tokyoonsen(件の映画と日々のこと)

主に映画鑑賞の記録を書いています。

『ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅』

2014-05-25 22:52:30 | 映画-な行
 美しさとこっけいさが、同時に現れて何とも心がおぼつかなかった。これは、人間らしいってことだろうか。

 白黒画面の美しさと、その上で繰り広げられる人間模様のこっけいさ。ハートウォーミングなんてお呼びじゃない。息子のデヴィッドが「いい景色も見れたしね。」と言う。これほどなあなあの言い草はないだろう。私は観客で良かったと思った。デヴィッドの言う「いい景色」は、私たち観客にはちっとも見えていなかった(多分)。違う景色を私たちは見ていて、心が揺さぶられていたのだ。
 ラストはね、私はもうウディは天に召されるしかないんじゃないかと思うんですよ。息子も多分、そう感じている。

 大胆だけど、ささやかで単純な親父の夢の辻褄を合わせた後、息子はどこへ行くんだろうと思う。しかし至福への旅は、アメリカン・ムーヴィーの中に続いている。輝ける、若さと策略と冒険が、そこには閉じ込められている。私たちはいつもそこへ一攫千金に帰るのだ。
 この映画を観た人は、心を残した故郷を通り一攫千金の夢へ向かう老ウディの心性と、そのドライでチープな一攫千金のからくりを、両手に持って受け入れる。
 画面の向こうのだだっ広そうなアメリカと、画面そのものの美しさが、すでに不思議な郷愁を帯びていた。
 面白かった。

 第66回カンヌ国際映画祭最優秀主演男優賞受賞(ブルース・ダン)。
 アレクサンダー・ペイン監督、2013年、アメリカ。


  

『アクト・オブ・キリング』

2014-05-15 22:17:24 | 映画-あ行
 裁かれる悪はどこなのか、観ている間中、焦点が合わなくて困った。

 虐殺者アンワルによる、自身の過去の相対化。次第にそれがあらわれてきて、それがこの映画の肝の一つなのは分かるけれど、それさえも吐き気を催す。どんな状況にせよ人間が崩れていくのを見て、心地よいわけがない。
 この映画をまだ観ていない人には、とりあえず観てと、言うしかないけど、ここには何かが決定的に欠けている。

 映画の意図に欠けているのか(わざと欠けさせているのか)、登場人物たちの精神や世界に欠けているから、結果として欠けているのか、よく分からない。とにかく目立つのは人為の俗悪さだけで、それが全編満ち満ちている。
 言ってみれば、天為や自然はどこへ行ったんだろうか。あるはずのものが(私はそう思うのだけど)ないので、あまりにもバランスに欠けて気持ちがわるいのだ。
 インドネシアの土地や、国を全く知らないので、何も言えない。


 観た翌日に、たまたまインドネシア経済の研究者に会ったので、この映画の話をしたところ、「インドネシアは何万という島で出来ているから、一つの国として見るのは誤りだ」と言われた(彼はこの映画は観ていない)。それでますます焦点が合わなくなった。


 ジョシュア・オッペンハイマー監督、共同監督クリスティン・シン、2012、デンマーク・ノルウェー・イギリス。


     

『ネイチャー』

2014-05-03 20:44:27 | 映画-な行
 BBC earth の『ネイチャー』3Dを観た。

 丁度アイザック・ディネーセンの『アフリカの日々』を読んでいる所だったので、草原のシーンなどは、本の中のシーンがよみがえって動き出したような感じがした。
 もっとも訳者の解説によれば、ディネーセン自身は「この本に、写真を入れることを拒み通した」という。著者の内部で変容し結晶したアフリカ像を、写真はとらえ得ない、ということらしい。写真というのは、当時著者が撮った写真だろうか。
 フィルムと文字では切り取り方がちがうし、浸透して行く方向がちがう、というのであれば何となく分かる気がする。そうであれば、ディネーセンの思いが描写したアフリカと、このドキュメンタリーの草原は別物ということになる。
 とは言うものの私にとっては、ディネーセンの文章に現れるアフリカと目の前の飛び出る草原は、かなり近しい。


 フラミンゴが楽しかった。火山の湖を埋めつくすようなフラミンゴの群れは、藻を食べて、赤くなる。赤くなると、今度はダンスが始まる。まだ白っぽいフラミンゴの間を、赤いフラミンゴの集団が、首を高く伸ばして練り歩く。上空から見たフラミンゴの群れは圧巻だ。

 そしてナイルワニ。「このワニたちは、一年以上食事をしていません。」って…、大丈夫なんだ。
 それからワニがヌーの群れに襲いかかり、喰らいついて水の中に引きずり込む。
 この映画の撮影期間は、たしか五百何十日だったけど、ワニたちと一緒に、撮影クルーは日一日、一年以上、水を飲みにヌーの群れがやって来るのを待っていたんだろうか。


 野生動物は、生きるために生きているようだ。種の保存のためとも言うんだろう。水を飲み、栄養をとり、眠る。生殖をし、子育てをする。命を長らえさせること、それのみのために生がある。
 人はそれではいけないんだろうか。人も、生きるために生きるんでいいんじゃないかとも時には思う。食べて寝て、それができれば万々歳。しかしそれは人に言わせれば、怠惰ということになる。
 
 生きるために生きるのが、簡単になったからだろう。もちろん社会にもよるし、野生動物に比べればということだけど。

 簡単になったとはどういうことだろうか。
 
 社会のシステムにかろうじてついて行けさえすれば、今の日本で食べ物を手に入れ、安全な場所で眠ることはそう難しくはない。ひどく簡単なのだ。

 お釈迦様ならぬ、何者かのてのひらに乗ってさえいれば。欲望と自我を何者かにゆだねきるか、もしくは殺すことができれば、日々を過ごすのはわりと簡単そうに見える。ただしその何者かは、自分ではないことだけは確かだ。

 怠惰とは何か。
 システムに乗ることが怠惰なのか、乗らないことが怠惰なのか。

 システムを作るという選択肢は、野生の世界には無さそうに見える。


 『ネイチャー』(原題は『Enchanted Kingdom 3D』)、2013年、イギリス。パトリック・モリス、ニール・ナイチンゲール監督。