてや、同期生の曽根達蔵が主任技師をやっていることも知っているはずですから、なおのこと闘争心を煽られたでしょう。
それはともあれ、東京駅は、クイーン・アン様式の影響が強い設計といわれ、現在、内装工事中です。内装工事が終わった暁には、金吾が東京駅に託した心中を忖度したいですね。

古河虎之助は、新築する邸宅は迎賓館として使用する構想をコンドルに伝え、コンドルはそれにしたがって設計に入っていると思います。コンドルは施主の意向を尊重した建築設計者です。

桑名市(三重県)にコンドルが設計した諸戸清六(もろと・せいろく)邸(六華苑:ろっかえん)が現存しています。
諸戸家二代目当主・清六が、明治44(1911)年に着工した新居で、洋館と池泉回遊式日本庭園を併設しています。洋館に4階建ての塔屋がありますが、コンドルが描いた図面は3階建てでした。清六の意向に沿って変更したのです。洋間には和風の襖を設けるなど、和洋折衷の設計をしています。

虎之助が迎賓館を新築したのは、大正6(1917)年です。コンドルは虎之助の意向を汲んだ設計図にしている筈です。この時、既に、コンドルは65歳になっていたのです。

それまでに、岩崎弥太郎家本宅(明治22年竣工・旧岩崎邸洋館)、岩崎弥之助男爵邸宅洋館(明治41年竣工・関東閣)、袖が崎島津邸(大正4年竣工・清心女子大学本館)などの邸宅を設計しています。虎之助邸宅の設計を始める時期と、工事中の諸戸清六邸とは重なっていたと推察しています。

迎賓館として使われた網町三井倶楽部は、三井総領家第十代当主・八郎右衛門高棟がコンドルに設計依頼した、煉瓦石混造スレート葺きルネッサンス様式の洋館です。斜面と高台がある敷地、高台上に建築物を、斜面下の低地に庭園を配置した共通点はありますが、洋館の設計コンセプトが違っています。三井倶楽部洋館に虎之助の描いた迎賓館像はないようです。

屋根のかたちが切妻屋根の洋館は虎之助邸宅だけのようです。これは、施主の考えを反映しているから。煉瓦造りの躯体はコンドルの設計でしょう。外壁材に真鶴産の安山岩(新小松石)を選択したのは、恐らく、足尾銅山経営者の虎之助です。石材に関する知識は現場体験から豊富に持っています。

一階のベランダを多角形に張り出して、庭に面する位置に配置する、洋館にバラ園を組み合わせるなどはコンドルが得意とする設計手法になっています。諸戸清六邸がそうです。ベランダが屋外か屋内にあるかの違いがあるのは、施主の好みによるもので、虎之助は後者です。
先に、清六邸の建設と虎之助邸の設計時期が重なっていると書きましたが、完成した洋館を比べると、ますます、その気持が強くなってきます。

陸奥宗光の別邸は残っていませんが、建て替えの必要に迫られた宗光は、洋館を選択するだろうか。宗光の長男潤吉なら、和風邸宅は新築しないだろう。切妻屋根をした洋館には、虎之助の思い入れがある筈です。

清六邸はカラー写真情報で内外が詳細に公開されていますが、虎之助邸は邸外情報しか公開されていません。虎之助邸内部を見学すれば、もう少し虎之助の思いのたけに近づけるのでは・・・。

「家は住む人を表す、という諺がありますよ」

ボケ封じ観音さまは、虎之助邸の内部を早く見学しなさいと、けしかけてくる。



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