tokyoonsen(件の映画と日々のこと)

主に映画鑑賞の記録を書いています。

三番目の自由

2017-10-23 23:31:07 | 日記
 うとうととしていたら、古い友達の夢を見た。

 と言っても何か話したわけでもなく、何かしたわけでもなく、ただ夢に出て来た。


 小さい頃団地の隣同士に住んでいた幼なじみで、同い年だったこともあり、色んな事を一緒にした。

 小学校に上がった頃から、お互い引っ越しも多く、出たり入ったりした。二十歳くらいの時、電車の中で偶然に会ったのが最後だ。その時は、隣には住んでいなかった。

 十代を一緒に過ごさなかったので、もうほとんど会ったり話したりすることもなかった。お互いがどんどん変わって行く年齢だったからか、偶然会ったのが少し恥ずかしいような、眩しいような気持ちがした。
 ような気がする。

 半分起きているような、半分眠っているような状態のまま、なんだか無性に会いたくなった。
 Mちゃんは、元気にしてるだろうか。
 実家に古い写真が残っていて、何枚かはよく覚えている。その中の私たちは、とても自然な感じだ。
 

 多分、つてをたどれば連絡はつくと思う。でもそうしない。
 たとえ再会したとしても、なぜ会いたくなったのかを、うまく説明出来る気がしないから。


 どこかで、四つの自由という話を読んだことがある。

 ①時間の自由
 ②場所の自由
 ③人間関係の自由
 ④目的の自由

 私もその自由が欲しいと思う。
 ただやっぱり、人間は不自由だな、と思う。


 


 

市井の人

2017-10-10 13:54:24 | 日記
 連休中、久しぶりに色々な人に会った。
 一人は二年振り、二人は十数年振り、一人は八年振り、そして一人は、二か月振りくらい。

 人は、市井の人になるために、苦労しているんだなと思う。
 苦労というか、工夫というか。


 いかにして「市井の人」になるか、確かに生まれた時からずっとそれをやって来ている気がする。
 
 無我夢中で行き当たりばったり、やり方も分からず、五里霧中、紆余曲折の右往左往、七転八倒(それは大げさ)、とにかく、何がなにやら分からないまま、とり急ぎ、とりあえず、身体機能と共に、今ここにいるけれど。


 「市井の人」というのは、例えば電車のホームでたまたま隣に立つ人に、認められるようなことだろうか。

 こちらも認め、あちらからも認められる。

 ただそれだけと言えばそれだけだ。
 

 時代もあるのかと思う。
 生きること自体が難しくても、「市井の人」になるための道筋に限れば、比較的簡単だった時代もあったのかもしれない。
 昔の人に聞いてみないと分からないけれど。

 「市井の人」というのは、先日の会話の中で友人が言った言葉だ。

 
 自分はちゃんと「市井の人」、「巷の人」に、なれているのだろうか。
 いかんせん、人生はそこそこ過ぎているから。