文化財保護協会研修視察の今日、定員33名で出発、最初の目的地で、終日のご案内をお願いした工藤利悦(としよし)さんと聖寿禅寺檀家総代の東さんが待っていて下さいました。
近世文書研究所 ・・・ 工藤利悦氏主宰の研究所HP
東さんから頂いた名刺には、南部家の家紋の「向鶴(むかいづる)」と「武田菱」が記されています。お聞きしたら代々南部家にお仕えしている東家の子孫ということでした。南部家臣の東家は、戊辰戦争の総大将だった家老の楢山佐渡さん、そして楢山さんが切腹の後、戦後処理の為に活躍したのが東中務(後の東次郎)です。楢山佐渡さんなき後、南部家の菩提所等を守っておれれることに感じ入ることとても大きいことでした。
東中務(ひがしなかつかさ)のちの東次郎 ・・・ 東さまが「明」にあれば佐渡さまは「暗」にと、つねに生き方が対照的でありました。やがて、佐渡さまは「死」、東は「生」の結末をむかえるのであります。
何故に盛岡藩の象徴であった五重塔が1層だけとなったのか、聖寿禅寺の大伽藍が明治維新ご何故に全て無くなったのか等、疑問に思っていたことをご案内いただいた檀家総代の東さんに質問しました。お答えは「壊されてしまいました」でした。私は「明治新政府に壊されたのですか」と再度質問すると「そうです」というお答えでした。私も一番最初にそう考えました。そして一般的な歴史書でもこの考えで記されています。
東さんとお別れしてからのバスの中でご案内頂いている工藤さんに聞くと「あれ(東さんの言ったこと)は嘘です・・・。」それ以上は言いませんでした。
先日の下調べの時に榊山神社の宮司さんにお聞きしたら、「先代の住職が飲んでしまったんだ」ということでした。飲んでしまったと言ってもお酒代にしたという意味ではなく、藩からの援助が無くなりお寺の維持のために五重塔の上の方から売ったのだと補説して下さいました。
さて、真実は何なのでしょうか。先輩の会員が白石に転封になった盛岡藩を盛岡に戻すには莫大なお金が必要だったからだと思うと話してくれました。
この明治元年末と二年の年表を見ていると先輩の話されたことが正解に思えてきます。
戊辰戦敗戦後は、南部藩は20万石であったのが白石13万石に転封(国替え)になります。南部彦太郎は後の南部利恭(としゆき)公で、70万両の献納の結果盛岡に戻ることが出来ます。この間、東中務(後の東次郎)が南部藩の家老として尽力していたのです。
このように考えると70万両を準備するために五重塔の塔も南部家菩提寺の伽藍も売られて献納金にかわったのではと思われるのです。
檀家総代の東さん、東中務(後の東次郎)のご子孫の東さんが「明治新政府に壊された」という意味も理解できますし、ご案内をして下さった工藤氏が「嘘!」と言われた訳、南部家(家老職の東氏)が自ら売ったという意味でこれまた理解できるものです。今日現在の私の理解はこうしたものです。どなたか正しいことをお知らせ下さい。お待ちしています。
南部利恭(としゆき)公のご子孫は健在です。現在の南部家のご子孫は第46代で東京で社長をしておられ、やがて靖国神社の宮司となられる(第45代が今靖国神社の宮司をしておられます)方です。先日の隣町の町割り400年祭の折、南部家の行列に来賓として参加され、田口昌樹氏(管江真澄の研究家)の講演時に南部家第46代ご夫妻が私のテーブルの向かいにお座りになりました。まだ40代の方でしたが大層威厳のある方ににお見受けしました。
今回の研修視察でたくさんのことに気づかされましたが、戦争(戊辰戦争)の悲惨さが今なお(今後も長く)残っている(残るだろう)ことに、心が痛み今後も歴史に学びより良き歴史を創っていこうと思いました(ちょっとオーバーかな!)
参考資料
南部利恭(としゆき):南部藩最後の藩主 利剛(としひさ)公の後を次いだのは利恭(としゆき:幼名彦太郎)です。訂正が必要です。