tokyoonsen(件の映画と日々のこと)

主に映画鑑賞の記録を書いています。

『世界一美しい本を作る男 シュタイデルとの旅』

2013-09-30 20:11:18 | 映画-さ行
 世界一美しい本って、どんな本だろう。と思い、観に行く。
 残念なのは、美しい本は映像では伝わりづらいということだ。手触りや、匂い。シュタイデル社のゲルハルト・シュタイデルさんは何度も何度も紙を手に取りそう言うけれど、客席ではよく分からない。

 でもシュタイデルさんの情熱は伝わる。
 昨日『スティーブ・ジョブス 1995』というインタヴュー・ドキュメンタリー(?)を観たけれど、シュタイデルさんと同様、情熱がすごい。情熱、魂、ビジョン、欲望。などなど。

 シンプルな欲望は、そこへ至るまでの複雑な道のりを、深く深く水の底に沈めるようだ。数えきれないメッセージを喚起して、そこに浮いている。

 映画を観るのも、ご飯を食べるのも、何かのための手段なんだけれど、何のための手段なんだか時々分からなくなる。
 私は目配せが多すぎる気がする。
 偉人は偉人だ。
 少なくとも私ではない。

 ゲレオン・ベツェル、ヨルグ・アドルフ監督、2010年、ドイツ。


               

   

『メキシカン・スーツケース <ロバート・キャパ>とスペイン内戦の真実』

2013-09-26 20:27:45 | 映画-ま行
 この映画が一番伝えたかったことは、何だろう?

 若きロバート・キャパ、ゲルダ・タロー、デビット・シーモアの足跡か。スペイン内戦と移民となった人々、その子孫と現在か。

 パリの暗室から消え、70年振りにメキシコで見つかった、「メキシカン・スーツケース」とネガ4,500枚は、どのような経路を辿り、どのような人々の思いを浸み込ませ、そして完璧な状態で見つかったのだろうか。発見から1年後に亡くなった弟のコーネル・キャパは、何を言ったんだろう。今後の保持者のICPが、その膨大なネガをどのように扱い、解き明かして行くのか。はたまた解き明かさないのか。

 色々なことがスクリーンの上で語られたにもかかわらず、何だか色々なことが謎めいている印象。

 スペイン内戦は1936年から1939年、フランコ政権から王政に変わったのが1977年、2008年「歴史の記憶法」可決ということ。
 今でもスペインでは、内戦について語ることはタブーに近いらしい。たぶんスペインの人にとっては、血なまぐさくて、とても生々しい映画なんだと思う。

 ロバート・キャパに興味があって観に行ったけれど、他のことを考えさせられた映画だった。

 トリーシャ・ジフ監督、2011年、メキシコ・スペイン。


       

『朝食、昼食、そして夕食』

2013-09-22 21:39:35 | 映画-た行
 ホルヘ・コイラ監督、2010年、スペイン・アルゼンチン。

 最近観たものの中で、私の中ではベストワンかもしれない。製作年からちょっと経っていて、Action.incという会社が配給してくれなかったら、このまま観ずに終わったかもしれない。本当に良かった。ありがとう!上映した劇場さんも、ありがとう!

 と、無性に感謝を述べたくなるほど、どこからどこまで面白かった。

 舞台となるのは、スペインの北西に位置する、サンティアゴ・デ・コンポステラ。
 ここは世界遺産であり、キリスト教カトリックの巡礼の最終地だという。「ヨーロッパの最果て」と呼ばれる古い街。しかし映画に登場するのはそこで生活している普通の人たちだ。古い街並みに差す朝日と、昼の陽光、夕暮れと夜。そしてそれぞれの食卓。原題は“18 comidas”、18の食事、または料理という意味らしい。

 老若男女、それぞれの食事の風景が、朝昼晩と移っていく。高級レストランということもあれば、家庭の手料理、パーティのご馳走、軽食、テイクアウトの中華、盗んだチョリソという人もいる。
 しかし心底面白いのは、食卓の事情というか、その周りで交わされる会話だ。状況設定の上での、俳優さんたちの即興演技というから驚く。

 たった一日のうちで、この町では50万食が作られるという。
 冒頭のナレーションによれば、「だからここには、人生の味を変えるチャンスが、毎日、50万回もある。」

 「食欲と魂を開放する」チャンス、というそれぞれの食卓の風景は、流れるような絶妙な繋がりをもって映画の中を行き来する。二千年の歴史の古都と、そこに差す日差しを、伴いながら。ほんの少し変わるものと、ほんの少しも変わらぬものが綾を成す。

 音楽もとても良かった。音楽を担当したのは、出演者の一人でもあり製作者でもある、ルイス・トサル。
 ストリート・ミュージシャン役の彼が映画の最後に言う台詞が(おそらく即興だろう)、とてもいい。「チョリソもあるよ!」ほろ苦くて、可笑しくて、大好きだ。


      

『クロワッサンで朝食を』

2013-09-21 17:52:19 | 映画-か行
 冒頭は、分厚く雪の積もったエストニアの夜だった。
 
 街が人を変えていく様子が楽しい。

 真昼の凱旋門の輝き、夜の橋とセーヌ川の灯り、早朝のエッフェル塔の影。アンヌの見るそれぞれの光景が本当に美しくて、映画の中の映画が始まるみたいだ。

 故郷で母を看取り、今度はパリで気難しい金持ち老女の家政婦となる。もう決して若くはないアンヌと、「元移民」のフリーダを、どのように見ればいいんだろう? 
 朝食は抜きか、フィリピン産のバナナを一本呑みこんでバタバタ出て行くような私には、孤独に描かれる二人さえ、憧れだ。

 大女優ジャンヌ・モローがすごい。素晴らしくチャーミング。お似合いのシャネルの衣装は自前らしい。
 人の居る場所が人を変え、そして幾つになっても人は変わるということを、大貫禄で教えてくれた、大女優さんたちに感謝しよう。

 原題は“Une Estonienne a Paris”。
 イルマル・ラーグ監督、2012年、フランス・エストニア・ベルギー。


           

『まひるのほし』

2013-09-16 14:27:25 | 映画-ま行
 佐藤真監督の『まひるのほし』を観た。

 1998年の作品で、『阿賀に生きる』につづく、監督第二作目ということ。知的障害者アーティスト7人を追ったドキュメンタリーだ。NHK「みんなのうた」で同題の唄も作られ、流れていたらしい。全然知らなかったけど。

 映画の半分くらいは、楽しい。
 アーティスト達が実に楽しそうに作品を創っているのを見て、こちらも心柔らかく弾む気持ちになる。
 色々な個性があって、率直な意思をあっけらかんとカメラに向かって述べられたりすると、私はにやりとさせられて、客席のあちこちからは笑い声が起こる。

 半分くらいは、笑えない。
 
 彼らの内なる情熱の大きさには圧倒されて笑えないし、それを表に出すための、表現のためのテクニック、他者の目、自我のあり方、彼らの関係、突然カメラに相対した時の、あの一瞬のひるみ、そしてため息の出るほど鮮やかで、調和した色彩。これらは笑えない。

 当たり前だけど、生活だってある。

 そして障害者と健常者ということを考え始めると、まひるのほしぞらがぐんぐんと広がり始める。白いほしがたくさん白い空に浮かんでいる。


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『日本の悲劇』

2013-09-11 21:39:29 | 映画-な行
 劇場を丸ごと使うような映画だった。
 カメラの位置はたぶん五ヵ所だったと思う。観ているうちに、自分がその家に浮遊している、埃のようなものな気がしてきた。

 登場するのは仲代達矢演じる父親と、北村一輝演じるヨシオ(息子)の、ほぼ二人。ものすごいことになっていた。

 生きて行くことがつづいて行くのが悲しかった。そこに希望が混じっているのが、悲しく感じる。なんだろう、これは。とりかえしのつかない過ぎ去ったものと、そこに強制的に混じり込む希望に、胸をえぐられた。それが現在だった。

 小林政広監督、2012年。ユーロスペースにて。

   

『メランコリア』

2013-09-09 21:14:51 | 映画-ま行
 この監督の破滅感覚(?)は、何だろう。でも美しく感じなくもない。

 監督自身は「ハッピーエンド」と称しているらしいけど、そうは思えない。でもふとしたら、そうも思えてくる。というほどそこへ向かってちゃんと進行していくから。期待と不安で胸が膨らみまくって、目もぎらぎらとなり瞬きの回数がたぶん減った。そして体育座りになった。

 SF的なものはほとんどない。器械類で出てくるのは、家庭用望遠鏡と、針金で作ったいびつな輪っかだけだった。ある状況での人間の行動がクローズアップされる。キルスティン・ダンストのヌード。キルスティン・ダンストはカンヌ女優賞を受賞した。上品な狂気とか、洗練された狂気とか、気怠いとか。そんな感じです。

 ラース・フォン・トリアー監督、2011年、デンマーク。

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『華氏451』

2013-09-04 20:26:02 | 映画-か行
 最近、SF映画を続けて観た。

 SFと言っても色々あるけど、私はどちらかと言うとロボットものは苦手(だからか『トランスフォーマー』もあんまり感激しなかった)。
 舞台は未来だったり、海底だったり、どこかの星だったり、どこでもない場所だったり。あくまで「現在」の「ここ」と比べるから楽しい。『マーズ・アタック』のように、どこかの星の方が、こちらに来ちゃうというのもあるけど。舞台は地球規模。

 SF嫌いで、「機械やロボットが出てくる映画には嫌悪感をおぼえる」らしい、トリュフォー監督の『華氏451』。ロボットは出てこないけど、でもこれSFだよね。シチュエーションSFって言うのかしら。


 『華氏451』、フランソワ・トリュフォー監督、1966年、イギリス。

 以前やっぱりSF映画を立て続けに観た時、その時一度観たけれど、忘れていた。今回観て、面白かった。
 映画の中の街やインテリアは、ドイツ統治下のフランスをモデルにしたらしい。未来のどこかと思うけれど、すごくキッチュ。懐かしいのは地上波テレビのアンテナ。今だって沢山あるけれど、こんな風に象徴的に使われはしない(と思う)。もう廃れたのだから、敵視もされない。部屋の中には、双方向性薄型テレビがあった。「家族」はその中にあって、テレビの出演者は「いとこ」らしい。

 華氏451度というのは、本が燃える温度。
 本を見つけて燃やすのは、消防士、firemanの役目だ。「昔消防士が火を消していただなんて!誰がそんな事言ったんだ?」
 燃やすっていうのは劇的だ。

 人々が、燃やされないように本を暗記して、自ら本になる。本の名前で呼ばれる「本人間」。そういえば体中に文字を書くという映画もあった。私は体に字も書かないし、一冊も暗記した本などないので、役に立たないな。

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