文士の肖像
文士の肖像は、前回の「昭和の貌」に含まれるものですが、会場では、特にコーナを設け、 林と土門の作品を
並べて対比していました。
前回記事の松本清張、司馬遼太郎、山本周五郎、吉川英治も、「文士の肖像」に含まれるものです。
太宰治の有名な写真、林が撮っていたんだ。 カメラは意識しているのでしょうが、自然な姿の太宰、楽しそうな声が
聞こえてきそうです。 キャプションのコメントが面白いので紹介。
”織田作之助を撮影していると、「俺も撮れよ」と酔っ払い客に頼まれて撮影した。それが、兵隊靴で椅子にあぐらをかく太宰治だった。
戦後の「デカダン」の雰囲気を捉えた、林の代表作。” (銀座5丁目のバー「ルパン」 昭和21年(1946))
その、織田作之助(左の写真)。 上の太宰の写真は、付録で、こちらがメインだった。 織田作之助は肺結核で、撮影後、間もなくして亡くなった。
右の檀一雄、林に”写真なんてどうでもいいじゃないの、それより、飲もう飲もう”と誘いすぐ、酒になったようだ。 いかにも無頼派作家らしい生活状況が
うかがえる写真。 私は、女優・檀ふみの父で、家庭を棄てて別の女性と同棲したことぐらいしか知らなかったが、調べてみると、太宰とも深い交友があった
のですね。 林忠彦もバーでの飲み仲間であり、打ち解けた雰囲気で撮影しています。
左の田中英光?恥ずかしながら初耳の作家です。 太宰治に師事、心酔していたようで、この写真も、田中から、太宰と同じよ
うにバーで撮影してほしいと頼まれて撮ったもの。 なんと、撮影後まもなく、太宰の墓前で自殺した!
右の坂口安吾の仕事部屋での写真も有名。 で、坂口安吾を調べていると、彼の書いた「安吾巷談 麻薬・自殺・宗教」の中で
自身が覚せい剤ヒロポン(当時は合法だった)や、催眠剤中毒を何度も経験していて、孤独感から自殺を考えたこともあったよ
うだ。その中で、田中英光にもふれ、とんでもない大酒飲みで、同様に催眠剤中毒になっていると書かれている。 催眠剤は
眠るためではなく、早く酔うためだった。 田中の写真を見ると、一見、好青年が楽しそうに軽く飲んでいるように見えるが
実生活は女性とのトラブルもあり、苦悩のさなかだったのだろう。
火野葦平、「麦と兵隊」をNHKラジオの朗読で、ちょっとだけ聞いた記憶がある。
ところで、火野は戦時中、日本軍の中国・北京で報道部として、従軍記事などを買いており、林忠彦は在北京日本大使館の外郭団体で
日本の宣伝写真を撮影しており、知己だったと思われる。 キャプションに火野は林の「親分」で、親しい間柄だったとある。
火野は戦後は、戦犯作家として、この写真が撮られた昭和25年まで公職追放を受けた。
この写真の火野は、何となくよそ行きの顔をしていて、林の酒場肖像写真としては、イマイチと感じました。
調べると、火野も睡眠薬自殺だったんだ。
文士の肖像が掲載された雑誌など。
芸術新潮には、昭和写真界の三巨匠、木村伊兵衛、土門拳、林忠彦の座談会が掲載された。座談会の一部が抜粋されていて、この場で熟読しました。
座談会で土門と林が、一流の大家は素晴らしい、殊に志賀直哉や谷崎潤一郎は素晴らしいと述べていました。
その志賀直哉の写真です。 左が土門撮影。 右が林撮影。
私の好みは、右の林撮影のほうだ。
谷崎潤一郎。 左が土門撮影。 右が林撮影。
キャプションの内容。
土門は怒った顔を撮りたくてじらしたが、谷崎が泰然としていて、仕方なくシャッターを切ったようだが、撮影後、谷崎は襖を叩きつけるように閉めて出て行ったそうだ。
右の林の作品は、一応撮影が終わったふりをし、机の下に隠したカメラで撮影。 背後には「春琴抄」の絵。 夫人が「うちの谷崎の笑顔の写真はこれだけです」と喜んだ。
林が「自選傑作の1枚」という。
宮本百合子、名前だけ知ってる程度で、肖像写真も今回、初めて見ました。
元共産党委員長の宮本顕治の妻だったんですね。
左の林の写真のキャプションで、”「色白の博多人形のような童女をそのまま大きくした感じ」で、波乱万丈の人生を送ってきた人には見えなかったという”
宮本百合子の作品を読んでみたくなった。
吉行淳之介
左の林の作品キャプション ”林は「どうしたら人物を自然にリアルに、内面的なものまで写しだせるか」と自問しながら撮影した。
作家が生きた時代の雰囲気を色濃く伝えるのがその特徴”
右の土門作品のキャプション ”雑誌『文芸』で、「私の好きな・・・」という特集をした中の一枚。吉行は「私の好きな部屋」として肺結核
で入院中の清瀬病院外科病棟の大部屋を挙げた。”
井伏鱒二、共に書斎での写真。 右の土門作品は昭和26年の撮影、左の林作品は昭和43年の撮影。
井伏作品の「山椒魚」は、教科書?で読んでその情景が浮かんだ記憶がある。
佐多稲子も名前だけしか知らない作家。 調べると、複雑な出生の経緯や、大作家たちとの出会い、波乱万丈の人生など、自身の来し方が、小説の素材になったんだ。
左の林作品では、顔のクローズアップで作家の持つ豊富な人生経験を抽出したいという林の狙いが、見事に決まっている。
右の土門作品は、吉行淳之介のところで触れた「私の好きな・・・」シリーズで、佐多は好きな場所として、東京・南千住の陸橋で、撮っている。
佐多は「こんな場所に私は故郷を感じるのです」と記した。
大佛次郎、幼い頃、「鞍馬天狗」の映画に父がよく連れて行ってくれました。 その原作者なのですが、やはり、まともに著作を読んだことがありません。
こうして肖像写真を見ると、高潔そうな人柄がうかがえます。 大変な猫好きだったのですね。
井上靖
左:土門撮影、東京世田谷で昭和33年 土門は井上には10分で撮って帰りますと言いながら、実際には2時間かかった。
しかし、自分が考えている井上靖は表現できなかったという。
右:林撮影、東京世田谷で昭和45年 自然に・・・という林のモットーが見事に井上靖を捉えた。
林芙美子
有名な作家ですが、やはり、私は作品を読んだことがなく、「放浪記」などの自伝的小説で流行作家になった・・・というイメージだけでした。
左の土門の作品 東京・下落合 昭和24年 キャプションに”林芙美子の印象を土門は「その目は詩人そのものだった。あどけなく、寛容な光をたたえていた」”
といっていますが、この肖像写真からは、私は逆にふてぶてしさを感じます。
右の林忠彦の作品 東京・新宿 昭和26年頃 キャプション ”「書斎での林さんこそ、作家の厳しさを表現できる」と思い、日暮れまで待ち、室内光と
外光のバランスがとれる瞬間に撮影。「この書斎に通してもらうまでに10年近くもかかりました」” うーん、苦労の甲斐があって、いい写真です。
三島由紀夫
左の林の作品 東京・大田区馬込 昭和35年 キャプション”その人の個性や偉さなどが皮膚に表れてくるのを、ぎゅっとつかめば本当にいい写真になるが
三島は「顔の決まりがなく一番難しい顔の持ち主だった」”という。
右の土門作品 東京・目黒区緑が丘 昭和27年
確かに両雄の写真をみても、何かとらえどころがない印象・・・いい写真とは感じない。
三島由紀夫の写真は、細江秀公が撮った「薔薇刑」が有名で、東京国立近代美術館で見ましたが、この時の写真のほうが、生き生きとしていた印象があります。
川端康成
左の林作品 鎌倉 昭和45年 キャプション”無口で神経質な川端には「カメラを向けるのも怖い感じ」で、30年近く撮影して、「亡くなる1年前、やっとアップで目の輝きを
撮ることに成功した」という林の会心作。
右の土門作品 鎌倉 昭和26年 キャプション抜粋 高村光太郎は戦前に「土門拳のレンズは人や物を底まであばく。レンズの非情性と土門拳そのものの激情性とが実によく
同盟して被写体を襲撃する。」と記した。
第3章
林忠彦 『長崎ー海と十字架』から
土門拳 『古寺巡礼』から
平等院鳳凰堂夕焼け 京都 昭和36年
土門拳 『風景』から
わらぼっち 埼玉県朝霞市 昭和38年
林忠彦 『東海道』から
以上で特別展 昭和の目撃者 林忠彦vs土門拳の紹介は完了です。
次回は併催されていた「没後50年 藤田嗣治 日本での日々」の予定です。
人によって感じるものは違っても、そこには何かがあるわけで、
それは胸に迫って来ますね。
林忠彦氏の作品には、久しぶりに魂を揺さぶられた思いです。
展示会場では、時間がなくてじっくりと見れませんで
したが、ブログにまとめるときに、見つめると、いい
写真には、スルメのように噛むほどに味が増す感触が
ありました。特に、林忠彦氏の作品はそうでした。
越後美人さんにも同じ思いを抱いていただけるとは、
うれしい限りです。