錫 杖 流

我流を貫く自由人です。

談山神社 その2

2024-12-18 | 日帰りお出かけ

飛鳥・法興寺で行われた蹴鞠会けまりえにおいて出会った中大兄皇子 (後の天智天皇)と中臣鎌子(後の藤原鎌足)が、

藤の花の盛りの頃、当社本殿裏山で極秘の談合をされました。
『多武峰縁起』によれば、「中大兄皇子、中臣鎌足連に言って日く。鞍作くらつくり(蘇我入鹿)の暴逆をいかにせん。願わくは奇策をべよと。

中臣連、皇子をひきいて城東の倉橋山の峰に登り、藤花の下に撥乱反正の謀を談ず。」と記されています。

この談合により、皇極天皇4年(645)飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を討ち、中央統一国家及び文治政治の完成という歴史的偉業を成し遂げられました。


多武峰はこの後、談峯・談い山・談所が森と呼ばれるようになり「大化改新設合の地」の伝承が残りました。

現在の社号の「談山神社」もここからきています。


天智天皇8年(669)10月、鎌足公の病が重いと知った大皇は自ら病床を見舞い、後日、大織冠内大臣という人臣の最高位を授けられ、

藤原の姓を与えました。藤原氏は、ここから始まります。鎌足公の没後、御墓は摂津国 阿威あい山(現在の大阪府高槻市)に造られましたが、

白鳳7年(678)唐より帰国した長男・定慧和尚が鎌足公の遺骨の一部を多武峯山頂に改葬し、

十三重塔と講堂を建立して妙楽寺と称しました。さらに、大宝元年(701)方三丈の神殿を建て、

鎌足公の御神像を安置しました。これが談山神社の始まりです。

 

談山神社の謂れですが「大化の改新」は歴史上でもかなり有名なお話ですね

一応、日本史が大好き(とくにこのあたりの年代)だったので興味が尽きないですね

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

拝殿に一三重塔と見ごたえのある談山神社です。

 

もう少し談山神社の紅葉風景を楽しみましょう。

 

 

12/8(日)

 



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