St. John of the Crossの生き方に憧れて

受洗後、最初に買ったカトリックの本が「愛への道」。相応しい生き方をしてない。彼に倣う生き方が出来るよう心がけたいです。

「霊の讃歌」(聖ヨハネ・ザ・クロス)より、祈り

2009-07-22 13:07:21 | Weblog
「霊の讃歌」より、霊魂と天の花婿との間に交わされる歌
1 「
何処にお隠れになったのですか?
愛する方よ、私を取り残して、嘆くに任せて・・・
私を傷つけておいて、鹿の様に、
あなたは逃げてしまわれました。
叫びながら私はあなたを追って出て行きました。
でも、あなたは、もう、いらっしゃらなかった。
  」
・1~8を読んで、(「何処にお隠れになたのですか?」の聯の解説の前半)
「”何処にお隠れになったのですか”と、愛を込めてわたしは神を探し求めよう。しかし、それは、地の果てに、ではなく実に自分の中に於いて、である。聖パウロが言っているように、「あなたがたは、神の神殿である。」。この言葉を肝に銘じよう。神なしに、わたしが存在し得ないことを知るのは、わたしにとって、何という満足、何という喜びであろうか。雅歌にある。「どうぞ教えてください。あなたは何処で食し、昼の間、何処でお休みになるのかを。」御父に請い求める。聖アウグスティヌス「主よ、私は自分の外にあなたを見出さなかった。あなたは、内部にお出でになったのに、私は誤って、外部にあなたを探し求めたからだ。」」
・主よ、あなたを常に求めます。常にあなたを探し求めます。あなたは、わたしのうちにいらっしゃって、外には居ません。でも、ヨブの様に、わたしのもとに来られても分りません。遠ざかっても、気が付きません。だからといって、探し求めるのを諦めたりはしません。良い耳を持ち、良い眼を持ち、良い心を持って、あなたを探し求めます。祈りつつ求めます。だから、少しでも良いので助け導いてください、アーメン。

引用文献:「霊の讃歌」(十字架の聖ヨハネ著;東京女子カルメル会訳;ドン・ボスコ社刊)

「どですかでん」(黒澤明監督作品)を見て-ある感想

2009-07-22 02:13:45 | Weblog
 黒澤明監督「どですかでん」を見て

 原作は、「椿三十郎」「赤ひげ」の山本周五郎。山田洋次監督に喩えると、最近の時代劇2作の後、突然転じて、プロレタリア文学風の、表現主義の、並外れて大胆な安部公房的手法で藤沢周平の現代物を撮ったようなもの。
 山田洋次監督の次回作にも期待したくなるが…。
 ここは、黒澤監督作品。
 「黒澤明の映画」(引用文献)から引く。
物語は、「ものうい希望の無い厳しい生活を共通とするスラム街の人々の暮らしの中の、こまごまとした話をつづりあわせたものである。」
コンセプト:「エリート的な視点(=力という思想へ容易に転化し得る)を思わせるパターンから別の立場へ移った。」「忘れられた弱者たちの生きる勇気と忍耐に焦点をあてた。」
通底する哲学は、「常軌を逸した人間の行動の根元は社会的環境にある。」「過去の封建時代のサムライ日本の意義を今日に呼び戻す試みの虚しさを物語る。」「高揚された認識を持つ生命が、絶望に替わるものとして提唱されている。」
希望としてやがて、「充分に力のあるモラルの証言なら実際に世界を変え得るかも知れぬという希望。」「黒澤の個々の人間の可能性にかける高い高い価値。」
早急に纏め、「<度合い>という黒澤的規準から言っても、最善の作品群の中に位置を占める。」
 そして、黒澤自身の言葉から引く。撮影チームに語っていたらしい。同じ引用。
「太陽が一杯の、陽気な、心の軽い、魅力たっぷりで、かわいい映画を作ろうじゃないか。」
風景は、東京のゴミ捨て地に実際にセットされた。
因みに、「映画には、ヴァン・ゴッホのパレットから取ったかと思う程の荒々しい色彩がともなう。」
「夢」「八月の狂詩曲」も系譜とわたしは捉える。
…………
 自身、「贖い」という言葉が後日、涙の薄れた時、何故か漠然と浮かんで来た。
恵みの人物、老職人「たんばさん」以外は、必ず二人組みになって展開している。ただし、そのうちの一人は、皆、誰もが尋常を逸する風変わりな妄念に囚われている。狂気さえ含まれる。そのドギツさは、見て白昼覚醒のまま魘される程である。天然色。初めての日本の色彩映画とか。黒澤は、その利点を縦横に使い、妄執をこれでもかと際立たせる。だから、ゴッホなのである。アルトーなのである。表現主義の所以である。黎明の映画、「カルガリ博士」もそうであった。悪夢が現実味を帯びて、人(じん)間を闊歩する。それ恰も陥穽の如く。其処に至って、紛れも無いポーの系譜と気付く。黒澤も、「カルガリ」監督も。
 ただ、その妄執こそが、彼らの悲劇の表象なのである。運命の過酷さに耐えきれず、妄執の悉く虜になる。
浮気された壮年は開目のまま、まどろむ。
更に時間の経緯とともに、「巴里の憂鬱」の他の箇所が再び。
「己がじし、自ら知らず知らずして、その境遇と偶然とのまにまに、彼らの運命を熟せしむべく、近親者の眉を顰めしむべく、栄光に向って、汚辱に向って、彼らの路を急ぐべく。」
“天稟”からの引用。少年達の将来への「悪の華」作者の配慮。
「ドデスカデン」と掛け声しながら、作の冒頭と終焉、仮想の世界で、駅員して走るのは、障害故子供に留まらざるを得ない一人の大人である。しかし、思えば、他の彼ら皆が大人と言えよう?例え、“性”が生々しく迫る逸話に措いても、ポーが純潔であったように純潔で、皆子供である。そして、彼らは狂った様に急いでいる。妄執に追われ、時間に支配され。
「そら、やい、しっ!畜生、汗を出せ!罰せられて、生きていろ!」
ただし、
だだ一人の例外を除いて。天使なる一人の。長(おさ)の聡明さを持つ、ポンコツ車に居住する聡明な10才。驚くべき子供。翼を背後しそうな。しかし、彼は、作中その生涯を完結させられてしまう。
運命というに、余りにも悲劇的だ。
「とく為し遂げられてしまう。」
その過程は、贖罪を連想させる。
されば何へのだろう?
社会の暗闇への。言うは簡単だ。
父親を通じての。父をそう貶めた運命への。建築など、あらゆることに造詣を持つヒッピーの価値観。そして、そこに溺れた父親。
他を探ろう。対がある。それは、六角形の各頂点が夫々に対を思い出す。
叔父に虐待の末、純潔を奪われる、極めて薄幸な20前後の少女。彼女に宿った狂気の如き潔癖な愛。錯綜。そのロマン主義。
「自殺を決意した瞬間、好意を寄せる青年を思い出す。死ねば、青年の記憶から、自分の記憶は消え去ってしまう。それを阻止するには、青年を先ず殺すしかない。」
貴種の流離か?まるで、三島に散見するレトリックだ。
叔父の恐らくは、標榜していた文学上の旗がそれであろうに。しかるに、その叔父は酒に溺れて、微塵もない堕落の臆病者に過ぎない。
その贖罪。そして、ロマンなる眩い栄光。まるで瞼の裏に浮かんだ輝かしい曙光。
黒澤の語った一杯の太陽とは、夫々の瞼の裏にしか見出せない。
時代が既にそうだから。
鳥や動物を人性の素材に描く「鳥獣戯画」。黒澤は、その伝統を、武士物語の次として果たしたのではないかろうか?それは、黒澤が語ったように、太陽の「ロマン主義」ではなかろうか?
天然の色こそ、阿なるロマン主義に相応しい。
引用文献:「黒澤明の映画」(D・リチー著;三木宮彦訳;教養文庫)
    :「巴里の憂鬱」(C・ボードレール著;三好達治訳;新潮文庫)