源太郎のブログ

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

「続き」

2011年12月06日 | 旅行記
 もう一つの「弥山」は広島市の南西に位置する廿日市市沖合の瀬戸内海に浮かぶ厳島(いつくしま)にある。人口約2千人の島へはフェリーで10分程度とすぐ目の前だ。島は安芸の宮島とも言われ、日本有数の歴史ある観光地でもある。島の広さは約30?だから杉並区や板橋区と同じ位の面積だ。島のシンボルで世界遺産でもある厳島神社の創建は6世紀にも遡ると言われ、現在の社殿は12世紀に平清盛によって建てられたものである。島自体が「御神体」であり信仰の対象となっている。松島、天橋立と並び、日本三景の一つで、風光明媚な事で知られている。その他、大阪の四天王寺と住吉大社の石舞台と並び、日本三舞台や日本三大鳥居、日本三弁天等々、「自慢」に事欠かない。だから、この島が日本では外国人に人気ナンバーワンの観光スポットだと言われているのも頷ける。2千人足らずの島の人口に対し、年間300万人の観光客が訪れると言うから凄まじい。我々が訪れた時も多くの「修学旅行生」で賑っていた。太平洋戦争の敗戦後、「神道」を敵視したGHQにより島全体が接収され、1954年にはマリリン・モンローが新婚旅行で訪れた事でも知られる。


 島の最高峰「弥山」535mへは幾つかの道が整備されている。ロープウェーも途中まで整備され、誰でも簡単に素晴らしい眺望が楽しめる。我々も、勿論?ロープウェーを利用した。二つのロープウェーを乗り継いで展望台のある「獅子岩駅」に着く。観光客は「獅子岩展望台」は向かうが、我々「アルピニスト」は、そんな所には目もくれない。主峰「弥山」を目指す。が、しかし、道はすぐ下りに。山を登っていて「下り」は辛い。下っただけ、登り返さなければならないからだ。「アルピニスト」になるのも辛いのだ。30分程のゆっくり歩きで「不消霊火堂(きえずのれいかどう」」に着く。平安時代の大同元年(806年)に弘法大師が炊いた護摩の火が、1200年後の今でも燃え続けている場所だ。「弥山」の頂上は、そこから10分程、花崗岩の間を登った所にある。頂上からの眺めは、流石素晴らしい。宰相、伊藤博文をして、「厳島の真価は弥山からの眺望にある」と言わしめただけの事はある。が、その素晴らしさを台無しにしているのが「展望台」だ。管理者の財政事情に依るのだろう。とにかく、ぼろぼろなのだ。「良い建物」ならば、古くなっても、それなりの「味わい」と言う物があるが、最初から「醜悪」な建物がボロボロになったのだから、どうしようもない。再建にも撤去にもお金が掛かり、現状維持しか方法がないのだろう。 下山は当初の予定を変更して「大聖院コース」を取り2時間ほどで神社の「宝物館」まで下った。流石、外国人に人気の島、次から次へと登って来るのは外国人ばかりであった。


 華やかな「外見」とは裏腹に、「厳島」の内実は「明るい」わけではない。島を去る日、島に3台しかない、と言うタクシーに乗った。この島も、日本の離島・地方都市の抱える「過疎化」という問題の例外ではない、と運転手さんが話してくれた。若者が、島を出て行くのはこの島だけの問題ではないのだ。人口2千人の島に年間300万人もの観光客が来れば、普通は「御の字」のはずだが、どうやら違うようだ。8年ほど前、100年以上も孤高を維持してきた町も、「財政」危機により、大論争を経て、対岸の廿日市市と合併することを余儀なくされた。

 
 島の長い歴史と島自体が「御神体」だと言う宿命の為か過去には多くの「禁忌」が存在した。「御神体」を汚さず守る、と言う観点から「出産」も禁じられ、女性は「出産」が近付くと島を出て出産後100日を経て島に戻ったと言う。生まれてしまった子供は母親と共に、即座に船に乗せられ島を離れた。「御神体」、即ち「土地」を傷つける事を嫌い、農耕すら禁じられていたと聞く。又、島が「女神の御神体内」と言う事で、女性の仕事の象徴であった「機織り」も禁忌の対象であった。「死」も又、穢れと見なし、死者で出ると、遺族は死者と共に対岸に渡り喪が明けるまで島に帰る事が許されなかったとのだ言う。だから、島には今でも「墓」が一つも無いのだ。その他にも、島に暮らす人しか知らない「風習」が今でも数多く残っているのではないかと想像される。「日本一軽いと思う地」に住む私から見ると、それは正しく、「別世界」の事としか思えてならない。

11_097_2



「弥仙巡り①」

2011年10月23日 | 旅行記
 10月の中旬、「弥山(みせん)」巡りの旅に出た。日本には「弥山」と名のつく山は多い。「弥山」とは須弥山(しゅみせん)の事でサンスクリット語が語源だ。古代インドの世界観の中心にそびえる山を意味する。


 最初に訪れた「弥山」は広島県福山市鞆の浦(とものうら)の対岸に浮かぶ「仙酔島」にある。島の周囲6km足らず。ホテルはあるがその島に住む人はいない。この辺りを含む一帯は1931年、「瀬戸内海国立公園」として日本で最初の国立公園に指定された。「国立公園」の指定を記念した切手の図柄に「仙酔島」の風景が選ばれているから、「仙酔島」はとりわけ代表的な景観だったのだろう。我々は砂浜に面したホテルに荷物を置くと、早速「弥山」に登る事にした。登山口はホテルの目の前、と言って良い所。なだらかな広い山道を登る事10分、小弥山への分岐が現れる。小弥山を往復して分岐に戻ると、今度は中弥山を目指す。登山口から約30分石の祠がたたずむ、誰も居ない中弥山で一休みして大弥山に向かう。歩き始めてから丁度1時間、やや急な登りを終えると大弥山、159mに着いた。頂上の東屋からは眼下に「鞆の港」が見える。


 下山の途中から一般道を外れ、木々の鬱蒼とした小道を下った。始めは殆ど見えなかった景色も、木々の間から島々が見える頃になると下山も終わる。下山口の先には絵のように美しい砂浜が広がっていた。よく耳にする「山紫水明」と言う言葉は頼山陽が鞆の浦や仙酔島を指して使った言葉だと言うのも頷ける。波静かなその日、数センチとも思える小さな波の奏でる潮騒が耳をくすぐった。のどかな浜辺を進むと波打ち際から数メートルの所で船から箱メガネと銛を片手に漁師が漁をしているのが見えた。何が獲れるのだろうかと思う間もなく、猟師の動きが素早くなって何か海中から引き揚げた。我々も目の前の展開にワッとなって思わず何が獲れたのかを聞いたら「マダコだよー」と答えが帰って来た。「タコ」等、沖合で獲れるものと思っていたが波打ち際で獲れるとは。だれかが「美味しそうねー」と声を掛けると気風の良い漁師さんは「あげるよ」といいながら獲れたてのタコを袋に入れて投げてくれた。タコはホテルでお刺身と天ぷらに仕上げられ我々の夕食を飾り、その味は殊更美味しかったのは言うまでも無い。


 翌日、我々は島の対岸にある「鞆の町」を歩いた。「鞆の町」のルーツは「鞆の浦」に面する「鞆の港」だ。古来、「潮待ち」の港として栄えた。満潮時、瀬戸内海に流れ込む海流は瀬戸内海のほぼ中央に位置する「鞆の浦」の沖合でぶつかり、干潮時には東西に分かれて流れ出して行く。「地乗り」と呼ばれる沿岸の陸地を目印として航海していた船は潮の流れを利用した。その潮の流れが変るのを待ったのが「鞆の港」であったのだ。「潮待ちの港」と言われた所以である。「魏志倭人伝」の「投馬国」の推定地の一つだと言うから、その歴史は古い。我々が最初に向かったのは「朝鮮通信使」の「迎賓館」とも言われる「対潮楼」だ。その昔、通信使が「日東第一形勝」と形容した景色の見える高台にある。「鞆の町」は、最近では、映画監督の宮崎 駿監督が滞在し、アニメ作品「崖の上のポニョ」の構想を練った場所としても知られている。この町の歴史に彩りを添える出来ごとと言えば「いろは丸」の事件だろう。慶応3年4月(1867年)坂本竜馬の乗る「いろは丸」が紀州藩の船「明光丸」と衝突、「いろは丸」が沈没した事件だ。沈没を免れた「明光丸」は竜馬を始めとする「いろは丸」の乗組員を乗せて「鞆港」に入港。「鞆の町」は竜馬による「損害賠償交渉」の舞台となったのである。「鞆の港」は江戸時代の港湾施設、雁木、常夜灯、波止場、船番所、焚場が唯一残る貴重な場所である。港は小さいが港の周りには江戸時代の蔵や建物が立ち並び風情ある街並みを形作っている。


 鞆の町には「架橋問題」と言う長年の懸案がある。外部からの「観光客」の視点とそこで生活する人達の視点は自ずと違う。我々は、昔ながらの景観がなるべく多く、なるべく長く残って欲しい、と願うが、そこに住む人々は「不便」この上ないのだ。背後に迫る山と陸地に食い込んだ港との空間は狭い。その狭い、くびれた場所には古くからの、車等無かった時代に形成された街並みに狭い道が通っている。朝夕の時間には通勤や通学の車がひしめきあう。そんな問題を解決する為、港の入口をまたいで橋を掛ける話が持ち上がったのは今から30年程前の事だった。それからはお定まりの「論争」が始まった。推進派と反対派の対立だ。地元に住む「推進派」に対し、「反対派」には外部の所謂「有識者」等が加わって問題を一層複雑な物にした。2年前に、裁判所は港の「景観利益」を認めて免許の停止命令を出して膠着状態が続いている。先日テレビを見ていたら、家電を販売する会社のコマーシャルで「お客様のもっともっとにお応えして」と言うのがあった。「架橋問題」は「もっともっと」とは少し違う話だが、「エコロジー」、「震災」「節電」等を考えても「もっともっと」と言う時代は既に終わったのではないかと私は思うのだが・・・。続く


10_195a

11_036



「奈良」

2010年11月28日 | 旅行記

 広い野原に一人たたずむ。野原は「藤原京跡」。西暦694年から710年までの16年間、日本の首都であった場所だ。「藤原京」は中国に倣い日本で本格的に作られた条坊制を持つ都城であった、と言われる。今は大和三山と呼ばれる畝傍山が西、天香久山が東、そして耳成山が北にその優美な姿が見えるだけで何もない。奈良の「平城宮跡」では「平城遷都1300年祭」が行われ賑わいを見せているがここ「藤原京跡」は見向きもされない。「平城京」が1300年なら、「藤原京」も1300年なのに、だ。片方は始まった方、もう片方は終わった方だからなのだろうか。

  その奈良に10月の末、「1300年祭」と「正倉院展」に合わせて訪れた。「平城遷都1300年祭」は「平城宮跡」を中心として、奈良県内の寺社もこぞって参加し、今年の春から秋にかけて198日間開かれた。日本国内で数多く開かれる「祭典」がしばしば目標に達しない中、メイン会場の「平城宮跡」を訪れた人の数が250万人の予想が363万人と目標を大きく越えて成功裏に終わった。奈良県全体の訪問者の数も1200万人が2000万人と大幅に増えると言う。「飾らず本物を見せる路線が成功した」とは主催者の弁だが、「1300年前から変らない自然を含めて、歴史の舞台をそのまま見せる工夫が人々の心をとらえた」のだろうとも言う。「平城宮跡」の会場へは主要な駅から無料のシャトルバスが運行し、「会場」内の特別の展示施設を除いて入場は無料だ。メイン会場には都合3回訪れただけだが色々な意味で配慮の行き届いた運営ぶりに感心した。このイベントでもご多分にもれずボランティアの人達の活躍に支えられていた。当日は「平城宮跡」の事をより詳しく知りたいと、事前にアレンジして、我々は2時間半のガイドツアーに参加した。その日の2日程前、私の所に電話が掛り、我々のグループの構成等詳しく聞かれ、会場までの行程や諸注意が知らされた。当日、我々の事を熟知したガイドが待っていて教室での約30分のレクチャーから始まった。会場には「遣唐使船」の復元展示、「遺構の展示館」や再現された古代の庭園等、色々な展示があったが、何と言っても最大の見ものは150億円を掛けて建てたと言う「大極殿」と「朱雀門」だ。「大極殿」の巨大さを見るだけで、かつての「平城宮」のイメージがふくらむ。

 「平城宮跡」は東西1200m、南北1000m、広さ130ヘクタールに及ぶ。地上にはかつての遺構は何もない。今は何も無い広い「野原」が「世界遺産」に指定されている。かつて「都城」であった「野原」は他にもあるが、「平城宮跡」だけが「世界遺産」の指定を受けている訳は何だろうか? それは、唯一つ、「木簡」が出土するからだ。「平城宮跡」の湿潤な地中の環境が「木簡」を腐らせず今に伝えているのだ。それは、あたかも地下に眠る「図書館」だとも言える。

 我々は「正倉院展」にも行った。今年の目玉は19年振りに出展された「正倉院」を代表する宝物として名高く、世界でただ一つ残っていると言われる「螺鈿紫檀五絃琵琶」だ。会場に入る為には並ばなくてはならない。入場する時間が遅かったせいで待ち時間は約30分程で済んだ。が、中に入ると「琵琶」を近くから見る為の別の「列」がある。「列」に並ぶ事を諦めた人は「遠方」から垣間見るしかない。私は勿論並んだ。列は「琵琶」を中心として、左に折れ、右に折れ、だんだん近付いて行く。相撲の仕切りのごとく、近付くに従い気分が盛り上がる。荘厳な「琵琶」が照明の中に浮かぶ。誰が、何時、何処で造ったのか? そして、如何、運ばれてきたのか?想像は尽きない。1000年以上も前に造られたであろう「楽器」が、「真新しく」そこに存在する事はまさしく「奇跡」だと思う。

10_113 10_140