今晩は。
9月に入り、蝉の声も油蝉のやかましさからミーミー蝉、オーシンスクの涼やかでもの悲しげな音色になり、秋の到来を感じます。今また、ジージージーと虫が鳴き始めています。庭の柿も色好き始めましたが、例年よりかなり小粒で、途中で実が毎朝30個位ずつ2週間位に渡って落下し、収穫は良くないと思います。梅雨の長雨が響いたのでしょうか。
先日、司馬遼太郎作の『坂の上の雲』6巻を読み終えました。綿密に資料を調査したり、縁の人に聴取したりして臨場感宜しく大作を書き上げたなと感服致しました。日露戦争時の時局に巻き込まれる軍人や庶民の悲喜劇が活写され、数限りない人々の犠牲の上に現在の日本の位置があるのだなと思い知らされたのです。当時自分が生きていたならどのような一生を送っていただろうかと想像してしまいました。死してもなお、書籍は読み継がれて行くと信じ、手の動く限り執筆を続けて参りたいと更に意を強くした次第です。
さて、小説の執筆状況は『赤い笹舟ー男共の肉弾戦争ー』を100枚前後の2編に分け、1編は『いろはにほへと』として文学界新人賞へ、もう一つは『ナナカマド』の題名で群像新人文学賞へ応募致しました。『いろはにほへと』は、剣道場の息子が日中戦争に狩り出され、過酷な体験を通じて、百人切りの夜叉と恐れられるまでの心の軌跡を追ったものです。
一方、『ナナカマド』は、飛行機の中で偶然隣り合った日本男性と中国人女性が恋に落ち、妊娠するが、男性の両親に大反対される。男性の祖父の取り計らいで無事結婚出来、日中戦争前後に於ける花婿の祖父と花嫁の祖母の秘められた過去が解き明かされてゆく。
現在は、『赤い笹舟ー女達の心理戦争』を『ホンニナル出版』に出版紹介掲載する為に、校正中です。ご期待下さい。
それでは何時もの様に、『旅愁散文詩』の25作目をお贈りします。今回は珍しく散文です。
二十五、静岡県下田(青春の悪戯)
昭和四十二年八月
(一) 夕闇迫りし頃、背丈より高いトウモロコシの畑に、抜き足差し足入り込む影三つ。 我、自動車の中で待機す。遠くの農家の明かりの方で、がやがやと人の声、「やばい、見付かったか・・」手に二、三ケずつ茶色髭付を。「何故か騒がしくなってきたので戻ってきた」「見付かったかも知れん。早く車を出せ、逃げろ」 翌朝、小高い山の中腹から下を見遣ると、警察官が一人、自転車から降りて、五米幅道路に駐車してある友の車の中やナンバープレートを調べている風であった。 「やばい!トウモロコシ泥棒を探しているのか、否そんな筈はない。暗闇だったので判ら無い筈だ。だが待てよ、万一誰かが目撃し、交番に届けているかも・・」心臓の高鳴りを覚えた。 「判ら無いで欲しい」と神に祈った。 『C大生、トウモロコシ 泥棒』の活字が頭に浮かんだ。田舎にはニュースが殆ど無いので、面白おかしく地方版記者が書き立てるに違いない。長い長いトンネルに居る様だった。物理量としての時間は五分位であったろうが。自転車に跨って去って行った。安心した。「だが、待てよ。プレートナンバーを控えて、本庁に持ち主の問い合わせをするかも知れないぞ」不安が頭を持ち上げた。「なるようになるだ、ケセラセラ。折角、夏休みをエンジョイしに来たのに」
20年後の今もって、問い合わせが無いので、トウモロコシ泥棒の一件は迷宮入りだし、時効が成立している。天国に召されたであろうトウモロコシ所有者に、スリルを味わわせて頂いた件と、20年間も引き摺ってきたこの後ろめたさの為、その後は罪を犯さずに済んでいる事に対するお礼を心より述べます。
(二) パチリ、パチリ、パチリとシャッターを切った。木橋の中央に立つモデル。橋の向こう側から、はっとする様な美形がこちら側に。年の頃、二十四、五の新妻であろう。黒髪をアップに結い上げ、涼しそうな澄んだやや大きめの瞳。柄は忘れたが、黄色地の着物を着こなし、紫の風呂敷を左手で胸の位置に抱え、歩く度に裾裏の白がちらりと見え隠れする。 「済みません。C大の写真部ですが、展覧会に出すので、写真を一枚撮らせて下さい」 「写真だなんて、用足しで急いでいるので駄目よ」 「是非、撮りたいんです。お願いします」 「モデルだなんて。こんな格好じゃ、恥ずかしいわ」 「いえ、自然のまま、ありのままの姿を表現したいんです。時間を取らせません、一、二枚ですから」 「そう。そうおっしゃるなら・・。バックは何処にしたら良いかしら」 「済みませんが、橋の中央まで戻って下さい」 レンズを覗いた。髪のほつれを直し、やや半身に構え、色気を一層漂わせていた。女心の深淵を見た思いがした。
勿論、僕は写真部には所属していない。