昨年の暮れに行ったとき閉まっていた、「入江干拓資料館」に寄ってみました。
水門横の排水機場の建物の一角にあります。
展示室はこのとおり、一部屋で干拓後に発掘された土器類が中心です。
私が興味があったのは、内湖だった頃の様子でした。
内湖だった頃の写真が1枚あり、同場所の変遷が3枚の写真で捉えられていました。
赤丸が筑摩神社の森となっていますが、赤丸は消えてしまっています。 筑摩神社の森は左上のこんもりと繁ったところです。
小舟が一艘と浮島のような水草の繁みが見えます。
干拓後、農地と変わった入江内湖。 筑摩神社の森は左上です。
上の写真から30年後の様子。住宅がどんどん出来ています。 中央上に筑摩神社の森。
内湖だった頃は、米原が舟運で賑わっていた。(江戸時代の彦根藩の主導) 下の写真は蒸気と帆の動力なので、明治の初めの頃の船だと思います。 しかし、鉄道が出来ると、一気に衰退してしまった。
入江内湖の遺跡の説明。 平安時代末まで遺物が出てきたが、その後はないと説明されているところをみると、その当時の天変地異(地盤沈下か琵琶湖の水位上昇)で湖沼となったのではないでしょうか。 この後の記事で、その辺をフォローします。
中国の古代の武器の一種であるか戈(か、ほこ)の形に似ている出土品。
弥生式土器。 失われているところは石膏で補っているのですが、地図みたいな模様が美しい。
上と下の写真の須恵器は、新羅(現在の韓国)よりの移入品とか。 渡来系氏族が住んでいた可能性も。
赤い蓋のガラス瓶のなかには、腐食して泥炭化した水草から作った豆炭「すくも」が入っていました。 干上がった湖底からとって、乾燥させ、燃料にしたようだ。
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