源太郎のブログ

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飛んでいなかった、コンドル

2008年06月20日 | エッセイ

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 「空中都市」と言われ、山麓からは見えない集落だったマチュピチュ。16世紀のある日、インカ帝国の首都クスコの陥落が伝令によって、即座に知らされると、運命を悟った人々は「空中都市」の放棄を決めた。そして、集落の北に今でも残る「インカの橋」を抜けて、ジャングルの中に消えたと言う。その「橋」に向う日、一団の最後尾を歩きながら、「マチュピチュ」最後の日、落延びる一団の最後尾を歩いたのはいったい誰であったのだろうか、何を思いながら住み慣れた集落を後にしたのだろうか、と考えた。<o:p></o:p>

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 アジアの地から、ベーリング海を越えて、北米から南米まで辿り着いた彼らは、モンゴロイドとして日本人と共通の祖先を持つ。1532年、スペイン人の侵略者、ピサロが200人足らずの手勢でインカの地に上陸し、帝国の滅亡に至るまで、3000年に渡るアンデス文明を築いた人々であった。<o:p></o:p>

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 マチュピチュはアメリカ人考古学者ハイラム・ビンガムによって1911年に発見され、500年の眠りから醒めた。彼は、スペインの征服時代、神父デ・カランチャがその存在を書き残した黄金郷「ビルカバンバ」を探していた過程で偶然にも発見した。15世紀に作られたと言う、標高2300mの集落には7~800人の人々が生活していたと推定されている。我々同様、文字を持たなかった彼らの歴史は、伝説から想像する以外は今でも多くの謎に包まれている。<o:p></o:p>

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 我々がマチュピチュに滞在中、遺跡の南にアーモンドを立てた様な山、ワイナピチュ峰(2634m)に登った。頂上直下、急峻な岩場の続く先にも穀物の貯蔵庫と言われる石造りの遺跡があった。なぜ、こんな所に、と思わざるを得ない場所だったが、たぶん、相対的に温度が低い、と言う事にその訳はあったのだろう。頂上からは遺跡が見渡せ、新たな遺跡の発掘も続いていた。ガイドをしてくれたルイスさんは、「観光客がクスコからヘリコプターで飛んで来るようになってから、コンドルの姿を見かけなくなった」と話していた。眼下のマチュピチュの谷を流れる聖なる川、ウルバンバ川はアマゾン川の源流として、はるか大西洋に注いでいる。<o:p></o:p>

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 標高が槍ヶ岳より高いインカ帝国の首都クスコを訪れたのは、旅も終わる頃だった。主は変わっても住む人はインカの時代と変わらない。当時の言葉、ケチュア語しか判らない人々が今でも国民の30%もいると言う。クスコにはインカ帝国で最も神聖な場所であったコリカンチャと呼ばれる「太陽の神殿」の跡には、土台と一部の石壁を残し、今では植民地支配の象徴としてサントドミンゴ教会が建っている。<o:p></o:p>

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滞在した、昔の王宮の跡地に建つと言う古めかしいスペイン風の家具・調度に埋まったホテルには、スペイン人にとっての英雄、「ピサロ」の名前を冠した大きな部屋があった。その部屋の前を通る時、何かの厄災を恐れる気持で、私は足早に通り過ぎた。<o:p></o:p>


中禅寺湖南岸周遊歩道

2008年06月03日 | 山行記

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 日光の中禅寺湖。西の外れに千手ヶ浜はある。雨続きの合間、びっくりする様な爽やかな日。乗り物を乗り継いで昼過ぎ、その浜に立つ。湖面の先に大きな男体山。千手ヶ浜は日光開山の祖、奈良天平の時代に生まれた勝道上人が創建した「千手堂」があった事に由来する。湖岸に立つと、この時期としては湖を渡る風がひんやりと冷たい。歩き始めてすぐ、音次郎吊橋を渡ると、すぐクリンソウの群落地に着く。園内に入ると、色取り取りに咲いたクリンソウが素敵な小川の淵に可愛らしい列を作っていた。ゆっくりとしたい所だったが、今日は先を急ぐ。湖岸の道に戻り、東に向かう。<o:p></o:p>

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歩き始めて30分、「千手堂」の跡地を通り、山道に差し掛かる。目指す「阿世潟」までは約9km。程無くして黒檜山への分岐を右に分け、緩やかな登り下りが湖岸に沿って続く。所々シャクナゲの群落が現れるが、今年は「裏」なのかもしれない、殆ど花をつけていない。その代わり、私の好きな清楚な白い花をつけたシロヤシオの木が所々に現れる。「俵石」を過ぎると、道は少し険しさを増し、緊張を迫られる所も現れる。道は、木々に囲まれた、しっとりとした2000m級の山をトラバースしている雰囲気だが、すぐ目線の下には薄緑色の湖面が木々の間から見え、ちょっと、不思議な感覚がする。ほんの時々だが、木々の間の、湖面の奥に、雪の残る奥白根の山々が見える。ハッとして立ち止まり、うっとりと眺める。暫くして「梵字岩」を通過、所々日差しを浴びたブナの新緑が目に眩しい。幾つもの「崎」を通過する度に歩く方角が千変万化し、その度に景色が変わる。「白岩」は展望の良い事で知られるが、今日は先を急ぐ為、残念ながら省略。頭上の木々の花々や湖面の水の色、遠くに見える山々を楽しみながら、先を進む。<o:p></o:p>

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松ヶ崎から大日崎を過ぎると中禅寺湖唯一の島「上野島(こおずけじま)」が現れる。前述の勝道上人の遺骨の一部が納められていると言うその小さな島、一説には人工の島とも言われ、水位が下がると、歩いて渡れるとも言われている。その小さな島の対岸の歌が浜には延暦3年(784年)勝道上人創建の中禅寺がある。そこから30分程で阿世潟に着く。そこは社山や半月山へ至る分岐にもなっている。日の長いこの時期とは言え、そろそろ日も傾き、標高の高さもあって寒さも少し増してきた様に感じた。ゆっくりと休憩し、ここからはブナ林の中に続く広い道を進む。<o:p></o:p>

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八丁出島を過ぎると、程無くして半月山荘。ここから先は舗装路となり、車も通行出来る道だ。右からの広い車道が合流すると、間も無く各国の大使館の別荘の脇を抜け中禅寺温泉に出た。そこは、既にひっそりとして、誰も居なかった。ようやく、開いている蕎麦屋を見つけ、バスの出る合間に空腹を満たした。日曜日の喧騒も終わり、渋滞も終わったいろは坂をバスが下る頃、うっすらと闇が迫り、日光の駅に着く頃は、既にとっぷりと日も暮れていた。<o:p></o:p>