TAZUKO多鶴子

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『アレキサンダー大王』と『ガンダーラ美術』と『仏像』

2008-01-23 | TAZUKO多鶴子からの伝言

 初めて造られた仏像は
どのような流れで造られたのであろうか?
それは今だに鮮明で無い。
ただ…
『アレキサンダー大王』と『ガンダーラ美術』の流れ、
そしてギリシャとの絡みは
大いに関係があるようにTAZUKO多鶴子は思う。
今日はその視点で下記をお読み下さい。

<仏 像>
仏像が出現したのは釈迦入滅後500年以上経ってからである。最初の仏像がどこでどのようなきっかけで制作されたかは明らかでないが、最初期に仏像の制作が始められたのは西北インド(現パキスタン)のガンダーラと、中インドのマトゥラーの2つの地域であり、おおむね紀元後1世紀頃のこととされている。 ガンダーラとマトゥラーのいずれにおいて仏像が先に造られたかについては、長年論争があり、決着を見ていない。しかし、仏像がさかんに造られるようになったのは紀元後1世紀頃からインドを支配したクシャーナ朝の時代であることはほぼ定説となっている。クシャーナ朝のカニシカ王は釈迦の教えに触れて仏教の保護者となった。王は自国の貨幣に釈迦像と仏陀の名を刻印した。また当時の都であったプルシャプラ(現パキスタン、ペシャーワル)の遺跡からはクシャーンの王(カニシカ王とされるが異説もある)の頭上に釈迦が鎮座する図柄の舎利容器なども発見されている。
マトゥラーの仏像がインド的であるのに対し、ガンダーラの仏像がギリシャ彫刻のように彫りが深いのは、この地にさまざまな民族が侵入し、西方の文化を持ち込んだためである。紀元前330年頃にアレクサンドロス大王の遠征軍がペルシャを越え北インドまで制圧し、ギリシャ文化を持ち込んだ。その後も紀元前2世紀にはバクトリア王国のギリシャ人の支配を受けるなど、西方文化の流入は続いた。つまりガンダーラの仏教美術とは、仏教とギリシャ美術が融合した結果であった。
もともと仏陀像は釈迦の像に限られていたが、仏教の展開に応じて、いろいろな像が生まれ、仏教は偶像崇拝的性格を持つようになった。ガンダーラにおいても銘文から弥勒菩薩、阿弥陀如来、観音菩薩などであることが明らかな作例が確認されている。

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