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タマスダレです
タマスダレ(玉簾)は白い六弁花を一茎に一花咲かせるユリ目ヒガンバナ科タマスダレ属 の常緑球根性植物 明治初期にやってきた南米産の帰化植物で、主に園芸用ですが、一部が野生化している。
このタマスダレは亡き母が、コスモスと共に、好きだったようでして、庭の両側に帯状に植えてあり夏から秋にかけ真っ白いお花を咲かせておりましたので、うれしいお花の一つです。
そのお庭のある、徳島の地が・・転勤族であった父の最後の地となったのです。昭和17年に徳島に転勤によりやって来て、20年にわたしが生まれると同時に、父は他界したので、この徳島の地が母と姉、兄、の永住の地となりまして、兄と10歳離れて生まれた末っ子の私との4人での生活が始まったのです。 この徳島の田舎の生活は、姉や兄には、辛い事が多くあったと思いますが、私と違い上二人は、頭もよくしっかりしていたようで、いじめにもあわず、この永住の地に馴れていったのでした。
ちごゆりは父が42歳、母が38歳の子でした! 父の恩給だけでの生活は大変苦しかったと思われますが、私は生活苦の事など何も知らず、すぐ上の兄とは10歳離れておりましたが、母は、和裁を教えており、いつも仕事で構って貰えないし、合間には、近くにあった3反の土地では、母がたの祖母に一緒に生活してもらうようにして、農作物を作るようになりました。
私のお守は、すぐ上の兄が、してくれたみたいで、物心ついたころから覚えているのは兄といっしょにいた事でした。
いつもつき回っていて、だから兄の友人の男の子たちにも、私は可愛がってもらってました。
たまに遠くに出かけていくときには、一人で留守番をする事がありましたが、幼時のときでしたが、ちゃんと兄を待っていることが出来た記憶があります。
小学生になってからは、宿題を終えたら、お友達がいつも遊びに来ておりましたし、兄が高校に入ってからは、もう兄についていく事もなくなりました。
母のお花好きは、その当時からでして、花を咲かせている家など田舎では珍しくて、母とばあちゃんは、忙しいにもかかわらず、おしゃれにいろんなお花を咲かせておりました。
近所の
おばさんが、母が居るときには、よく集まって来ておりました。一時食糧難時代には、野菜畑にしていたそうですが、わたしの記憶では、たくさんの草花の咲くお花畑で、お友達がいつも沢山集まってきては、夕方までおままごとや、缶蹴りかくれんぼ、縄跳びなどしておりましたから(花畑の手前には、なんとか広い庭もありました)母の花いっぱいのお庭がうれしかったです。
今にして思うと、当時お花畑けのある家などなく、憧れをもたれていたようですが、不謹慎であったかもしれません! しかし思い出すと、お花はいつも咲き乱れておりましたのよ 小さいころの思い出でした。余談になりましたすみませんね・・・小さい頃を思い出すのは年をとった証拠だそうですね(苦笑)。
彼岸花などと、道端に咲くタマスダレです。
この小さなお花は、今では何処にでも見られますが、母が植えた頃には、ほとんど他では、見られなくて、珍しい花であったそうですが、
球根を皆様にお分けし、ご近所に広がっていったらしいのです。
皆さま今日もお付き合い下さり ありがとうございました。
**∞*…*∴* 神さまの大きな祝福が ありますようお祈りします *∴*…*∞**
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タマスダレです
タマスダレ(玉簾)は白い六弁花を一茎に一花咲かせるユリ目ヒガンバナ科タマスダレ属 の常緑球根性植物 明治初期にやってきた南米産の帰化植物で、主に園芸用ですが、一部が野生化している。
このタマスダレは亡き母が、コスモスと共に、好きだったようでして、庭の両側に帯状に植えてあり夏から秋にかけ真っ白いお花を咲かせておりましたので、うれしいお花の一つです。
そのお庭のある、徳島の地が・・転勤族であった父の最後の地となったのです。昭和17年に徳島に転勤によりやって来て、20年にわたしが生まれると同時に、父は他界したので、この徳島の地が母と姉、兄、の永住の地となりまして、兄と10歳離れて生まれた末っ子の私との4人での生活が始まったのです。 この徳島の田舎の生活は、姉や兄には、辛い事が多くあったと思いますが、私と違い上二人は、頭もよくしっかりしていたようで、いじめにもあわず、この永住の地に馴れていったのでした。
ちごゆりは父が42歳、母が38歳の子でした! 父の恩給だけでの生活は大変苦しかったと思われますが、私は生活苦の事など何も知らず、すぐ上の兄とは10歳離れておりましたが、母は、和裁を教えており、いつも仕事で構って貰えないし、合間には、近くにあった3反の土地では、母がたの祖母に一緒に生活してもらうようにして、農作物を作るようになりました。
私のお守は、すぐ上の兄が、してくれたみたいで、物心ついたころから覚えているのは兄といっしょにいた事でした。
いつもつき回っていて、だから兄の友人の男の子たちにも、私は可愛がってもらってました。
たまに遠くに出かけていくときには、一人で留守番をする事がありましたが、幼時のときでしたが、ちゃんと兄を待っていることが出来た記憶があります。
小学生になってからは、宿題を終えたら、お友達がいつも遊びに来ておりましたし、兄が高校に入ってからは、もう兄についていく事もなくなりました。
母のお花好きは、その当時からでして、花を咲かせている家など田舎では珍しくて、母とばあちゃんは、忙しいにもかかわらず、おしゃれにいろんなお花を咲かせておりました。
近所の
おばさんが、母が居るときには、よく集まって来ておりました。一時食糧難時代には、野菜畑にしていたそうですが、わたしの記憶では、たくさんの草花の咲くお花畑で、お友達がいつも沢山集まってきては、夕方までおままごとや、缶蹴りかくれんぼ、縄跳びなどしておりましたから(花畑の手前には、なんとか広い庭もありました)母の花いっぱいのお庭がうれしかったです。
今にして思うと、当時お花畑けのある家などなく、憧れをもたれていたようですが、不謹慎であったかもしれません! しかし思い出すと、お花はいつも咲き乱れておりましたのよ 小さいころの思い出でした。余談になりましたすみませんね・・・小さい頃を思い出すのは年をとった証拠だそうですね(苦笑)。
彼岸花などと、道端に咲くタマスダレです。
この小さなお花は、今では何処にでも見られますが、母が植えた頃には、ほとんど他では、見られなくて、珍しい花であったそうですが、
球根を皆様にお分けし、ご近所に広がっていったらしいのです。
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