TAZUKO多鶴子

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『富岡鉄斎』をご存知ですか?

2007-04-25 | TAZUKO多鶴子からの伝言
小林秀雄、梅原龍三郎らが絶賛する絵画
『富岡鉄斎』(1836~1924年)
「最後の文人画家」と呼ばれる『富岡鉄斎』であるが
学者(儒者)が本職だと自称し、
絵画は余技である事を生涯貫く。
そして彼は画工と見られる事を嫌った。

「文人にとって最も重要なものは読書である。
書を読む事は、
博学多識になるばかりでなく、
古人の心にふれ、
自ら俗の部分をそぎ落とす行為に他ならない。
絵を描く主体である自分の人生(人格)を高めることこそが
文人の目指す理想の境地である。」
「自分は決して意味の無い絵は描かない」
「自分の絵をみる時は賛文を読んでくれ
(専門の画家が描いたものと区別してくれ)」
「絵は金にすべきものでは無いが、私は女子供を養わねばならぬ」

の言葉が口癖であったという。
富岡鉄斎は多くの展覧会の審査員になったが
自らは一般の展覧会に出品することはなかった。
その生き方にTAZUKO多鶴子は多くを学ぶ。
そして奥深い意味を観じる。

『富岡鉄斎』は京都に生まれ
石上神社、大鳥神社の宮司などを勤め
古社の復興などに尽力した一面と同時に絵の勉強をした。
89歳で没するまでに一万点以上の作品を描き
独自の境地を築きあげた。
幼少の頃の病気がもとで
耳が不自由であったが勉学に励み
儒学、国学、勤王思想、敬神思想、漢学、陽明学、
詩文、薫陶、南画、大和絵、などを学ぶ。

「鉄斎が鉄斎になりきったのは80歳を越してからである」
と小高氏の結論。
そして
「口の悪いので有名な横山大観も、
さすがに鉄斎については沈黙を守ると云う」
この文面は
『青山二郎 眼の哲学 利休伝ノート』に載っているのだが
更に青山二郎は云う、
「鉄斎の耳は、
南画家が世間を茶にして静寂を手に入れた、
その鋭い耳には及ばないかも知れません。
例えば静寂というものを知らない、
騒がしい耳かもしれません。
…昔の無声映画はそうだった。
…ひらひらした魂が無意識にじッと眼を捉えた先に、
…自然は人の心が顔に出るように、彼の前に姿を現すのでありました。
人の眼に静寂な古画が、彼を興奮させるのでした。
何故なら静に化粧された名画の奥には、
ただならぬ自然が捕らえられていたからです。
鉄斎の耳は、それはそれは良く見える耳で、
眼はいらなかったのです。
彼は手探りで描きました。
我々は鉄斎の画から色々な音を聞きます。
ざわざわ、さらさら、ぽちゃぽちゃ、
如何にも自然の中からの賑やかな楽しげな音です。
それは一見微笑を禁じ得ない、楽天的なものです。
苛立たしかった彼の一生は、何一つ不吉に感じることが出来ません。」
耳の不自由な富岡鉄斎の画に青山二郎はこのような感想を述べている。
天才青山二郎の心に響く
『富岡鉄斎』の生涯と作品に
私は多くを教えられ奥深い意味を学ぶ。
『青山二郎の言葉』と『富岡鉄斎の生涯と作品』
を深い心でどうか観じて下さい。

参考資料:
「青山二郎 眼の哲学 利休伝ノート」
 清荒神清澄寺のホームページ
 (財)布施美術館名品展
 フリー百科事典『ウィキペディア』








活けた花と無機物も愛でる日本の美…そして「花道」「華道」「いけばな」

2007-04-23 | TAZUKO多鶴子からの伝言
日本の美で『華道』を忘れてはいけない。
『華道』は
日本発祥の芸術と云われ、
現在は国際的にも広がっている
『花道』『いけばな』ともいう。
今では多くの流派があるそうだが
独断で極端にまとめていえば、
3次元空間と時間を加えた美を2次元空間に納めた極めた美。
だからからこそ
奥深い美を観じさせる『幽玄、侘び、寂び』
日本の美であるとTAZUKO多鶴子は観じている。
(もの言わずしてものを言う。
 絵画でいえば極めた線。
 そして又更には描かない線がある。
 精神に通じる線や無駄の無い線。
 また更にその先は無線の線。
 つまり描かずして描く。…禅問答のようである。)
それを理解すると
3次元空間で眺める『華やかな今が盛りの美』の
欧米のフラワーデザインとの世界とは
全く違った空間美であることが解る。
また…『華道』『花道『いけばな』の世界が広がると同時に
花器の文化の広がりとなる。
この事で青山二郎の言葉を思い出す。
「茶碗があったから茶人が生まれたような気がする。
そして毛筆という材料が確かに書家を造ったのである。
骨董書画と言われる、これが日本の高度な美の根本である」
その言葉の奥深い意味を私は理解する…。

一輪挿しなどの花を愛する習慣は古くは平安時代あたりまで、
『枕草子』などの文献資料からたどれる。
当初は既存の器を利用していたが、
後に花器が製作されるようになる。
華道としては、室町時代中期、
京都六角堂(頂法寺)の僧侶により確立された。
江戸時代中期から後期になると
それまで上流階級・武家階級のものから
広く庶民のたしなみへ変化していった。
また華道の歴史は、
仏教の伝来と発展に伴い、
仏前に花を手向ける供花に由来する説が有力であるそうだ。
しかし、
採取した植物材料を人間の知の監督下である空間にて再構成する行為から、
古代のアニミズムの流れを指摘する研究もある。

そしてTAZUKO多鶴子はこう考える。
自然の神秘を、
花器の上で表現しようとした生物・無機質全てを問わず
存在する全ての本質を追求する美。
TAZUKO多鶴子は
華道の歴史から多くを教えられます。
芸術とはそうでなければならないと!
そして更に、そのことから観じると
供花の説を含んだアニミズムでは無いかと…?。

同時にそれはとても大切な事を
今を生きる私たちに教えてくれているように思う。
ただ…残念なのは…
現在は華道、茶道、等と同時に芸術、また他の分野の世界も
遠い…遠い…
古い昔の大切な事を忘れてしまっている時代ではないかと…。

資料:フリー百科事典『ウィキペディア』
   



『能』の美

2007-04-22 | TAZUKO多鶴子からの伝言
日本の伝統的美意識
「幽玄・侘び・寂び」
その中の『幽玄』は
和歌・連歌・能楽など日本の中古~中世の
文芸・芸能における基本的理念のひとつである。
中国の仏典でも、もちいられ、
深遠にして神秘的真理を意味する言葉であった。
日本においても最澄などの仏典では本来の意味でつかわれ
文学的用例としては『古今和歌集』に
「興入幽玄」(興、幽玄に入る)としるされたのが最初。

『幽玄』は鎌倉~室町時代の連歌や能楽の世界へ継承され
『能』の基本的理念として展開していく。
『幽玄』は室町時代の芸術観ともいわれ
言葉の意味に表れず、
また目に定かに見えなくても
その奥の人間が観じることが可能な美の世界。
「今そこにある姿」の美しさを楽しむのでなく
そこに「隠された姿」の美しさを想像する
奥深く微妙で計り知れない美意識。
『美しく柔和な優雅さと品格』
この『幽玄』という美意識の『能』を
大成したのは世阿弥と観阿弥(父)であるといわれる。
特に世阿弥は
それまでの抽象的意識の『幽玄』を
具体的にわかりやすく提示した。
中でも世阿弥は
世界的にも類をみない傑出した演劇理論
『風姿花伝』能楽論書を残した。
この書は、教育論、人生論、美学論としても
現在でも高い評価を受けている。

『青山二郎』だけでなく
過去を振り返ると
更に500年以上も前の時代
1360年頃~1440年頃にも
日本文化を美しく生きた
『世阿弥』という天才がここにもいた!
TAZUKO多鶴子はこの本も近々読んでみるつもりです。
奥深い日本の文化と美学を追求する為に。


千利休の言葉

2007-04-21 | TAZUKO多鶴子からの伝言
   茶道
美の一法則とその誘いと
そして恋愛の戒め
   茶
恋愛…器から生まれたもの
   茶人
無欲、非情、静寂

千利休の言葉として伝えられている、
伝説の殆ど総てが、
その儘に鵜呑みにされて来ているところから来る、
その当時からの茶道の妄信とその無理解に就いて。

『利休伝ノート』 
<青山二郎>の草稿文章から


天才のお二人から頂くこの言葉は
茶道だけでなく
美、芸術、等、様々な世界に通じることだと
TAZUKO多鶴子は観じています。


ご注文のパステル画完成しましたよ(^ ^)

2007-04-20 | パステル画
ご注文のパステル画作品完成しましたよ(^ ^)
この作品は以前の紀伊國屋書店高松店で
ご注文頂いたものです。

ね!皆様!
本を読んでいても制作は誠心誠意頑張ってますでしょ!!
ですから
ご注文の皆様ご安心下さいね(^ ^)

このブログ写真のパステル画
制作しながら観じました。
とても温厚で優しい方だと
そして深みのある人格者だと
いつもこういったご注文の制作は
私自身が描くというよりは
描いている相手に描かせて頂いています。
このブログパステル画写真の方に
お礼を一言申し上げます。
温かさに触れる心地よい空間の制作時間を頂きました。
心休まるひと時を下さり本当に有り難うございました。
出会いに感謝致します。
お幸せをお祈り致します!