走る営業公務員、奮闘記!!

地方分権が進展する中での地方からみた木っ端役人の奮闘記です。

よさこい節

2010年10月18日 21時52分04秒 | つぶやき
 昨日のNHK大河ドラマ「龍馬伝」を観ていて、「いろは丸事件」の話が出ていた。
いろは丸は、愛媛県ゆかりの船で、大洲藩の所有であった。
どんな事件だったかというと、Wikipediaを参考にすると次のようなものである。

 1867年4月、大洲藩はいろは丸を坂本龍馬の海援隊に貸与、19日(5月22日)に龍馬は大坂に物資(鉄砲)を運ぶために長崎を出航。
23日(26日)、紀州藩船明光丸と衝突し積荷もろとも沈没。
長崎奉行で海援隊・土佐商会および土佐藩(参政後藤象二郎)と紀伊藩(勘定奉行茂田一次郎)とで争われ、坂本龍馬等土佐側はミニエー銃400丁など銃火器3万5630両や金塊や陶器など4万7896両198文を積んでいたと航海日誌等をもって主張し、紀州藩は8万3526両198文を弁償することと決裁された。
しかし、この後、紀州藩は土佐藩・土佐商会・海援隊に支払うべき弁償額を嘆願して7万両に減額してもらう。
この「いろは丸事件」は、日本で最初の海難審判事故とされている。

 番組では、坂本龍馬の卓越した渉外術と戦略戦術が紹介されており、ガリバーと蟻との戦いのように思われた争いが、民衆までも巻き込んだ中で華麗な逆転劇を演じる。

 特に、注目すべきは「よさこい節」を替え歌にし、それを市中に流行らすことで民衆の心をつかんでいく、いわばCMソングのようなものか。
ならば、坂本龍馬は、日本発のCMクリエーターでもある。

 もともと「よさこい節」は地元でも替え歌にされることが多く、とくに権力などに正面から対峙できない民衆のせめてもの鬱憤ぱらしでもあったのか、どちらにしても土佐人にはそういう気質があるらしい。

 では、「よさこい節」とは、これもWikipediaを参考にすると次のようなものである。

よさこい節
 高知県に残る民謡。
 囃子詞として「よさこい、よこさい」と歌われる。
 その起源については諸説あり、いまだ特定には至っていない。
 慶長年間(1596年-1615年)、山内一豊が入国して高知城を築いたとき、作事場で歌われた木遣り唄のヨイショコイという掛け声が変化したとする説(この場合はヨイショコイという掛け声の意)。
 正徳年間(1711年-1776年)、大奥女中の絵島と歌舞伎役者の生島新五郎の情話が絵島節となって諸国に流行し、それが土佐に伝わって変化したという説(この場合は夜にいらっしゃいという意)。
 他に、鹿児島県の「夜さ来い晩に来い」という囃子詞を持つ民謡が伝えられたとする説(土佐から鹿児島へ伝わったという説もある)、夜這いの風習と関連させて農耕生活の場で歌われていたと推定する説、よってらっしゃいを意味する土佐の昔言葉という説、などがある。
 吉原は性格上日本中の歌があつまる土地であるが、よさこい節を想像させる曲調の新土佐節が残っている。

<替え歌>
 純信とお馬よさこい節には数百曲に及ぶ替え歌が残っており、どの歌がどの時代に作られたものかは定かではないが、良く知られている代表的な歌詞には次のようなものがある。

 土佐の高知の はりまや橋で 坊さんかんざし 買うを見た よさこい よさこい

 元歌は「おかしな ことよな」で始まり、幕末にいかけ屋お馬の歌として流行した。 竹林寺の僧・純信といかけ屋・お馬の悲恋物語は、その舞台となったはりまや橋とともに有名であり観光名所として残る。
 また、その他に残る有名な歌詞としてはよさこい祭りのために武政英策が作詞作曲した「よさこい鳴子踊り」に使われているものがある。

 御畳瀬見せましょ 浦戸をあけて 月の名所は 桂浜 よさこい よさこい
 言うたちいかんちゃ おらんくの池にゃ 潮吹く魚が 泳ぎよる よさこい よさこい
 いかけやお馬の歌を代表として、花柳界のお座敷歌、自由民権運動で歌われた「よしや節」、「よさこい鳴子踊り」、ペギー葉山の「南国土佐を後にして」などで歌い継がれ、現在はよさこい祭りの1フレーズとして使用されている。

 このように替え歌の中に、髪のないお坊さんが「かんざし」を買う矛盾を揶揄したり、「裏戸」と「浦戸」をかけた駄洒落的な替え歌は、土佐っ子のウィットにとんだ生き方がそのまま現れている。

 そして、龍馬は、その歴史風土に育まれていたからこそ、民衆が何を求め、どのようにすれば喜ぶのかを理解していたのである。

 常に民衆は、権力に阿(おもね)ることなく、冷静なのである。