TAZUKO多鶴子は小学校の頃から
上手くはなかったですが時々密かに詩を書いていました。
勿論!絵を描く事が一番でしたが…
と同時に、詩を読むのがとても好きでした。
最初に好きになった詩人は『中原中也』でした。
今になって改めて『中原中也』の詩を観じてみると
『中原中也』も天才の一人だと思います。
何度もブログでご紹介している陶器の天才目利き『青山二郎』。
『青山二郎』の自宅に文人たちが集っていた…
小林秀雄、河上徹太郎、中原中也、永井龍男、大岡昇平、白洲正子、宇野千代 等の
『青山学院』。
その中で『青山二郎』と同時に『中原中也』は他の誰よりも別格だったのではないかと思います。
それが現在の私が正直に感じている所です。
TAZUKO多鶴子は
以前よりも少しずつ答えがみえ始めてはいますが、
でも…まだまだ鮮明な答えは出ていません…。
その答えを知る為には
これから更に様々な事を体験し学ばなければなりません!
それでも…答えは出るのかどうか…でも…知りたいのです…。
同時に…何に対しての答えなのかも知りたいのです…。
今日はTAZUKO多鶴子が
初めて好きになった詩人『中原中也』の簡単なご紹介を致します。
下記をご覧下さい。
< 中原中也 >
中原 中也(なかはら ちゅうや、明治40年(1907年)4月29日 - 昭和12年(1937年)10月22日)は、山口県山口市湯田温泉生まれの詩人。旧姓柏村。350篇以上もの詩を残し、それらの一部は、中也自身が編纂した詩集『山羊の歌』『在りし日の歌』に収録されている。また、『ランボオ詩集』を出すなど、フランスの詩人の紹介にもつとめた。
全集はこれまでに4度刊行されている。最新の全集は、2000~2004年にかけて出された『新編中原中也全集』(全5巻、別巻1 角川書店)である。
中也の詩のなかで、最初に活字になったものは『朝の歌』と『臨終』である。それらは諸井三郎により歌曲になり、1928年の第2回スルヤ演奏会で歌われたのだが、その際、機関誌『スルヤ』に歌詞として掲載されたのである。詩集どころか詩さえも発表していない、ゆえにまったくの無名といっていい詩人の作品に音楽がつくのは、きわめて珍しいケースであるといえる。
諸井は、中也の生前、彼の詩『空しき秋』『妹よ』『春と赤ン坊』に曲をつけ、中でも『妹よ』はJOBKで放送された。また、『スルヤ』の同人であった内海誓一郎は、1930年に『帰郷』『失せし希望』に作曲している。
中也の死後、石渡日出夫、清水脩らをはじめとして多くの作曲家が曲をよせている。クラシック系の歌曲、合唱曲が多いが、演歌やフォークソングも生まれている。とりわけ、友川かずきによるアルバム『俺の裡で鳴り止まない詩』が知られている。中也の友人であった作家の大岡昇平も、『夕照』『雪の宵』の2篇に作曲している。
<参考資料>フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
上手くはなかったですが時々密かに詩を書いていました。
勿論!絵を描く事が一番でしたが…
と同時に、詩を読むのがとても好きでした。
最初に好きになった詩人は『中原中也』でした。
今になって改めて『中原中也』の詩を観じてみると
『中原中也』も天才の一人だと思います。
何度もブログでご紹介している陶器の天才目利き『青山二郎』。
『青山二郎』の自宅に文人たちが集っていた…
小林秀雄、河上徹太郎、中原中也、永井龍男、大岡昇平、白洲正子、宇野千代 等の
『青山学院』。
その中で『青山二郎』と同時に『中原中也』は他の誰よりも別格だったのではないかと思います。
それが現在の私が正直に感じている所です。
TAZUKO多鶴子は
以前よりも少しずつ答えがみえ始めてはいますが、
でも…まだまだ鮮明な答えは出ていません…。
その答えを知る為には
これから更に様々な事を体験し学ばなければなりません!
それでも…答えは出るのかどうか…でも…知りたいのです…。
同時に…何に対しての答えなのかも知りたいのです…。
今日はTAZUKO多鶴子が
初めて好きになった詩人『中原中也』の簡単なご紹介を致します。
下記をご覧下さい。
< 中原中也 >
中原 中也(なかはら ちゅうや、明治40年(1907年)4月29日 - 昭和12年(1937年)10月22日)は、山口県山口市湯田温泉生まれの詩人。旧姓柏村。350篇以上もの詩を残し、それらの一部は、中也自身が編纂した詩集『山羊の歌』『在りし日の歌』に収録されている。また、『ランボオ詩集』を出すなど、フランスの詩人の紹介にもつとめた。
全集はこれまでに4度刊行されている。最新の全集は、2000~2004年にかけて出された『新編中原中也全集』(全5巻、別巻1 角川書店)である。
中也の詩のなかで、最初に活字になったものは『朝の歌』と『臨終』である。それらは諸井三郎により歌曲になり、1928年の第2回スルヤ演奏会で歌われたのだが、その際、機関誌『スルヤ』に歌詞として掲載されたのである。詩集どころか詩さえも発表していない、ゆえにまったくの無名といっていい詩人の作品に音楽がつくのは、きわめて珍しいケースであるといえる。
諸井は、中也の生前、彼の詩『空しき秋』『妹よ』『春と赤ン坊』に曲をつけ、中でも『妹よ』はJOBKで放送された。また、『スルヤ』の同人であった内海誓一郎は、1930年に『帰郷』『失せし希望』に作曲している。
中也の死後、石渡日出夫、清水脩らをはじめとして多くの作曲家が曲をよせている。クラシック系の歌曲、合唱曲が多いが、演歌やフォークソングも生まれている。とりわけ、友川かずきによるアルバム『俺の裡で鳴り止まない詩』が知られている。中也の友人であった作家の大岡昇平も、『夕照』『雪の宵』の2篇に作曲している。
<参考資料>フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』