今、コミュニケーションについての研究をしている。
理由はコミュニティを構成する因子(地域コミュニティでいうと「地域住民」)同士を結びつける「コミュニケーション」が円滑に機能しなくなったために、地域コミュニティの崩壊の一因になったのではないかと仮説を立てたからである。
そして、最近よく耳にするのが「コミュニケーション力が低下した」といった内容の話であり、カルチャースクールなどでも「コミュニケーション力講座」なるものがもてはやされている。
確かに個々のコミュニケーション・スキルが低下したという理由もあるだろう。
しかし、それには社会背景や環境の変化というものも無視できないと思っている。
その際たるものが核家族化である。
一番身近なところから会話がなくなり始めた。
大家族のころは、子どもの話の聞き役はババ様、ジジ様であった。
何よりも子どもたちの話を引き出してくれた。
しかも、食事時に家族が揃わない。
食卓コミュニケーションが成立しないのである。
ここにも家庭教育の歪みを感じる。
つまり、子どもたちは話すことが苦手になったのではなく、その手法を教える人がいなくなり、その手法を知らない子どもたちが増え続けているということ。
日本人の美徳とされた「あうん」の呼吸も今は昔。
そして、「話せばわかる」ということ自体が難しくなり始めた。
話し方も聴き方も訓練されないままに大人になってしまった。
つまり、「話さなくてもわかって欲しい」から「話してもわからない」という状況になったということである。
そこで出てきた答えが、「プロとアマチュアのコミュニケーションは基本的に成立しない」という割り切りをすべきだということ。
その割りきりができ始めると、次の一手が見えてきた。
そして、自分なりの理論構築ができるよう頭の中が整理できるようになった。
これって、行政のさまざまなシーンで出てくる合意形成のための手法として使えるんじゃないか...
なんて、短絡的に考える私がいる。
理由はコミュニティを構成する因子(地域コミュニティでいうと「地域住民」)同士を結びつける「コミュニケーション」が円滑に機能しなくなったために、地域コミュニティの崩壊の一因になったのではないかと仮説を立てたからである。
そして、最近よく耳にするのが「コミュニケーション力が低下した」といった内容の話であり、カルチャースクールなどでも「コミュニケーション力講座」なるものがもてはやされている。
確かに個々のコミュニケーション・スキルが低下したという理由もあるだろう。
しかし、それには社会背景や環境の変化というものも無視できないと思っている。
その際たるものが核家族化である。
一番身近なところから会話がなくなり始めた。
大家族のころは、子どもの話の聞き役はババ様、ジジ様であった。
何よりも子どもたちの話を引き出してくれた。
しかも、食事時に家族が揃わない。
食卓コミュニケーションが成立しないのである。
ここにも家庭教育の歪みを感じる。
つまり、子どもたちは話すことが苦手になったのではなく、その手法を教える人がいなくなり、その手法を知らない子どもたちが増え続けているということ。
日本人の美徳とされた「あうん」の呼吸も今は昔。
そして、「話せばわかる」ということ自体が難しくなり始めた。
話し方も聴き方も訓練されないままに大人になってしまった。
つまり、「話さなくてもわかって欲しい」から「話してもわからない」という状況になったということである。
そこで出てきた答えが、「プロとアマチュアのコミュニケーションは基本的に成立しない」という割り切りをすべきだということ。
その割りきりができ始めると、次の一手が見えてきた。
そして、自分なりの理論構築ができるよう頭の中が整理できるようになった。
これって、行政のさまざまなシーンで出てくる合意形成のための手法として使えるんじゃないか...
なんて、短絡的に考える私がいる。