TAZUKO多鶴子

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『眼の哲学 利休伝ノート』から

2007-04-19 | TAZUKO多鶴子からの伝言
『青山二郎 眼の哲学 利休伝ノート』
 講談社文芸文庫
またまた本を読んでいます。

あっ!!
ご注文者の皆様!
ご安心下さい!
制作は順調にすすんでますし、
制作中は誠心誠意描いていますので大丈夫ですよ(^ ^)
ご注文絵の制作の休憩時間をつくっては読んでいますのでね。

では…本のことですが…

とにかく凄い!青山二郎は凄い!
陶器や美学や芸術だけにとどまらず
今の日本人が失ってしまったもの
全てを教えてくれています!
ただし何度も書き込みますが
奥深い心で読まないと
間違って理解されることを私は怖れます。
本文一部ご覧下さい。

『茶碗には六相というものがあり
 「品格、侘び、寂び」の三趣と
「量感、力感、浄感」の三感が
 一つになって茶碗の姿を造っているのだ。
 その姿とは
 「単なる形態ではなく、物の本質が外面に表れた、
 つまり作者の内面が表現された象としての形」 のことである』
 茶人の幸福は、真一文字は、一つの美に打死したことだ。
 現在我々は百科事典のように沢山の美に喰い殺されている。…
 美は直観を認めない。…
 更に今は
 文化人はいても教養人はいなくなった。…

 その土から生命の形を発見し、創造する。
 そういう付け合いの精神が、陶工でなくとも、
 物を創造しようとする小さな共同体にあったのではなかったか。
 自己を主張し合うのではなく、
 互いに自らを無にすることによって、
 一つの調和の世界を創り出す。
 それが日本の文化であった。
 「俺は日本文化を生きているのだ」
 という青山二郎の口癖の意味は、
 その言葉以上に奥が深いように思う。
 青山はどんな高価な陶器でも、
 日用品同様に惜しみなく使った。
 使わなければ、日本の陶器は何も語らない。…』
これが天才青山二郎である。
高価な陶器を買っては使い、
そして売り、
それは借金を重ねても。
その生き方は
青山二郎が天才として尊敬していた
千利休
『利休はもうけなかった。それだけはしなかった』
(青山二郎『利休伝ノート』から)
(青山二郎の言葉…「蓄えるのは殆ど絶望」)
千利休という天才と重なって観えて来る。
青山二郎が書き始めて草稿で終わった
『利休伝ノート』
何故
最後まで書かなかったのか…
おそらく千利休を
現在までの誰よりも
理解していたから!
つまり
青山二郎以外は
千利休を理解している人物は
誰もいないのではないか…と私は思います。

<参考資料>
『青山二郎 眼の哲学 利休伝ノート』
 講談社文芸文庫
 本文中  
『利休伝ノート』 
『人と作品<眼>によって発見された人生 森孝一』