いきけんこう!

生き健康、意気兼行、粋健康、意気軒昂
などを当て字にしたいボケ封じ観音様と
元気印シニアとの対話。

旧古河庭園 その1:洋館の主人たち

2008-01-21 00:16:33 | 散策
「カミソリ大臣」(明治25年8月組閣の第二次伊藤博文内閣外務大臣他)の異名を持つ陸奥宗光(むつ・むねみつ)の邸宅があったところに、大正6(1917)年、古河家三代目当主・虎之助が建てた洋館(写真)と日本庭園が旧古河庭園として、一般公開されています。

西南戦争が明治10(1877)1月下旬に勃発し、8ヶ月に亘って戦闘が繰り広げられます。それに乗じて、立志社(りっししゃ:高知県にあった自由民権運動を中心とする政治団体で、板垣退助、後藤象二郎などが指導していた)の林有造(はやし・ゆうぞう)らは、政府を転覆する挙兵を企てていましたが、8月に発覚して失敗に終わります(立志社の獄)。宗光は、彼らと連絡を取り合っていたとして逮捕され、大審院(だいしんいん・最高裁判所)より禁固5年の有罪判決が下され、山形監獄に収監されます。ここが火災に遭った時、宗光の焼死が誤報であると知った博文は、当時、最も施設が整っていた宮城監獄へ宗光を移させています。明治11(1878)年のことです。

明治15(1882)年1月の特赦で出獄し自宅静養をしていた宗光に、外遊を勧めたのは伊藤博文です。博文は、岩倉使節団の副使としてアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国を視察していますが、この年3月、再び渡欧します。日本を立憲国家にするための憲法調査を行うのが目的でした。ドイツ、オーストリア、イギリスなどを視察・調査して帰国。3年後には内閣制度を創設し初代内閣総理大臣になります。

宗光が出獄した1月から博文が渡欧する3月の間に、博文は機会を捉えて、宗光に留学を勧めたのでしょう。
堀の中の宗光は、毒殺を恐れて監獄から出される食事を取りませんでした。その頃になると、廃坑同然の足尾銅山経営を軌道に乗せた古河市兵衛や知己が、宗光の身を案じて毎日差し入をしています。

一方の博文は、国家構想を巡って対立していた大隈重信を、岩倉具視らと共謀して政府内から追放します。薩長幕藩を機軸とした、明治政府の基本路線を確立したと評価されている明治14年の政変を強行したのです。憲法と国会開設を10年後に制定する方針を決めました。参議(現在の内閣を構成する役職のひとつ)として多忙を極めていたと思われます。

しかし、博文には、尊皇攘夷にこり固まっている同志・宗光の頭を冷やさねば・・・との危惧があったのでしょう。イギリス、オーストラリアなどへ留学させ開眼させよう。外遊費用1万1千円の約半分、5千円余りは、山形有明、井上馨らと共に奔走して、政府下付金として工面します。不足分は民間からの寄付で賄いました。

明治16(1883)年から19(1886)年にかけた3年間の留学を終えて、宗光は帰国します。留学先で猛勉強をした宗光のノートが7冊残され、内閣制度の仕組み、議会の運営など、長い年月をかけて生みされたイギリスの民主政治を貪欲に吸収した跡が窺えるノートのようです。

宗光は筆まめでした。堀の中から後妻・亮子へせっせと手紙を書いています。50通を超える留学先からの書簡が残されているようです。
宗光は、留学する前年、明治16年11月、「利学正宗上・下」2巻を刊行しています。イギリスの経済学者で哲学者・法学者、功利主義の提唱者として有名なジェレミ・ベンサムの著書「道徳および立法の諸原理」を、獄中で翻訳していたのです。当然、博文らは知っています。

宗光は、弘化(こうか)元年(1844:徳川第十二代将軍・家慶)7月7日に生まれ、明治30(1897)年8月24日に没している紀州藩士です。
勝海舟の建言で江戸幕府が設置した神戸海軍操練所では、副長格に引き立ててくれた阪本竜馬の秘書的な役割を担っていた宗光です。留学を遊学の機会と捉え、そこで吸収したことを和魂洋才の実学にするのは、朝飯前の得意技でしょう。

投獄という逆境を逆バネにしていますから、留学が遊学に替えられるのは時間の問題でした。博文の狙いもここにあります。三つ子の魂百まで(も)で、生涯を終える宗光ではないのです。

外遊費用の不足分は、古河財閥を築いた古河市兵衛が、養子・潤吉の養父のために2,500円、起業や事業で市兵衛とは相互援助関係にあり、日本資本主義の父と称される渋沢栄一が1,500円補充しています。政府首脳の月給が数百円、足尾銅山本山鉱抗部課長の月給12円の時、外遊費用は1万円を超えていたのです。

「政治はアートなり、サイエンスにあらず。巧みに政治を行い、巧みに人心を治めるのは、実学を持ち、広く世の中のことに習熟している人ができるのである。決して、机上の空論をもてあそぶ人間ではない」

これは、色々な機会を捉えて紹介されている、何方も、ご存知の宗光の言葉です。
福田総理は、あなた任せの国会運営で政権維持を狙い、二大政党実現を錦の御旗にして、ことの軽重を問わずに何事も政争の具とする小沢民主党の政治姿勢を、毎日、まいにち、メディアに飽きもせず見せつけられると、宗光の言葉が懐かしくなってきます。

(財)東京都公園協会発行の解説書では「明治の元勲・宗光」としか触れられておりません。他に発行されている解説書も異口同音です。敢えて宗光にこだわってみました。

広辞苑第二版が説明している元勲(げんくん)とは、
① 国家に尽くした大きな勲功
② 明治維新に大きな勲功があって、重んじられた政治家。西郷隆盛、木戸考允、大久保利通らをいう。
西郷隆盛、木戸考允、大久保利通は維新の三傑ですから当然なのですが、②に該当する元勲一覧や広義で元勲に相当する人物の中に、陸奥宗光の名は見当たりません。協会に問い合わせをすると、調べてみますとの回答があり、元気印の知らない情報を得られるかもしれません。

「宗光の邸宅が、古河市兵衛の所有になっていますね」
天邪鬼(あまのじゃく)風を吹かせるボケ封じ観音さま。
「宗光の次男・潤吉(じゅんきち)が古河市兵衛の養子に入っているからです。明治6(1873)年でしたね。潤吉が4歳で、父が妻・蓮子(れんこ)と死別した翌年です。宗光は、新橋で一、二を競う美貌の名妓・小鈴を後妻(亮子・りょうこ)にした年のことです。

1歳年上の廣吉(外交官)と潤吉を遺された宗光は26歳、亮子は17歳でした。長女・清子(さやこ)は潤吉とひとつ違いの妹とする説がありますが、その生涯は殆ど不詳のようです。いずれにしても、5歳の長男・廣吉を筆頭に年子が二人あるいは三人遺されていた宗光家へ亮子が嫁いでいます。実子のいない市兵衛は潤吉を養子に迎えようと勇断したのでしょう。

経営不振に陥っていた足尾銅山の深堀を続け、明治14年に鷹之巣坑で神保鉱脈を掘り当て銅山経営が好転するまで持ちこたえられたのは、市兵衛を見捨てなかった宗光らの資金援助があったからでした。その恩返しをしています。市兵衛は9歳のころから丁稚奉公に出ています。京都の組糸店の番頭・古河太郎左衛門に商才を認められ養子に入り、それから紆余曲折して古河財閥を築いています。潤吉に家督を継がせようと感じさせる何かを見出していたのでしょう。

12歳で古河家へ入家した潤吉は、養父と共に足尾銅山経営を近代的に改善するため事業と家業を分離するように主張します。2年間、駐米公使としてアメリカ生活を経験している実父・宗光は潤吉をアメリカへ留学させていますから、近代経営の知識を見聞し体得したのでしょう。明治38(1905)年7月、合名会社に準ずる法人組織・古河鉱業会社を設立して社長に就任します。
古河家二代目当主潤吉は、晩年の市兵衛が授かった実子・虎之助を養子にしますが、36歳の若さで病没します。古河家当主は、虎之助に引き継がれます。

古河鉱業会社・二代目社長に就任した虎之助は、日光電気青銅所を開設します。
明治16(1882)年、本口坑を開坑して横間歩大鉱脈を掘り当て、足尾銅山は2大鉱脈を持ちます。翌年には、日本一の産銅を産出する規模に発展し、新しい鉱脈も続々発掘され、古河財閥を形成する萌芽となります。

時流に乗って成長期の電気事業に後押しされた古河は、ケーブル事業を中核にした電線事業を対象にして、横浜電線へ資本参加します。電線事業に進出してからは、当時、電線業界の有力企業を次々に古河の傘下に収め、電線業界で不動の地位を築き上げていきます。

その反面、明治29(1896)年に起きた渡良瀬川の大洪水で足尾銅山鉱毒が社会問題として再発する契機になり、政府から足尾鉱毒予防工事命令が下され、市兵衛と補佐役の潤吉はその対応に心血を注ぎました。

農民の国会陳情が繰り返し行われ、操業停止決議採択や農民との示談交渉などできりきり舞いしていたでしょう。71歳の市兵衛は明治36(1903)年4月4日、潤吉は2年後の12月に他界しています。古河財閥を継承した虎之助は、古河家三代目当主・実業家として足跡を残しています。

古河鉱業会社を設立した潤吉は、副社長に原敬(はらたかし・第十九代総理大臣)を招聘しました。同じ次期に、日本工業倶楽部を創立した中島久万吉(なかじまくまきち)が古河家に乞われて入社しています。内務大臣に就任するまで原は社長・潤吉の補佐役として経営に当たっています。当時、若輩であった虎之助は、中島と共にアメリカをはじめ欧米を遊学しています。

虎之助は、内務大臣原敬に勧められて、帝国大学昇格資金として98万7739円(約45億2千万円)を寄付します。東北帝国大学札幌農学校、東北帝国大学仙台理科大学、福岡工科大学の建設資金として使われ3大学は開校したのです。

明治39(1906)年は、足尾銅山鉱毒事件の判決が下りていましたが、社会の非難を浴びていました。日露戦争後の財政難に陥ちいっていた政府は、大蔵省から大学設立予算を削減されていたので、内務大臣・原は副社長時代のよしみで虎之助を口説いたのでしょう。

札幌農学校は、合わせて8棟を新・増築しましたが、明治42(1909)年11月に竣工した洋館(旧東北帝国大学農科大学林学科教室)1棟が、北海道大学構内に古河記念講堂として現存しています。また、古河鉱業事務所、潤吉、虎之助の補翼者などは、創立時代から家庭学校へ有力な支援をしています。

虎之助は、中島久万吉の協力を得て、大正5年から6年にかけて、横浜電線(古河電工)、横浜ゴム、富士電機などの会社を設立して、古河グループを構築しています。そして、古河グループは、子会社が親会社より成長・発展する現象がたびたび起こるのが特徴であるといわれています。例えば、富士通は富士電機製造(株)の電話部所管業務を分離して設立した会社のように。

「起業、事業はアートなり、サイエンスにあらず」

古河家の当主が宗光から潤吉へ移り、虎之助は三代目当主に相応しい家に建て替えた洋館を迎賓館にします。現在、旧古河庭園と呼ばれている洋館と庭園です。

ボケ封じ観音さまは、元気印の脳味噌を絞り出してしまいましたので、古河庭園にまつわる話は、これでちょんにします。

そして今、古河財閥の礎を築いた足尾銅山は、世界遺産登録に向けて動き始めました。




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