今日は当地区史談会の年2回目の野外学習会です。
春の野外学習会は「花巻方面」でした 今日は秋の野外学習会です。
方面はこちら・・・。
さて、どこでしょうか
この箸の袋には五千円札の「新渡戸稲造」さんの写真が印刷されています。
箸置は「馬」の姿をしています。
箸の袋には、
五千円札のふるさと 十和田市 とあります
今回の旅行の昼食は、青森県十和田市の「旅館しもやま」(1,050円)でした。
新渡戸稲造さんのお父さんの「新渡戸十次郎」さんとそのお父さんの「新渡戸伝(つとう)」さんの親子が、江戸時代の安政2年から5年の月日をかけて、当時三本の木しかい寒村であった三本木原(今の十和田市)に川を引いたのです。現在、青森県内で米の生産量は十和田市が1位である
今日の現地学習の半分は、十和田湖から流れる奥入瀬川から水を引いて作った「稲生川(いなおいがわ)」
新渡戸親子の業績をたどるもので、講師の方の研究の深さには頭の下がる思いでした。上の写真は今の「稲生川」です。
「稲生川」の取水口で不思議なものを見ました。
川の上を川が流れているのです。
普通は川の上に川を流すためには、上の川は橋をかけて交差をさせますが、ここは川の下をくぐらせて水を流すのです。
いわゆるサイホン(逆サイホン)です。驚きです
これまで流れてきた生川が、十字にクロスする中里川(奥入瀬川のもう1本の支流)の前で突然地下に潜るのです。そしてクロスする中里川の向こうで勢いよく地中から水が噴き出しているのです。そしてこの始まったばかりの稲生川は、江戸時代に掘られた1.6kmのトンネル(穴堰)へと入っていくのです(江戸時代の南部土方衆のトンネルの堀り方についてはここでは略、サイホンは昭和11年に作られています)。
ここから水が噴き出しています。クロスしている中里川のずっと向こうからこの稲生川は地中に入り込んで流れて来たのです。江戸時代はもう少し下流で2つの川を合流させていました。(今はここより少し上流の水門で、中里川の水の一部を稲生川に合流させるようにしています。)
稲生川の命名は40代南部藩主、南部利剛(としひさ)公です。
新渡戸記念館を見学しました。新渡戸親子3代の詳細が分かります。以前この記念館のすぐ側に「新渡戸明」と表札のある立派なお屋敷を発見しましたが、今回確かめたらここの館長さん宅で、新渡戸家の末孫だそうです
江戸時代に、当市の廃寺から移された(遠回りをしてご本尊も)「理念寺」浄土真宗太谷派のお寺です。
ここで、お母さんが私を悩ませる貼り紙(ポスター)を見つけてしまいました。「清め塩は使いません-死んだ人を汚れた人とは考えないからです-」と書いています
私は「曹道宗」、これまで「清めの塩」をいつも使っていました。思わず考えてしまいましたが、やはりこれまで同様「清めの塩」(お葬式のあと等我が家に入る前に、玄関先で、手や身体に塩を振りかけて清めること)は続けようと思いました。
私にはまだ死はそれほどに親しいものではありません。ですから結界としての印として塩をまきます
しかし、浄土真宗の本堂に「清め塩は使いません」という貼り紙(ポスター)を見た時に、私もそう思う日が来るのだろうと思いました
十和田市の見学は2時で終わり、十和田市から1時間で八戸へ、3時から4時まで八食センターで買い物の予定でした。
シューリ貝とはどんな貝でしょうか。以前のムール貝と似ていますが同じものなのでしょうか。どなたか教えて頂けないでしょうか
八HIROさんは勤務中と思い連絡は差し控え、八食センターで美味しいものをたくさん買いました。
私は、またまた豚になるのでしょうか。
これから、体重を測ってきます
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