TAZUKO多鶴子

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奈良に行きたい…

2008-01-26 | TAZUKO多鶴子からの伝言

昨年8月末頃に京都へ転居して早5ヶ月の月日が過ぎました。
京都の昔の様々な文化に触れたくて…
しかし、なかなか時間が無く
今だにゆっくりと勉強する余裕がありません。
来月あたりから
その時間をつくりたいと思ってはいるのですが…。
昨年12月初めまでは『京都』をまず最初に!勉強しようと考えていたんですね~。
でも…12月中旬にはもう既に
何故だか『奈良』という文字が頭から離れなくなりました。
きっと…
画学生の頃『奈良』に住んでいた…からかもしれません。
『奈良』は素敵ですよ(^ ^)
春夏秋冬の季節を肌で感じられて…。
そう!忘れられないのは
特に!
あの春の日の『吉野山の桜』や『東大寺の桜』…
電車の窓から見える風景…至る所に桜の花が咲き乱れた光景を
今だに忘れる事が出来ないのです。
また『古美研』の授業で
数多くの神社仏閣や古墳を巡りました。
歩きすぎて足が棒になった日々が昨日のように鮮明に思い出されます。
あの頃もっと真剣に勉強するべきだったと今は後悔するばかりです。
でも、あの頃の素晴らしさを肌ではしっかりと覚えています。
特に画学生の頃からTAZUKO多鶴子は『仏像』の美しさに魅了されていました。
イタリアで数々の優れた『彫刻』を観ましたが、
奈良の『仏像』の美しさに触れたときの感動には勝りませんでしたね。
きっとTAZUKO多鶴子にはその方が肌に合っているのですね!
今『奈良』行きたい!
『奈良』での個展もありかな…?そのように感じています。
再度近々『奈良』に行ってよく考えてみようと思っています。
個展の事、作家活動の事、生活の事、今後の生き方の事…等…。
よく考えて、
一杯考えて…少しでも答えがみつかるよう…
頭で考えるので無く感性で観じてみようと思います。
皆様には、いつの日か
その答えを少しでもお知らせ出来る日が…来るかもしれません…。


『アインシュタイン』の格言

2008-01-25 | TAZUKO多鶴子からの伝言

<アインシュタインの言葉>

『 知性を神にしてはいけない。
 神は強い筋肉を持っているが、人格は持たない。』

『 知性は方法や道具に対しては鋭い鑑識眼を持っていますが、
 目的や価値については盲目です。』

『 空想は知識より重要である。
 知識には限界がある。想像力は世界を包み込む。』

『 私たちはいつか、今より少しは物事を知っているようになるかもしれない。
 しかし、自然の真の本質を知ることは永遠にないだろう。』

『 学校で学んだことを一切忘れてしまった時になお残っているもの、
 それこそ教育だ。』

『 何かを学ぶためには、
 自分で体験する以上にいい方法はない。』

『 第三次世界大戦はどう戦われるでしょうか。わたしにはわかりません。
 しかし、第四次大戦ならわかります。石と棒を使って戦われることでしょう。』


*アルベルト・アインシュタイン*
ノーベル賞受賞者
受賞年: 1921年
受賞部門: ノーベル物理学賞
受賞理由: 光電効果の法則の発見等
アルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein、1879年3月14日 - 1955年4月18日)は、ドイツ出身の理論物理学者。数多くの業績のほか、特異な風貌とユーモアあふれる言動によって、専門分野を超え世界中に広くその存在が認知されており、しばしば天才の例としてひきあいに出される。20世紀に於ける物理学史上の2大革命として”量子力学”及び”相対性理論”が挙げられるが、相対性理論の基礎をほぼ独力で築き上げたその業績から、20世紀最大の理論物理学者と目されている。光量子仮説に基づく光電効果の理論的解明によって1921年のノーベル物理学賞を受賞。従弟に音楽学者でモーツァルト研究者のアルフレート・アインシュタインがいる。
表記について、日本語では「アルバート・アインシュタイン」という表記が多いが、ドイツ語読みでは「アルベルト・アインシュタイン」、英語読みでは「アルバート・アインスタイン」となる。

参考資料:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『アレキサンダー大王』と『ガンダーラ美術』と『仏像』

2008-01-23 | TAZUKO多鶴子からの伝言

 初めて造られた仏像は
どのような流れで造られたのであろうか?
それは今だに鮮明で無い。
ただ…
『アレキサンダー大王』と『ガンダーラ美術』の流れ、
そしてギリシャとの絡みは
大いに関係があるようにTAZUKO多鶴子は思う。
今日はその視点で下記をお読み下さい。

<仏 像>
仏像が出現したのは釈迦入滅後500年以上経ってからである。最初の仏像がどこでどのようなきっかけで制作されたかは明らかでないが、最初期に仏像の制作が始められたのは西北インド(現パキスタン)のガンダーラと、中インドのマトゥラーの2つの地域であり、おおむね紀元後1世紀頃のこととされている。 ガンダーラとマトゥラーのいずれにおいて仏像が先に造られたかについては、長年論争があり、決着を見ていない。しかし、仏像がさかんに造られるようになったのは紀元後1世紀頃からインドを支配したクシャーナ朝の時代であることはほぼ定説となっている。クシャーナ朝のカニシカ王は釈迦の教えに触れて仏教の保護者となった。王は自国の貨幣に釈迦像と仏陀の名を刻印した。また当時の都であったプルシャプラ(現パキスタン、ペシャーワル)の遺跡からはクシャーンの王(カニシカ王とされるが異説もある)の頭上に釈迦が鎮座する図柄の舎利容器なども発見されている。
マトゥラーの仏像がインド的であるのに対し、ガンダーラの仏像がギリシャ彫刻のように彫りが深いのは、この地にさまざまな民族が侵入し、西方の文化を持ち込んだためである。紀元前330年頃にアレクサンドロス大王の遠征軍がペルシャを越え北インドまで制圧し、ギリシャ文化を持ち込んだ。その後も紀元前2世紀にはバクトリア王国のギリシャ人の支配を受けるなど、西方文化の流入は続いた。つまりガンダーラの仏教美術とは、仏教とギリシャ美術が融合した結果であった。
もともと仏陀像は釈迦の像に限られていたが、仏教の展開に応じて、いろいろな像が生まれ、仏教は偶像崇拝的性格を持つようになった。ガンダーラにおいても銘文から弥勒菩薩、阿弥陀如来、観音菩薩などであることが明らかな作例が確認されている。

参考資料:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『アレキサンダー大王』…NO.2

2008-01-22 | TAZUKO多鶴子からの伝言
『アレキサンダー大王』の<マケドニア王時代>
マケドニア王フィリッポス2世とエピロテ王女オリンピアスの間に生まれ、幼年期にアリストテレスを家庭教師に迎えギリシアの基礎的な教養を身につけた。紀元前338年、アレクサンドロスは一軍の将として父に従ってギリシアに出兵しカイロネイアの戦いでアテナイ・テーバイ連合軍を破る。これが彼の初陣であったが、このときアレクサンドロスは精鋭の騎兵を率いてギリシア軍を壊乱させ、マケドニアの勝利に大きく貢献した。父フィリッポス2世は全ギリシアの覇権を握ると続いてペルシャ東征を計画したが紀元前336年に暗殺された。
20歳の若さでマケドニア王を継承したアレクサンドロスは、敵対者を排除してマケドニアを掌握すると、トラキア人と戦うためにドナウ川方面に遠征して成功をおさめ、その隙に反旗をひるがえしたテーバイを破壊。父王暗殺後に混乱に陥っていた全ギリシアに再び覇を唱えた。ギリシアの諸ポリスと同盟したアレクサンドロスは、父の遺志を継いで紀元前334年にギリシア軍を率いてペルシャ東征(東方遠征)に出発した。

<マケドニア軍の強さ>
ギリシア世界で伝統的であったファランクスに加えて、馬匹の確保や地形に起因する運用の難しさからギリシアでは重視されなかった騎兵を組み合わせたマケドニア軍は、当時最高級の戦闘力を誇る軍隊であり、そのうえ各々の将兵はその軍務に誇りを持っていて精強の兵士であった。また、アレクサンドロス自ら行軍中にあっても荷馬車に乗り降りして体を鍛錬したと伝えられる。彼は常に最前線で将兵とともに戦い、自らの頭部や胸部に重傷を負うことさえあった。数々の戦場で危機を乗り切ったアレクサンドロスは神懸かった戦士であり、将兵から絶大な人気を得ていた。


<ヘレニズム文化>
ギリシア文化がオリエント文化と融合し華やかなヘレニズム文化がアレクサンドロスの帝国に開花し、ラオコーン像、ミロのヴィーナス、サモトラケのニケ、瀕死のガリア人などの優れた彫刻が各地に制作された。エウクレイデス、アポロニオス、アルキメデス、エラトステネス、アリスタルコスらの優れた学者も輩出し、その後、古代ローマ、イスラーム、ヨーロッパに強い影響を及ぼした。
さらに、東方奥深くに入植したギリシア人はガンダーラ美術に大きな影響を与えた。はるか極東の日本の法隆寺の柱にまでヘレニズム文化の痕跡が認められている。


参考資料: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『アレキサンダー大王』の言葉

2008-01-21 | TAZUKO多鶴子からの伝言

画家『青木繁』はアレキサンダー大王に少年時から憧れていたと云われる。
今日はそのアレキサンダー大王の言葉をご紹介します。

<アレキサンダー大王>

『いざ、進もう、われらは疲れもせず、渇きもせぬぞ』


インド遠征からの帰路、アレクサンドロスの本隊は不毛なゲドロシアの砂漠を行軍してペルシア本国へ向かった。
全軍焼け付くような喉の渇きに、兵士たちが飢えと渇きに苦しんで倒れていく。その時ひとりの兵士が王のために一杯の水を見つけてきた。しかしアレクサンドロスは「わたしは皆とともに渇きに苦しむほうを選ぶ」といって突如その水を大地に捨てたと云われる。


アレクサンドロス3世(ギリシア語:Αλ?ξανδρο? ο Μ?γα? ラテン文字転写:Aleksandros III Megas、紀元前356年7月? - 紀元前323年6月10日、在位前336年 - 前323年)は古代マケドニア王国のテメノス朝の国王であり、後世にはアレクサンドロス大王や、英語風にアレキサンダー大王と呼ばれている。

参考資料:出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』