2014年6月12日。
《目の前に忽然と広がる砂の大地。でもここは、元から砂漠だった場所ではない。そこにはかつて、豊かな「湖」が広がっていた。》
僕は人間の所業を考えていた。
目の目には、ただただ荒涼とした大地が広がっている。
僕が今いるこの街、ムイナク。
ウズベキスタン西部にあるこの街は、かつては世界第4位の面積を誇っていた豊かな湖「アラル海」に面した、豊かな港町だった。
でも今、そこにあるものは・・・。
通称「船の墓場」。
かつてはこの湖で大活躍していた船たちが、まるで墓標のように静かに腰を下ろしている。
その錆が痛々しい。
まるで何かを訴えているような・・・僕には、そんな気さえした。
かつてはここに、豊富な水があった。
人々はその湖から、多くのものを得、生活を成り立たせていた。
でも人間の所業は、なんとこの「世界第4位」の湖さえ干からびさせてしまった。
「船の墓場」に建てられている、かつてと今のアラル海の様子。
これを見れば、一目瞭然だ。
「20世紀最大の環境破壊」とまで言われている、アラル海の消失。
かつて社会の教科書から受けた衝撃の現場に、今僕は立っている。
でもこういう話は、何も特別なものじゃあない。
アマゾンの熱帯雨林だって北極の氷だって、何もかもみんな「人間の営み」がその消失の原因だ。
危険な発想なのかもしれないけど、僕は思ってしまう。
人間の存在そのものへの「原罪」を。
アラル海の消失について、あるガイドブックにこう書いてあった。
「人間が自然を克服したのだ。しかし、今度は湖そのものの消失という現実に直面している。」と。
アラル海は、そこに流れ込む川から大量の水を人間が引き上げたために消失へと向かった。
そうすることで、人間は安定的に農業を営むための水を手に入れることは出来たのだが・・・。
でもそれって、「自然を克服」したことなのか?
よく分からないけど、なんか違うんじゃないのか?
そうやって自然に抗うことで、人類は自らの首を絞め続けているんじゃないのか?
僕は人間なんて、自然に「抗う」ことなど出来ないと思っている。
自然と共に在り、自然と共に生き、自然を敬い、自然を畏れ、そして自然から得る。
そうして人間は生きていくべきなんじゃないかって思っている。
ここ数百年、人間は「そうじゃない」生き方を洗濯し続けてきた。
その結果・・・・
この有り様だ。
何分間、僕は立ち続けていたのだろう。
ただただ、ずっと「元湖」を眺め続けていた。
ただただ、ずっと・・・。
そして僕は考え続けていた、「人間の在り方」を。
僕は偉そうに「教育から日本と世界を変えたい」とか「最終目標は世界平和だ」などとほざいているけど、
この「消えゆく湖」を前にして、そんなん言ってられんのか、俺?
目の前の現実と、空回りする自分の理想。
その狭間で、目の前の「死にゆく船たち」は風と砂に晒されていた。
水の消失と共に、寂れてしまった町。
見るべきものは何もない、廃れた街。
でも、そこにある希望。
それは子ども達の存在。
どんな状況でも、子ども達は未来を信じてたくましくそこに在る。
だから僕らは、動かなければいけないのだ。
絶望ではなく希望を、無謀ではなく野望を秘めて。
目に映るものは何もない町、ムイナク。でも心に映るものはあまりに多い。
僕の心には何が映ったのか。僕の魂は何を記憶したのか。
自分で自分に問い掛けながら、僕はこの町を後にした。
2014年6月13日。キルギスとの国境にもほど近い田舎町、リシタンにて。
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《目の前に忽然と広がる砂の大地。でもここは、元から砂漠だった場所ではない。そこにはかつて、豊かな「湖」が広がっていた。》
僕は人間の所業を考えていた。
目の目には、ただただ荒涼とした大地が広がっている。
僕が今いるこの街、ムイナク。
ウズベキスタン西部にあるこの街は、かつては世界第4位の面積を誇っていた豊かな湖「アラル海」に面した、豊かな港町だった。
でも今、そこにあるものは・・・。
通称「船の墓場」。
かつてはこの湖で大活躍していた船たちが、まるで墓標のように静かに腰を下ろしている。
その錆が痛々しい。
まるで何かを訴えているような・・・僕には、そんな気さえした。
かつてはここに、豊富な水があった。
人々はその湖から、多くのものを得、生活を成り立たせていた。
でも人間の所業は、なんとこの「世界第4位」の湖さえ干からびさせてしまった。
「船の墓場」に建てられている、かつてと今のアラル海の様子。
これを見れば、一目瞭然だ。
「20世紀最大の環境破壊」とまで言われている、アラル海の消失。
かつて社会の教科書から受けた衝撃の現場に、今僕は立っている。
でもこういう話は、何も特別なものじゃあない。
アマゾンの熱帯雨林だって北極の氷だって、何もかもみんな「人間の営み」がその消失の原因だ。
危険な発想なのかもしれないけど、僕は思ってしまう。
人間の存在そのものへの「原罪」を。
アラル海の消失について、あるガイドブックにこう書いてあった。
「人間が自然を克服したのだ。しかし、今度は湖そのものの消失という現実に直面している。」と。
アラル海は、そこに流れ込む川から大量の水を人間が引き上げたために消失へと向かった。
そうすることで、人間は安定的に農業を営むための水を手に入れることは出来たのだが・・・。
でもそれって、「自然を克服」したことなのか?
よく分からないけど、なんか違うんじゃないのか?
そうやって自然に抗うことで、人類は自らの首を絞め続けているんじゃないのか?
僕は人間なんて、自然に「抗う」ことなど出来ないと思っている。
自然と共に在り、自然と共に生き、自然を敬い、自然を畏れ、そして自然から得る。
そうして人間は生きていくべきなんじゃないかって思っている。
ここ数百年、人間は「そうじゃない」生き方を洗濯し続けてきた。
その結果・・・・
この有り様だ。
何分間、僕は立ち続けていたのだろう。
ただただ、ずっと「元湖」を眺め続けていた。
ただただ、ずっと・・・。
そして僕は考え続けていた、「人間の在り方」を。
僕は偉そうに「教育から日本と世界を変えたい」とか「最終目標は世界平和だ」などとほざいているけど、
この「消えゆく湖」を前にして、そんなん言ってられんのか、俺?
目の前の現実と、空回りする自分の理想。
その狭間で、目の前の「死にゆく船たち」は風と砂に晒されていた。
水の消失と共に、寂れてしまった町。
見るべきものは何もない、廃れた街。
でも、そこにある希望。
それは子ども達の存在。
どんな状況でも、子ども達は未来を信じてたくましくそこに在る。
だから僕らは、動かなければいけないのだ。
絶望ではなく希望を、無謀ではなく野望を秘めて。
目に映るものは何もない町、ムイナク。でも心に映るものはあまりに多い。
僕の心には何が映ったのか。僕の魂は何を記憶したのか。
自分で自分に問い掛けながら、僕はこの町を後にした。
2014年6月13日。キルギスとの国境にもほど近い田舎町、リシタンにて。
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