「心の声を聴く」。
と言うと、どうも陳腐でなげやりな励まし、のような感じがしなくもないが、実は割と、心の声に従うのは重要なんじゃないかと思う。心の声とは、言い換えれば無意識の声だ。
なぜなら、心の声は結構正しい。
と思う。
ただ自分がその時に理解できていなくて、意味が分かってないのだ。そういうことが多い。後から気が付くのである。「あ、これってこういう事だったんだ。」
疑り深い私は、ずいぶん長い間、心の声を信用してこなかった。「またそんな事を言って。訳がわからない。」と思っていた。もしくは気が付かないことが多かった。自分の判断と、それによる行動の方が確実だと思っていたのである。
それがここ何年かの観察と検証の結果、「心の声は結構正しい」という結論にたどり着いた。「自分の判断と、それによる行動」だって、その時自分で意味が分かる、という意味では確実だが、それ以外に確実なものはない。
心の声は、実は結構ちゃんと仕事をしている。
それに従っていると、ああこういう事だったのね、と自然と流れるように物事が進んだりする。心の声は、アクロバティックでさえある。
「結構」というのは、保留だ。
100%ではないからだ。と、やっぱり疑い深い。
間違えるとか失敗するというより、修正の必要な時はある。外の力が加わるから。
その、外的な力と拮抗した時に初めて、心の声が自由になったと感じるのである。
なんてね。今ここに書いたことも、心の声が言ってるのか、自分の脳が言ってるのか、まだ分からない。心の声だとしたら、今思うこととはまた別の意味があるのかもなあ、なんて思う。
と言うと、どうも陳腐でなげやりな励まし、のような感じがしなくもないが、実は割と、心の声に従うのは重要なんじゃないかと思う。心の声とは、言い換えれば無意識の声だ。
なぜなら、心の声は結構正しい。
と思う。
ただ自分がその時に理解できていなくて、意味が分かってないのだ。そういうことが多い。後から気が付くのである。「あ、これってこういう事だったんだ。」
疑り深い私は、ずいぶん長い間、心の声を信用してこなかった。「またそんな事を言って。訳がわからない。」と思っていた。もしくは気が付かないことが多かった。自分の判断と、それによる行動の方が確実だと思っていたのである。
それがここ何年かの観察と検証の結果、「心の声は結構正しい」という結論にたどり着いた。「自分の判断と、それによる行動」だって、その時自分で意味が分かる、という意味では確実だが、それ以外に確実なものはない。
心の声は、実は結構ちゃんと仕事をしている。
それに従っていると、ああこういう事だったのね、と自然と流れるように物事が進んだりする。心の声は、アクロバティックでさえある。
「結構」というのは、保留だ。
100%ではないからだ。と、やっぱり疑い深い。
間違えるとか失敗するというより、修正の必要な時はある。外の力が加わるから。
その、外的な力と拮抗した時に初めて、心の声が自由になったと感じるのである。
なんてね。今ここに書いたことも、心の声が言ってるのか、自分の脳が言ってるのか、まだ分からない。心の声だとしたら、今思うこととはまた別の意味があるのかもなあ、なんて思う。