寺の中に神社が祀られている日本。
そんな日本をTAZUKO多鶴子は凄いと思います。
今日は神話と仏教伝来について書き込みしたいと思います。
先ずは、夏目漱石も絶賛し小説にも書かれた
青木繁の傑作『わだつみのいろこの宮』の神話からご紹介します。
<わだつみのいろこの宮>
海神〔わだつみ〕の「魚鱗〔いろこ〕の如く造れる」宮殿のこと。
海神の娘トヨタマヒメ(豊玉毘売)(画面左)とその侍女に出会った場面が描かれている。
山幸彦と海幸彦(やまさちひことうみさちひこ)は、日本神話の一挿話。
俗に「海幸山幸(うみさちやまさち)」とも呼ばれる。
彦火火出見尊(山幸彦)が、兄の火照命(海幸彦)と猟具をとりかえて魚を釣りに出たが、釣針を失い、探し求めるために塩椎神(しおつちのかみ)の教えにより海宮(又は龍宮)に赴き、海神(豊玉彦)の女・豊玉媛(とよたまひめ)と結婚、釣針と潮盈珠(しおみちのたま)・潮乾珠(しおひのたま)を得て兄を降伏させたという話。
<比較神話>
日本神話の中には、他の神話との関連性を指摘されている物が多く存在する。
* ギリシャ神話に於けるオルフェウスの黄泉の国行きと伊弉諾尊の黄泉の国行き、
デメテルと天照大神が隠れると草花が枯れるなど多くの類似点が見られると言われ
ている(→死と再生の神)。
* アポロンのカラスと八咫烏、中国の金烏は何れも太陽神の使い、元は白い、
星図によっては
烏座が三本足のものもあるなど類似性を指摘されている。
(三本足のカラスについては、一説には太陽黒点の図形が起源ともいわれている。)
* アレキサンダー大王の説話と神武天皇の遠征と類似しているという説もある。
* イザナギとイザナミは兄妹であるが、人類の始祖たる男女が兄妹であったとする神話は
南アジアからポリネシアにかけて広くみられる。
* イザナミは「最初の死人」となり「死の国を支配する神」となったが「最初の死人」が
「死の国を支配する神」となる話は古代エジプトのオシリスやインドのヤマなどに
見られる。
* イザナギが黄泉の国から帰ってきたときに筑紫の日向にて行った禊のときに左目を
洗うとアマテラス(太陽)が、右目を洗うとツキヨミ(月)が誕生したという話の
類似例としては、中国神話において創造神たる盤古の死体のうち左目が太陽に、
右目が月に化生したとされる話が見られる。
* 因幡の白兎が、海を渡るのにサメを騙して利用する話があるが、動物が違えど似た
内容の昔話が南方の島にある。
<仏教伝来>
飛鳥時代
『日本書紀』によると、仏教が伝来したのは飛鳥時代、552年(欽明天皇13年)に百済の聖明王から釈迦仏の金銅像と経論他が贈られた時だとされている。しかし、現在では『上宮聖徳法王帝説』(聖徳太子の伝記)の「志癸島天皇御世 戊午年十月十二日」や『元興寺伽藍縁起』(元興寺の成り立ち・変遷を記述したもの)の「天國案春岐廣庭天皇七年歳戊午十二月」を根拠に538年(戊午年、宣化天皇3年)に仏教が伝えられたと考える人が多いようである。歴史の教科書にはこちらの年号が載っている(詳細は仏教公伝を参照)。
仏教が伝来した際に、次のような騒ぎが起こったと『日本書紀』に書かれている。欽明天皇が、仏教を信仰の可否について群臣に問うた時、物部尾輿と中臣鎌子ら(神道勢力)は仏教に反対した。一方、蘇我稲目は、西の国々はみんな仏教を信じている。日本もどうして信じないでおれようか(「西蕃諸國一皆禮之,豐秋日本豈獨背也」)として、仏教に帰依したいと言ったので、天皇は稲目に仏像と経論他を下げ与えた。稲目は私邸を寺として仏像を拝んだ。その後、疫病がはやると、尾輿らは、外国から来た神(仏)を拝んだので、国津神の怒りを買ったのだ(「「昔日不須臣計 致斯病死 今不遠而復 必當有慶 宜早投棄 懃求後福」)として、寺を焼き仏像を難波の掘江に捨てた。その後、仏教の可否をめぐる争いは物部尾輿・蘇我稲目の子供達(物部守屋と蘇我馬子)の代にまで持ち越され、用明天皇の後継者をめぐる争いで物部守屋が滅亡されるまで続いた。この戦いでは厩戸皇子(後に聖徳太子と呼ばれる)が馬子側に参戦していた。厩戸皇子は四天王に願をかけて戦に勝てるように祈り、その通りになった事から摂津国に四天王寺(大阪市天王寺区)を建立した。馬子も諸天王・大神王たちに願をかけ、戦勝の暁には、諸天王・大神王のために寺塔を立てて三宝を広める事を誓った。このため、馬子は法興寺(別名飛鳥寺、奈良に移ってからは元興寺)を建立した。厩戸皇子は『法華経』・『維摩経』・『勝鬘経』の三つの経の解説書(『三経義疏』)を書き、『十七条憲法』の第二条に、「篤(あつく)く三宝を敬へ 三寶とは佛(ほとけ) 法(のり)僧(ほうし)なり」(「篤敬三寶 三寶者 佛 法 僧也」)と書くなど、仏教の導入に積極的な役割を果たした。この後、仏教は国家鎮護の道具となり、天皇家自ら寺を建てるようになった。
天武天皇は大官大寺(後の大安寺)を建て、持統天皇は薬師寺を建てた。このような動きは聖武天皇の時に頂点に達した。
参考資料: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
そんな日本をTAZUKO多鶴子は凄いと思います。
今日は神話と仏教伝来について書き込みしたいと思います。
先ずは、夏目漱石も絶賛し小説にも書かれた
青木繁の傑作『わだつみのいろこの宮』の神話からご紹介します。
<わだつみのいろこの宮>
海神〔わだつみ〕の「魚鱗〔いろこ〕の如く造れる」宮殿のこと。
海神の娘トヨタマヒメ(豊玉毘売)(画面左)とその侍女に出会った場面が描かれている。
山幸彦と海幸彦(やまさちひことうみさちひこ)は、日本神話の一挿話。
俗に「海幸山幸(うみさちやまさち)」とも呼ばれる。
彦火火出見尊(山幸彦)が、兄の火照命(海幸彦)と猟具をとりかえて魚を釣りに出たが、釣針を失い、探し求めるために塩椎神(しおつちのかみ)の教えにより海宮(又は龍宮)に赴き、海神(豊玉彦)の女・豊玉媛(とよたまひめ)と結婚、釣針と潮盈珠(しおみちのたま)・潮乾珠(しおひのたま)を得て兄を降伏させたという話。
<比較神話>
日本神話の中には、他の神話との関連性を指摘されている物が多く存在する。
* ギリシャ神話に於けるオルフェウスの黄泉の国行きと伊弉諾尊の黄泉の国行き、
デメテルと天照大神が隠れると草花が枯れるなど多くの類似点が見られると言われ
ている(→死と再生の神)。
* アポロンのカラスと八咫烏、中国の金烏は何れも太陽神の使い、元は白い、
星図によっては
烏座が三本足のものもあるなど類似性を指摘されている。
(三本足のカラスについては、一説には太陽黒点の図形が起源ともいわれている。)
* アレキサンダー大王の説話と神武天皇の遠征と類似しているという説もある。
* イザナギとイザナミは兄妹であるが、人類の始祖たる男女が兄妹であったとする神話は
南アジアからポリネシアにかけて広くみられる。
* イザナミは「最初の死人」となり「死の国を支配する神」となったが「最初の死人」が
「死の国を支配する神」となる話は古代エジプトのオシリスやインドのヤマなどに
見られる。
* イザナギが黄泉の国から帰ってきたときに筑紫の日向にて行った禊のときに左目を
洗うとアマテラス(太陽)が、右目を洗うとツキヨミ(月)が誕生したという話の
類似例としては、中国神話において創造神たる盤古の死体のうち左目が太陽に、
右目が月に化生したとされる話が見られる。
* 因幡の白兎が、海を渡るのにサメを騙して利用する話があるが、動物が違えど似た
内容の昔話が南方の島にある。
<仏教伝来>
飛鳥時代
『日本書紀』によると、仏教が伝来したのは飛鳥時代、552年(欽明天皇13年)に百済の聖明王から釈迦仏の金銅像と経論他が贈られた時だとされている。しかし、現在では『上宮聖徳法王帝説』(聖徳太子の伝記)の「志癸島天皇御世 戊午年十月十二日」や『元興寺伽藍縁起』(元興寺の成り立ち・変遷を記述したもの)の「天國案春岐廣庭天皇七年歳戊午十二月」を根拠に538年(戊午年、宣化天皇3年)に仏教が伝えられたと考える人が多いようである。歴史の教科書にはこちらの年号が載っている(詳細は仏教公伝を参照)。
仏教が伝来した際に、次のような騒ぎが起こったと『日本書紀』に書かれている。欽明天皇が、仏教を信仰の可否について群臣に問うた時、物部尾輿と中臣鎌子ら(神道勢力)は仏教に反対した。一方、蘇我稲目は、西の国々はみんな仏教を信じている。日本もどうして信じないでおれようか(「西蕃諸國一皆禮之,豐秋日本豈獨背也」)として、仏教に帰依したいと言ったので、天皇は稲目に仏像と経論他を下げ与えた。稲目は私邸を寺として仏像を拝んだ。その後、疫病がはやると、尾輿らは、外国から来た神(仏)を拝んだので、国津神の怒りを買ったのだ(「「昔日不須臣計 致斯病死 今不遠而復 必當有慶 宜早投棄 懃求後福」)として、寺を焼き仏像を難波の掘江に捨てた。その後、仏教の可否をめぐる争いは物部尾輿・蘇我稲目の子供達(物部守屋と蘇我馬子)の代にまで持ち越され、用明天皇の後継者をめぐる争いで物部守屋が滅亡されるまで続いた。この戦いでは厩戸皇子(後に聖徳太子と呼ばれる)が馬子側に参戦していた。厩戸皇子は四天王に願をかけて戦に勝てるように祈り、その通りになった事から摂津国に四天王寺(大阪市天王寺区)を建立した。馬子も諸天王・大神王たちに願をかけ、戦勝の暁には、諸天王・大神王のために寺塔を立てて三宝を広める事を誓った。このため、馬子は法興寺(別名飛鳥寺、奈良に移ってからは元興寺)を建立した。厩戸皇子は『法華経』・『維摩経』・『勝鬘経』の三つの経の解説書(『三経義疏』)を書き、『十七条憲法』の第二条に、「篤(あつく)く三宝を敬へ 三寶とは佛(ほとけ) 法(のり)僧(ほうし)なり」(「篤敬三寶 三寶者 佛 法 僧也」)と書くなど、仏教の導入に積極的な役割を果たした。この後、仏教は国家鎮護の道具となり、天皇家自ら寺を建てるようになった。
天武天皇は大官大寺(後の大安寺)を建て、持統天皇は薬師寺を建てた。このような動きは聖武天皇の時に頂点に達した。
参考資料: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』