tokyoonsen(件の映画と日々のこと)

主に映画鑑賞の記録を書いています。

猫の本

2013-08-27 01:16:41 | 
 猫の本を5冊、続けて読んだ。(正確にはタイトルに「猫」のつく本。)

 昔猫を飼っていて、飼わなくなってから6年くらい経つ。今はもっぱら野良猫を観察したり、たまに近所の飼い猫に首筋をなでさせてもらったりするだけ。と言っても、この辺りの野良猫社会も移り変わりが激しいし、飼い猫も外に出て来なくなった。最近は閑散としている。野良猫が多ければ良いかと言えば、そうではないけれど、私の住んでるアパートの周りはコの字型の行き止まりになっていて、小さな駐車場もあり、野良猫が迷いこむのには中々向いた造りになっている。

 やっぱり猫には親近感が湧くし、挨拶くらいならわりと上手に出来ると思う。いなくなった猫や、なくなった猫が、たまに夢に出てきたりする。どの猫にもすごく感謝しているし、とても尊敬している。


 一冊目は、
 『私の猫たち許してほしい』、佐野洋子著、ちくま文庫1990年発行。

 もともとリブロポートから、1982年に発行されたらしい。言わずと知れた『100万回生きたねこ』の作者で、あちらは1977年発行なので、こちらが少し後になる。と言ってもこちらはエッセイ。そしてタイトルに猫がつくけれど、猫の話はほんのわずか、主に佐野さんの来し方、少女時代のこと、学生時代のこと、が書いてある。タイトルの「私の猫たち許してほしい」は、猫に見られ、猫を見てきた佐野さんの、愛憎やら憧憬やら距離感やら、言葉にできない様々な気持ちが詰まってるんだと思う。なんて知ったようなことを書いている自分がはずかしい。私も出来れば「私の猫たち許してほしい」と言いたい。


 『猫にかまけて』、町田康著、講談社2004年発行。

 猫好きで知られる町田康さんの、エッセイ。こちらはどっぷりと猫。ご自宅と仕事場にいる猫たちの様子が中心なので、猫と人間の共同生活が微に入り細を穿って描写されていて、とてもたのしい。町田さんはよく猫と会話されている。でもよく見ると、初対面の猫とは会話しない。気心が知れれば、会話する。
 猫にも色んな猫がいて、それぞれ全く違うんだなあと思う。じゃあ共通点は、何なのか。全く別の性格であっても、生物学的特徴以外のところで、「猫」に共通する何かがあるはずだ。やっぱり共通点はあるんです。それは多分人間にも、幾分かは共通している。(と思いたい。)


 『猫だましい』、河合隼雄著、新潮社2000年発行。

 12の物語をとりあげて、そこに描かれた猫と人間の「たましい」の関係について考察したエッセイ。

「 たましいは広大無辺である。それがどんなものかわかるはずもない。従って、何かにその一部の顕現を見ることによって、人間は「生きる」という行為の支えを得ようとする。しかし、他人とほんとうに生きようとする限り、それを超える努力をしなくてはならない。(略)

 猫は、どういうわけか、人間にとってたましいの顕現となりやすい。猫を愛する人は、猫を通じて、その背後に存在するたましいにときに想いを致すといいのだろう。」(最後のページより)

 猫には、何かを投影しやすい。嬉しくもあるし、怖かったりもする。「一部の顕現」とか、「ときに」という言葉は河合先生の配慮だろうか。


 『猫語の教科書』、ポール・ギャリコ著、灰島かり訳、スザンヌ・サース写真、ちくま文庫1998年発行。

 以前実家の母の蔵書(?)から見つかった、70年代から80年代初頭の「暮らしの手帖」のことを思い出した。すごく似てる気がする。恐縮する。猫の婦人が語る、若い猫への指南書で、結構辛辣であった。作者によるたのしい「編集者のまえがき」が付いていて、そこには、「…さらに読みすすむと、これを書いた猫は自分がメスであることをうちあけているが、こんなことはわざわざいわれなくとも、すぐわかる。というのも、この本のあちこちには実に意地悪きわまりない文章があって、こんなものはメスでなくては書けない。」と、あった。意地悪ではなくて、できれば社交的と言ってほしいのだけど。


 『猫のあしあと』、町田康著、講談社2007年発行。

 上段の、『猫にかまけて』の続き。ヘッケがなくなってから後の話。

 家の猫のほかにも、仕事場にはボランティア団体から預かった猫が何匹かいる。このままどこまで猫は増えるんだろう。ちょっと心配になるけれど、横に流れる水のように、猫と著者の時間はゆらゆらと、ざあざあと、ある時は心地よく、ある時は音を立てて流れて行く。実際にはとても大変なこととお察しするけど、著者はそういう風に書いている。
 著者は何回も言う。猫の命は預かりもので、いつか死んでしまうのなら、今日を出来るだけ楽しく過ごしてほしい、天に返さなくてはならないものなら、大切にしなくてはならない、人間の命も預かりものなのかもしれない、そう思えば、今を力の限り一生懸命生きよう、仕事を一生懸命しよう、気力も体力も知力も預かりもので、いつか利子をつけて返すのだ、

 やっぱり最後には泣いてしまった。起き上がって夜中の布団から出てみたけれど、行くところがない。猫もいない。

 

『ワールド・ウォー Z』

2013-08-23 23:16:33 | 映画-わ行


 面白かった。

 『アウト・ブレイク』のような、細菌もしくはウイルスによる、世界崩壊の日の話。

 ブラッド・ピット演じる国連捜査官のジェリーが、活躍する。スーパー・ヒーローじゃないのが良かった。
 特別な訓練を受けてるわけではなく(少しは受けてるだろうけど)、経験と勘と判断力と、あとは運という、いわゆる生命力みたいなものだけで、状況を乗り越えていく。
 何と言うか、曖昧だ。わりと、全体的に。

 どこもかしこもぼんやりとしたまま、主人公のジェリーが体験していることが、観客にとってもほぼ全てになる。目の前は鮮烈。ジェリーだってあまり分かってないのだ。捜査に出るくらいだから。それが良かった。話も映像もシンプルで脇道にそれず、見やすい。観ていて出し抜かれるようなところがない。
 そしてジェリー(=ブラピ)に連れられて、ゾンビの元を探る旅に出るのだった。

 集団ゾンビはほんとうに凄かった。何せ、速い。ゾンビになるのも、ゾンビになってからの動きも。異様に速い。壁を超える人柱、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』みたいだと言ったのは旦那だけど、これが見たかった。

 ブラッド・ピットはお父さん役が似合うなあ。悲しげな目をしたお父さんが。
 家族愛というのを一つの鍵にしたのは、ブラピの出演が決まったからなんじゃないか。個人的には、冒頭の「おい、流しに皿を下げろよ」、と言うところが好きだ。『ツリー・オブ・ライフ』(テレンス・マリック監督、2011年)の厳格な父親役よりも、こちらの「正しく優しい」お父さん役の方が、安心できる。余り喋らない方が、悲しげな目が引き立って、私は嬉しい。

 もともと三部作の予定だったそうで、続編の話題がもう出ているらしい。楽しみ。

 マーク・フォースター監督、2012年、アメリカ。
     
    
 
     

『陸軍登戸研究所』

2013-08-20 23:54:46 | 映画-ら行
 180分という、長い映画だった。

 2006年からの、6年間の撮影期間の間にも亡くなられた方は何人かいて、当時の関係者のインタヴューは貴重だ。
 当然取材と撮影を拒否した方もあったそうだけど、作品の中で質問に答える人たちは皆、生き生きと当時のことを語っていた。一人一人の人にとっては、人生の、若き日々の記憶なのだ。自分に照らしてみれば、そう思う。私の場合はちまちましたくそったれな記憶も多いけれど、その中にも愛着はある。ところがこちらは、国家規模の秘密に関する事柄なのだから。

 戦争に拘らずとも、祖父母に若い日の思い出をもっと話してもらえば良かったと思う。
 あまりそういうことには思い至らなかったけれど、一度何かで母方の祖母に戦争当時のことを尋ねた時は、祖母は憶えていることを話してくれ、「そういう時代だったから」と笑ってつけたしていた。でもあまり喋らなかった。
 特定の時代の話よりも、もっと個人的な感情の方を憶えているみたいだった。でもそれは、若き日のものではなくて、もっと最近のものだ。若き日の感情なんて、忘れているか、人に話すように整理されてはなかったんだろう。でももっと自分が良いインタヴュワーだったらな。て、映画と全く関係ないけれど。


 陸軍の秘密兵器の開発をしていた、「消された研究所」に関するドキュメンタリー。

 楠山忠之監督、2012年、日本。

             

『アイス』、『マイルストーンズ』  ロバート・クレイマー

2013-08-17 09:46:29 | 映画-あ行
  
 「アメリカを撃つ 孤高の映画作家ロバート・クレイマー」、という特集上映。 『アイス』(1969年)、『マイルストーンズ』(1975年)。

 60年代、70年代には何が起こったんだろう。憧れにも近い形でその残り香を嗅ぐ。ただしその時代に生きた人たちに向いた反発心を日々はじけさせつつ。また自分がその時代に自我として生きていたとしても、ネクタイをしめ、もしくは三つ折りの靴下を礼儀正しくも(もしくは慇懃無礼に)履いていたような気がしつつも。

 どうでもよいことだけれど、私自身はあまり直接的なものは好きではない。でも、あんまり抽象的なものも困ってしまう。その中間がいい。そこそこがいいのだ。そこそこ?その気分は現代的なものなんだろうか。ただ時代の気分に乗っているだけか、個人的なものなんだろうか。

 これほど作家というか、作家=撮ってる人を感じさせない映画は初めてかも。ドキュメンタリーとフィクションの合いの子のような映画だけど、フィクションの部分でさえ、私は作家性を感じなかった。感じなかったのではなく、もしかしたらロバート・クレイマー自身が、忘れていたのかもしれない。自分自身を映し出すのを忘れていたのかもしれない。映像の向こうを見つめすぎていて。そういう意味では、この二本の映画においては、私はこの監督が好きだ。そしてこの人には、確かに「孤高の」という冠がふさわしいのかもしれない。垂直性を持たない、「水平方向に転がり続ける、孤高」という意味で。


  


『ふじ学徒隊』

2013-08-10 11:27:54 | 映画-は行
 透明で、深い湖をのぞいているような気持ちになった。

 動いているものがほとんどない。沖縄の自然だけだ。壕からカメラが外をのぞくと、葉っぱが風に揺られている。今度は、深い湖の中から、水面を見上げているみたいだ。

 上映時間48分という、短くて、シンプルなこのドキュメンタリーは、深い深いところまで潜って行って、そしてまた戻ってくるという運動のようだ。48分間というのは、息を止めていられる時間なのかと思う。

 野村岳也監督、2012年、日本。


 海燕社という会社が作っていて、野村監督もこの会社の人みたいです。『イザイホウ』(1966年)も是非観たい。製作日記がとても面白い。 http://www.kaiensha.jp/column01.html


    

『三姉妹 雲南の子』

2013-08-09 21:29:49 | 映画-さ行
 もしかしたらこれは、寓話だろうか。
 あんまりにも映像が美しいから、そんなことを思った。

 標高3,200メートルの空気は少し硬質なようで、なんだかざらざらしている。青い空。どこまでも続く山。薄い雪。薄暗い屋内。光と影。どのシーンも絵画を観ているようだった。

 そして貧困がある。
 監督はたまたま雲南へ出掛けていて、偶然この三姉妹に出会ったそう。そして姉妹の関係、内面に興味を持った。同国人の監督自身が、こう仰っている。「まさに“赤貧洗うが如し”という、生きていくということがただひたすら困難であるという状況を初めて目にしました」。

 これは寓話ではないので、この三姉妹のその後もまた映画に撮ってほしい。
 ただ、この三姉妹はどれだけのことを知っているのだろうか。この次は、この次があるとすれば、カメラに背を向けるかもしれないし、それは誰にも分からないけど。
 うずうずする映画だった。驚きやら憐れみ(!)やら不安やら喜びやら、色々な感情がわいてきた。そぐわないかもしれないけど、羨ましいとも思った。

 中国西南の雲南地方。最貧困と言われるこの地方の、標高3,200メートルの山間の村に暮らす、三姉妹を追ったドキュメンタリー。第69回ベネチア国際映画祭オリゾンティ部門最優秀賞、などなど。

 ワン・ビン監督、2012年、フランス・香港。


    

『荒野の七人』と、『007/ロシアより愛をこめて』

2013-08-07 20:45:48 | 映画-か行
 新橋文化劇場にて、二本立て。

 一本目は『荒野の七人』、ジョン・スタージェス監督、1960年、アメリカ。

 『七人の侍』と比べれば、戦闘シーンの迫力が今一つな気がする。やっぱり、刀と銃だから。やっぱり飛び道具はちょっと。
 こちらで撃って、あちらに当たる。おおすごい腕前!という昂揚感もあるけれど、何て言うか距離がありすぎるからか、身が震えるような感じはどうもしない。ぶるっとしない。
 他の場面はとても面白かった。
 スティーブ・マックイーンが格好よいなあ。ユル・ブリンナーもスリムで。そのせいか、そうでないか、菊千代に変わるチコ(ホルスト・ブッフホルツ)には目が行きづらい。農民出身でガンマンに憧れる、というのは面白いキャラクターだけれど。しかし素朴な疑問だけど、西部の農民はみんな銃を持ってるんじゃないのかしら。ガンマンって、賞金稼ぎのこと?
 そう言えば、マックイーンはまだ始めの方のシーンで、ユル・ブリンナーに、これからどうするんだ?と聞かれ、雑貨屋でも手伝うさ、と答えていた。エプロンをつけて、レジを打ってるマックイーンを思い浮かべてしまった。(レジ、ないですけども、この時代。)



 お次は、『007/ロシアより愛をこめて』、テレンス・ヤング監督、1963年、アメリカ・イギリス。

 007。始まりでずいぶんわくわくする。まずアクションがあり、それからクレジット。格好良いなあ。女体を流れるクレジット。この部分でもう期待感がマックスに。
 でもその後、何だかソ連人らしき人も、英語を喋っていた。その辺で戸惑い、筋がつかみにくい。どうも、当時の政治的な配慮から原作とは少し変えているらしいけど、悪の組織「スペクター」が何だかよく分からないことに。
 でも筋よりも、音とか色とかセットとか、俳優さんだとか、スパイの小道具を見ていると、楽しかった。


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W.サローヤン 『ワン デイ イン ニューヨーク』

2013-08-04 21:34:37 | 
 ブック・オフで、ヘミングウェイ短編集3がないかなと探していたら、こちらが目に入って購入。ヘミングウェイより9歳年下の、サローヤンさんだ。

 元々の原題は、“One Day in the Afternoon of the World”(1964年)。66年に、『人生の午後のある日』というタイトルで訳が出ていて(大橋吉之輔訳、荒地出版社)、今回は『ワン デイ イン ニューヨーク』。

 「初めは『この世の一日、とある午後』と、本書を中年らしく解釈していたわたしも、訳了後は、おいしい水のようなこの一冊を『ワン デイ イン ニューヨーク』と名づけたく、原題といささか変更したことを、サローヤンさんと読者の皆さんに一言釈明いたします。しかし、まさにそうした一冊ではないでしょうか。」

 と、訳者の今江祥智さんがあとがきで仰っている。

 主人公が自分の戯曲のタイトルについて、プロデューサーと言い争うところがあって、面白かった。なんと、『私の金(my money)』か、『キス、キス、キス!』かでもめている。主人公は断固として、『私の金』で譲らないけどね。上記とは特に関係ないけど、思い出した。


 最初の十数ページで、いつの間にか、主人公の人となりやその家族や、周りの環境が分かってしまう。ほとんど会話をしているだけで。ラストの十数ページで、一気にスピードがあがる。それまでの色々な出来事が、一気に収束して行く。このスピード感は気持ち良かった。

 親友との会話、エージェントとの会話、息子との、娘との会話。
 すべて生き生きして面白かったけど、最後の、別れた妻ローラとの会話を抜き書き。

 ※
 「わたしは楽しいときが好き。いまが好き。あとのことは考えたくないわ」
 「いまだってあとと同じなんだよ」
 「何かがほしいとしたら、それを手に入れるためには何かしなきゃならないわけ?」
 「それ以外にないじゃないか」
 「与えられるってこともあるわ」
 「愛情は与えられることもあるさ。ほかのものは違うね。もし愛情じゃ不充分というのなら、満足できるものを見つけることを考えなきゃならんだろ。たとえば、いい芝居の主役をやりたいのに、誰もやらせてくれんとしたら、そいつを手に入れるための一つの方法は、そんな芝居を書くことだ」
 「どんなふうに?」
 「本気なら簡単さ。そうじゃないのなら、違うね。とっても難しいね。おそらく不可能だ」
 「ほしいものを手に入れられるほかのやり方がある?」
 「ないね。自分のほしいものを知らなかったり、はっきりしなかったりなら、要りもせんものを手に入れたり、別の物を手に入れたりする方法はいくらでもあるさ。ただし、自分のほしいものを獲得する道はただ一つ、自分で行ってそれを獲得することだ。君は本当のところ何もほしくはないのかもしれない。とかく、たいていの人がそうなんだよ。それはそれでまた意味もあるんだ」
 「わたしのほしいものが百万ドルだったら?」
 「自分がいま出てるような芝居を書くことさ。あの芝居は百万ドルを当てこんで書かれてるってさっき言っただろ」
 「ほかに百万ドル手に入れられる方法ないの?」
 「二百万ドル持ってる男と結婚するんだな」
 「ほかには?」
 「金持ちの父親を持つこと」
 「ほかには?」
 「ヒット商品を発明して特許をとることだな」
 「ヒット商品って何なの?」
 「わからんよ、でもそれを発明してごらんよ、きっと百万ドル手に入るさ」
 「飲みましょうよ、うんと」と、ローラ。
 「いいや」

 (p.310~p.311)

 ウィリアム・サローヤン著、今江祥智訳、昭和58年、ブロンズ新社。今回は、新潮文庫版(昭和63年)。     

            ワン デイ イン ニューヨーク (新潮文庫)


      

『八月の鯨』

2013-08-03 21:09:00 | 映画-は行
 この描かれた一日は、老姉妹にとって、特別な一日だったんだろうか。それとも、似たような日々の中の、ありふれた一日なんだろうか。

 どっちでも良いけど。良くないかな。

 それよりも、こうやって少しずつ違うバージョンの色んなことを繰り返して、そうやって一日一日は過ぎてゆくんだなあと、感慨深く思った。
 それで、一日一日が過ぎてゆく間に、人は老いてゆくんだなあ。きっと。少しずつ違うバージョンの一日一日。この言い方いいな、古き良き言い方って感じがして。

 それでもこの一日には色々あったけれど。映画の中のことです。自分のことじゃないですよ。

 リリアン・ギッシュ演じるセーラが、もう整える場所もないのに、部屋の中を見渡し、クッションを持ち上げて叩いてから戻す場面が、印象的だった(表面のへこみ具合がほんの少し変わったくらいで、ほとんど意味はない)。そういうのって好きだ。
 決まったものが決まった所に。部屋の壁に差した手紙も、何十年もそこにあるんだろう。もう読むわけじゃないんだろうな。

 リンゼイ・アンダーソン監督、1987年、アメリカ。リリアン・ギッシュが妹役で、ベティ・デイビスが姉役。ほんとの歳は、ギッシュが12歳上らしいけど。

 (1988年に岩波ホールで31週間上映し、連日満員だったという。岩波ホール創立45周年記念上映のニュープリントが、他の映画館に回って来た!大画面で観られて嬉しかった。)


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