TAZUKO多鶴子

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『青木繁』NO.4…福田蘭童より

2008-01-08 | TAZUKO多鶴子からの伝言
青木繁と福田たねの息子、福田蘭童。
後に福田蘭童は天才的尺八奏者と云われる人物になるのだが、
その福田蘭童が残した
父・青木繁のことを語った文章がある。
『父、青木繁のこと』と題した文章。
文面が長過ぎる為、
NO.1~NO.2に分けて皆様にご紹介します。
下記NO.1をお読み下さい。

  <『父、青木繁のこと』NO.1 福田蘭童>
 父、青木繁が他界したのは、わたしが六歳のときであった。
しかしわたしが幼児であった僅かな年月しか父と一緒に住んでいなかったので、
思い出というものは、ほんのちょっぴりしか浮いてこない。雨だれ模様の古い
映画フィルムのカットの一枚一枚をつなぎあわせて思い出を綴るような程度の
ものである。
そのなかでも、わたしが母の背に負われ、母の実家ちかくの五行川の橋の上に
さしかかったとき、父は小石をひろって小川に投げつけ、タッポン、タッポンと
いってわたしをよろこばせ、そしてほおを撫でて去っていった最後の別れの日
だけは、断片とはいえ、やや鮮明である。
母は間もなく、私を祖父の福田豊吉にあずけて、繁のあとを追った。
それっきり、父と母と子がばらばらになってしまったのである。
わたしは、父が残していった海景、女の顔、いろこの宮の下絵、大穴牟知命など
油くさい部屋の中で、中学一年生まで過ごしていた。
そして東京美術学校へ転校することになって、はじめて父の画友たちに会う機会にめぐまれた。
高村真夫、丸山晩霞、小杉未醒、森田恒友、正宗得三郎、熊谷守一、安蒔東一郎などである。
また父を文学の世界へと結びつけた島崎藤村も知り、父の芸術や
人物像をくわしく耳にすることができた。
数年して父の故郷である久留米を尋ね、繁の母マサヨをはじめ、繁の姉つる代と会い、
繁が放浪の旅にでた前後のことや、のこされた家族の悲惨さを涙のうちにきかされた。
また時をおいて繁の妹のたよと、弟の義雄と台湾で会い、繁を荼毘に付した前後の顛末
を知った。
…つづきは明日のブログ『父、青木繁のこと』NO.2をご覧下さい。

<参考資料>『日本の名画32 青木繁』
      編著者:河北倫明
      発行者:野間省一
      発行所:(株)講談社