松ちゃんの『やりっ放し やられっ放し』

あなたが気になりだしてから 世界が息づいてる(松任谷由実『緑の町に舞い降りて』より)

『破戒』(映画)を観て。

2006-06-10 17:57:44 | books
批評2~名著の映画化作品『破戒』~

つい先日、学校の図書館ライブラリで映画でも観ようかと思って
(まぁビデオだけど…DVDね。)

何観ようと、迷ったのは5分と無く
手に取ったのは
島崎藤村原作 市村昆監督 市川雷蔵主演の『破戒』だった。

断っておきますが、結構古い映画でして、勿論白黒です。
最初雷蔵氏演じる丑松が父親が営む山小屋を訪ねる場面などは
その信州の山の夜の暗さを表すためにしても「これでもよいのか」と
疑わざるをえないくらい画面いっぱいが黒く、殆ど分からないのである。

私は勿論小説でも「破戒」は読んだし
その上でどのように映画作品として作っているかと思い
今回観るに及んだのですが
鑑賞後の鑑賞として
あの長編小説を2時間弱という尺に収めるというのは、無謀と感じた。

それは、既にベストセラー作品の映画化に対する不信感の再確認であるし、それは、ますます増した。
丑松が下宿から出て行き、最後のテキサスに向かう場面までを描くには2時間という時間は短すぎる。
友達も土屋銀之助の他にもう一人居たはずだし
テニスである思いで仙太と組んで、負けて、校長をはじめ他の子ども達の嘲笑の渦の中に居た場面も
何気ないエピソードが、著者の言いたいメッセージのモチーフとなっていることもある。
(まぁ、僕の読み間違えかもしれませんが。)

また、猪子蓮太郎の遭難場面も事後的に描かれており
襲われるにしても、その理由というか、襲った側にとって猪子の思想が如何に危険か
というのが希薄で、場面の繋がりが何となくでしか分からないようになっている。
映画から何を伝えたいのかが分からなかったと共に
『破戒』が、藤村が描きたい伝えたい事は何なのかということを私は考え始めた。
私が考えるに、タイトル通り「破戒」なのか
当時の差別問題なのか。

勿論後者のはずである。
仮に前者だとしても、父親の戒めを破ることに対する激しさは全然強調されていないし
同じく丑松に破戒を律しようとする叔父との接触も、劇中でも冒頭部分しかない。
もし、これを映画の中でしっかり描ける事ができたなら
後者の問題というメッセージの強調にも助けることができるのではないか。
今、気付いた!!!

市村監督が小説から汲み取り、描きたかったのは
「猪子蓮太郎を尻目に、オモテで生きている民である自分の処世術に対する苦悩・葛藤」なのでは。
それを観るわたしたちが何を考える事ができるであろうか。
私が一番印象的な場面は、暗い部屋の中で刃で腕を切り込、流れくる血の色を見て
「五体、五臓六腑、血の色すべて同じではないか。他に何が違って蔑まされるのか」

といったような台詞で雷蔵が悶えている景色である。
根幹はそこであり、それは差別という問題の究極的な問いではないだろうか。
これは民でない者にとってもの、またそうで無い者にとってもの問いである。
そして、民でない者にとってもう1つ究極的な問いがある。

「その人と一生添い遂げられるか」
である。
これが、私が島崎藤村の『破戒』を読んで考え始めた事である。

今回映画を観て、既存小説の映画化に対して懐疑的になり、また、するにしても
その著作のメッセージと、それを効果的に見せるための方法を考えなければならないし

それが明確であれば、監督が汲み取ったメッセージがずれてても、それは監督の個性なのである。

相変わらず、市川雷蔵は男の私にとっても素敵な役者である。
本映画でも、丑松の苦悩をよく演じていたように私は、感じました。

(丑松の苦悩する暗すぎる青年が、小学生に人気であるのが不安だったが…)
世間体などを気にせず、丑松の中身人間性をとことん信じ、愛すお志保と、その姿は
僕にとって理想的な異性の姿になり

それを演じる島村志保はとても合っているように思えた。
要するに

お志保も島村志保も素敵なのである。