TAZUKO多鶴子

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『中原中也』…NO.4

2008-01-17 | TAZUKO多鶴子からの伝言
<中原中也 詩集より>

    『古代土器の印象』

認識以前に書かれた詩……
沙漠のたゞ中で
私は土人に訊ねました
「クリストの降誕した前日までに
カラカネの
歌を歌つて旅人が
何人こゝを通りましたか」
土人は何にも答へないで
遠い沙丘の上の
足跡をみてゐました

泣くも笑ふも此の時ぞ
此の時ぞ
泣くも笑ふも

     

 この「認識以前」の深化、
さらに評論『生と歌』(昭和3年10月、『スルヤ』第3輯に発表)の中で、
彼は次のように言っている。

『  即ち、それ(近代の諸主義)は叫びとそれの當の対象との関係を
 認識しようとしたことであつた。
 つまり近代は、表現方法の考究を生命自体だと何時の間にか思込んだことである。
 直覚と、行為とが世界を新しくする。
 そしてそれは、希望と嘆息 の間を上下する魂の或る能力、
 その能力にのみ関つている。

 認識ではない、認識し得る能力が問題なんだ。
 その能力を拡充するものは希望なんだ。

 ……要するに、すべてその物自体でなく、
 それを表現することゝかなんだか副次的なことでの困難は、
 何時も命に座標軸を課することから起きるのだ。
 つまり「みることをみようとする」態度から起こるのだ。 』


この文面から観ても『青山二郎』と同じ真意を観じる。
現在単純にダダの中原中也とされているが…
つまり
ダダであるようで…無ければ、シュールでも…無ければ、パンクでも無い。
『青山二郎』そのままである。
TAZUKO多鶴子はそのように思う。



参考資料:『中原中也詩集』
      編者:吉田ひろ生
      発行者:佐藤隆信
      発行所:(株)新潮社