青木繁の傑作と云われる『海の幸』の成功から、
『わだつみのいろこの宮』は不正審査との噂にも関わらず
運命の歯車が狂い始めた作品となる。
TAZUKO多鶴子は審査とは何だろうかと…
青木繁の生涯を知った時から強く疑問を抱いている。
今日は、青木繁の『青春の悲劇とロマン…鬼才青木繁の生と死と』の文章から
一部を抜粋して皆様にご紹介します。
<青春の悲劇とロマン…鬼才青木繁の生と死と>…河北倫明
『わだつみのいろこの宮』
……………
こうした中で、いよいよ当時の美術界の一大段落を作った明治四十年が訪れてくる。
秋には政府主催の第一回文展が予定され、春四月にはその前哨戦とみられる東京府
勧業博覧会の開催が告知されていたから、画壇の関心はまずこの博覧会に寄せられ
ていた。「海の幸」以来、しばらく沈黙を余儀なくした青木がここでもう一発、
野心作を企て、一挙に画界制覇の夢をかきたてたのは当然といってよい。こうして
できたのが彼の第二の代表作「わだつみのいろこの宮」である。
……………
さて、博覧会洋画部の出品者には、当時の名だたる作家のほとんどが網羅され、
鑑査総数二四三点のうち、油絵六九点、水彩パステル三一点が入選したと当時の
記録にみえる。もちろん青木としては入選は問題でなく、久しぶりに自信満々の作
であったから、国民新聞上に四日間にわたって自作解説を掲げたり、「日本及日本人」
誌上に世人の質問に答える文章を発表したりした。評判も例のように、とくに詩人や
文学者たちに高く、夏目漱石なども大いにこの作品を賞揚している。これで、公式授賞
の結果さえ納得のいくものであったら、あるいは青木のその後の運命も若干ちがって
いたことになっていたかもしれない。当時、この大作には二千五百円の価格が表示され、
彼としてはあわよくば一等賞を得てこれを売却し、海外留学の資にしようと期待をかけ
ていたようである。が、現実の運命はちょうどこの逆へ逆へと進み、彼の夢想は無惨に
くだけ去ることになった。
授賞式は七月六日に行われたが、すでに事前から審査不正の噂がとび、他分野では会場で
作品破壊事件が起こったりした。洋画部では一等には満谷国四郎、岡田三郎助といった
審査官をふくめた七名、二等が六名、三等が十名選ばれ、青木の「いろこの宮」はついに
三等賞の最末席という信じられない結果が出たのである。周囲の画家たちの実力のほどを
知っている青木の胸中は何ともおさまらぬものがあったであろう。
……………
没後に友人が編んだ年譜には
「この年の大作を出したる機とし、芸術的生涯の基礎を造らん
として焦慮するところありたれども、世は遂にこの画家を容れず、不遇に終わりたり」と
記してある。
『放 浪』
…………
家族と絶たれた孤独な晩期は、自由にも侘しい、あてもない日々の連続であった。
…………
当時の歌に、
父となり三年われからさすらひぬ家まだ成さぬ秋二十八
渦や我輪廻の運命(さだめ)流れてはまたもともどりかくて年ふる
といったのがあるが、すでに肺患のきざしがあった彼は、ずるずると
再起不能の状態に落ちこんでいったのである。
…………
「先夏は御手紙難有存候。……小生が苦しみ抜きたる十数年の生涯も
技能も光輝なく水の泡と消え候も、是不幸なる小生が宿世の……
唯残るは死骸にて候。是は御身達にて引取くれずば致方なく、小生
は死に逝く身故跡の事は知らず候故よろしく頼み上げ候。火葬料位
は必ず枕の下に入れて置候に付、夫れにて当地にて焼き、残りたる
骨灰は序の節高良山の奥のケシケシ山の松樹の根に埋めて被下度、
小生は彼の山のさみしき頂より思出多き筑紫平野を眺めて、此世の
怨恨と憤懣と呪詛とを捨てて静かに永遠の平安なる眠りに就く可く候。
…………。」
病床から姉妹あてに送った悲痛な手紙はすでに何度も紹介された。
………
こうして
鬼才青木繁は彗星のような一生を終えたのである。
そして
青木繁の絶筆は『朝日』であった。
<参考資料>『日本の名画32 青木繁』
河北倫明:編著者
野間省一:発行者
(株)講談社:発行所
『わだつみのいろこの宮』は不正審査との噂にも関わらず
運命の歯車が狂い始めた作品となる。
TAZUKO多鶴子は審査とは何だろうかと…
青木繁の生涯を知った時から強く疑問を抱いている。
今日は、青木繁の『青春の悲劇とロマン…鬼才青木繁の生と死と』の文章から
一部を抜粋して皆様にご紹介します。
<青春の悲劇とロマン…鬼才青木繁の生と死と>…河北倫明
『わだつみのいろこの宮』
……………
こうした中で、いよいよ当時の美術界の一大段落を作った明治四十年が訪れてくる。
秋には政府主催の第一回文展が予定され、春四月にはその前哨戦とみられる東京府
勧業博覧会の開催が告知されていたから、画壇の関心はまずこの博覧会に寄せられ
ていた。「海の幸」以来、しばらく沈黙を余儀なくした青木がここでもう一発、
野心作を企て、一挙に画界制覇の夢をかきたてたのは当然といってよい。こうして
できたのが彼の第二の代表作「わだつみのいろこの宮」である。
……………
さて、博覧会洋画部の出品者には、当時の名だたる作家のほとんどが網羅され、
鑑査総数二四三点のうち、油絵六九点、水彩パステル三一点が入選したと当時の
記録にみえる。もちろん青木としては入選は問題でなく、久しぶりに自信満々の作
であったから、国民新聞上に四日間にわたって自作解説を掲げたり、「日本及日本人」
誌上に世人の質問に答える文章を発表したりした。評判も例のように、とくに詩人や
文学者たちに高く、夏目漱石なども大いにこの作品を賞揚している。これで、公式授賞
の結果さえ納得のいくものであったら、あるいは青木のその後の運命も若干ちがって
いたことになっていたかもしれない。当時、この大作には二千五百円の価格が表示され、
彼としてはあわよくば一等賞を得てこれを売却し、海外留学の資にしようと期待をかけ
ていたようである。が、現実の運命はちょうどこの逆へ逆へと進み、彼の夢想は無惨に
くだけ去ることになった。
授賞式は七月六日に行われたが、すでに事前から審査不正の噂がとび、他分野では会場で
作品破壊事件が起こったりした。洋画部では一等には満谷国四郎、岡田三郎助といった
審査官をふくめた七名、二等が六名、三等が十名選ばれ、青木の「いろこの宮」はついに
三等賞の最末席という信じられない結果が出たのである。周囲の画家たちの実力のほどを
知っている青木の胸中は何ともおさまらぬものがあったであろう。
……………
没後に友人が編んだ年譜には
「この年の大作を出したる機とし、芸術的生涯の基礎を造らん
として焦慮するところありたれども、世は遂にこの画家を容れず、不遇に終わりたり」と
記してある。
『放 浪』
…………
家族と絶たれた孤独な晩期は、自由にも侘しい、あてもない日々の連続であった。
…………
当時の歌に、
父となり三年われからさすらひぬ家まだ成さぬ秋二十八
渦や我輪廻の運命(さだめ)流れてはまたもともどりかくて年ふる
といったのがあるが、すでに肺患のきざしがあった彼は、ずるずると
再起不能の状態に落ちこんでいったのである。
…………
「先夏は御手紙難有存候。……小生が苦しみ抜きたる十数年の生涯も
技能も光輝なく水の泡と消え候も、是不幸なる小生が宿世の……
唯残るは死骸にて候。是は御身達にて引取くれずば致方なく、小生
は死に逝く身故跡の事は知らず候故よろしく頼み上げ候。火葬料位
は必ず枕の下に入れて置候に付、夫れにて当地にて焼き、残りたる
骨灰は序の節高良山の奥のケシケシ山の松樹の根に埋めて被下度、
小生は彼の山のさみしき頂より思出多き筑紫平野を眺めて、此世の
怨恨と憤懣と呪詛とを捨てて静かに永遠の平安なる眠りに就く可く候。
…………。」
病床から姉妹あてに送った悲痛な手紙はすでに何度も紹介された。
………
こうして
鬼才青木繁は彗星のような一生を終えたのである。
そして
青木繁の絶筆は『朝日』であった。
<参考資料>『日本の名画32 青木繁』
河北倫明:編著者
野間省一:発行者
(株)講談社:発行所