毎回、山で出会う人に驚かされる。夕食前、「徳本峠小屋」の、その日の自分の寝場所に居たら、5時過ぎ、「驚愕」の御夫婦が島々からあがって来た。普段、人の事は余り根掘り葉掘り聞かない私が、思わず、色々、聞いてしまった。大阪に住むと言うそのご夫婦、夜中の12時に自宅を車で出発、約400㌔をドライブ、多分、登山口の辺りで2~3時間仮眠、9時に島々を出たと言う。そして、8時間後、小屋に着いた。5時過ぎは小屋に着く時間としては、ちょっと遅い。でも、あの難路を歩いたのだから、凄い、と勿論言える。翌日からのコース取りはこうだ。昭文社のエリアマップ、「槍ヶ岳・穂高岳」をお持ちの方は、是非地図をトレースして頂きたい。二日目、徳本小屋から大滝山を経由して蝶ヶ岳、常念岳、大天井岳、西岳、槍ヶ岳、奥穂高岳、西穂岳、焼岳を巡る7泊8日。奥さん曰く、別個には夫々の行程は歩いた事があるが、通しで歩くのは初めて、だと言う。お会いしたのは9月6日だったから、今日現在(10日現在)、まだどこか、山の中にいるに違いない。これは凄いコース取りだが、私が「驚愕」したのは、それよりもご夫婦の年齢だった。失礼ながら、奥さんにお歳を聞いたら、「74歳」と答えが返って来た。ご主人のお歳は聞きもらしたが、同年齢ぐらいなのだろう。翌朝、別れ際にご主人のザックを持たせて貰ったら、ずっしりと重く、20㌔はあった、と感じた。予定通りに行くのかどうかは別として、世の中には凄い人がいるものだと、つくづく感じたものだ。
私は、3日目は島々へ下る。前日、ご夫婦の登って来た道を逆に下る形だ。基本的に「沢道」だから、「沢道の宿命」で、遡行する場合には、なだらかな登りの後、急登と言う展開だが、下りではその逆になる。ご夫婦がこの急登を登って来たのか、と思いつつ、沢に出るまで下った。その後は、沢伝いにひたすら歩く事になる。山中10㌔、林道歩き6㌔で全部で16㌔の道のりだ。「沢道の宿命」はもう一つある。枝沢が本流に流れ込む所が至所で崩壊している。加えて、新旧取り混ぜて、枝沢・本流を渡る橋や桟道がざっと50はあるだろうか。中には、渡るのを躊躇する橋が幾つかあった。この道は、その昔、安曇野から上高地に入るメインルートであった。かの、ウエストンや嘉門次の歩いた道だ。約7時間後、普段は通り過ぎるだけであった島々の集落に辿りつく事が出来た。
初日の登山口に置いた自分の車の所まで、バス・電車・タクシーを乗り継いで戻った。豊科の駅から乗ったタクシーが三股に向かう途中、林道に猿の群れが戯れていた。そんな光景を運転手さんと話していると、林道のカーブを曲がった先、20m位の所に、木々の緑の中に、大きく「黒」が目立った。「熊」だとすぐ判った。あちらも、近付く車がすぐに判ったのだろう、慌てる素振りもなく木々の間に悠々と消えて行った。あの、「ご夫婦」は今頃、どの辺りを歩いているのだろうか。
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奥多摩・日原鍾乳洞の北西に「タワ尾根」と呼ばれる尾根が伸びている。地図では幾つかのピークに山名と標高が記されているが山道を示す実線は引かれていない。奥多摩の山域でもこれだけ山名が連なり実線の引かれていない所はない。先日その「タワ尾根」を登った。目的の山は「ウトウの頭」1587m。
日原鍾乳洞に近い目的の場所までは車で約2時間半、朝5時前に家を出たから、7時半にはもう歩き始めていた。予め調べて目星をつけておいた取付きの場所はすぐに見つかった。が、暫く続いた踏み跡もじきに消えてしまった。歩いて登る斜面としては限界に近い急登が続く。人の歩いていない場所は地面がふかふかして柔らかく歩き難い。久し振りの独り歩き、どうしてもペースが上がってしまう。着ているTシャツもすぐに汗でびっしょりだ。暫くすると不思議な事にジグザグに登る道が現れ、所々には古びた石段もある。麓には歴史のある神社があるから最初のピーク「一石山」辺りまでは昔から行き来があったのだろう。40分程で石のベンチのある尾根に出た。古びた指導標もある。一休みした後、やや方向を変えて「一石山」へ向かう。ほんの少しなだらかになった道もすぐ急登に変り杉の植林の間を踏み跡を頼りに登る事20分、ようやくタワ尾根から延びる支尾根に乗った。最初のピーク、「一石山」はそこから数分の場所にある。殆ど平らなピークは藪等も無く明るく気持ちが良い。ピークを後にして約10分、「ミズナラの巨木」に向かう分岐が現れた。「巨樹周回コース」とある。それにしてもこんな所に「巨樹」を見に来る人はいるのだろうか?「巨樹」は帰りに時間があったら見る事にして次のピーク「人形山」へかすかな踏み跡を辿る事にした。一登りで尾根に乗る。「タワ尾根」だ。北西に方角を変えて暫く、木々の間に「人形山」の表示を見つけた。注意していなかったら見逃してしまっただろう。ピークもはっきりとしない。道は「ウトウの頭」まで尾根通しだから尾根線を外さなければ迷う事は無いが踏み跡は殆ど無い。道はなだらかで、無線のルートに付き物の「藪」も無く、木漏れ日の気持ちの良い歩きが続く。尾根から方向を変える要所には「手製」の標識もあって注意していれば道に迷う事は無い。「金袋山・1325m」を過ぎて暫く行った所に鹿や猪の「お風呂」、「沼田場(ぬたば)」があった。「沼田場」は動物達が体表に付いた寄生虫を落とし体を洗う文字通りの「お風呂」だ。山を歩いているとしばしば目撃するから人間同様、動物たちにとっても必需品に違いない。そして、「篶坂ノ丸(すずさかのまる)・1456m」を通り「ウトウの頭・1587m」のピークに着いたのは登り始めてから約3時間。ここまでの行程では唯一ピークらしいピークだった。
「ウトウの頭」の頂上には楽しみにしていたものが一つあった。知る人ぞ知る「ウトウ」の描かれた他の山では見た事のない素晴らしい陶製の「山銘板」だ。やや赤みがかった大きな嘴、白い羽根毛に挟まれた可愛い目、そして黒の体。実はこの「山銘板」、2代目なのだ。木版に彩色された初代は今から15年ほど前に山頂に掲げられたらしい。が、とても残念な事に1~2年前の間に不埒者に持ち去られてしまったのだ。そして、今年になって新しい「陶製」の銘板が再び掲げられたのだ。
「ウトウ」は「善知鳥」と書く。体長30センチ程に海鳥、集団で潜水し小魚を捕食すると言う。崖の岩棚に営巣し地面に穴を掘って生活している。私もかつて訪れた事のある北海道の「手売島」には60万羽とも言われる世界最大の営巣地がある。東北の青森。津軽藩2代目藩主の命により「善知鳥村」に港を開き漁師が目印にしていた小高い丘の森から由来して「青森村」と呼ばれたのが「青森」の地名だと言われている。
「ウトウ」は親と子の情愛が殊更強い鳥と言われている。西行法師の歌にも「子を思う涙の雨の笠の上にかかるもわびしやすかたの鳥」(ウトウを捕る猟師は、親鳥をまねて「うとう」と声を掛け、それに安心して巣穴から出てくる雛を捕まえる。それを見て悲しむ親鳥は血の涙を流すので、猟師は蓑と笠を付けるのだ)。今は無い、初代の銘板の裏には「藤原定家」の歌、「陸奥の卒士の浜なる呼子鳥鳴くなる声はうとう安方」が彫られていた。
私は「ウトウ」の山頂で銘板に一人見入り、それを再び掲げた「主」の思いは何であったのかに思いを馳せ、静かな一時を過ごし、山頂を辞した。
首都圏の、2年振りと言う「猛暑日」の朝、私はシラフカバーにくるまって寒さに眠れぬ時を過ごしていた。標高2295mの「岩菅山」頂上避難小屋の朝はまだまだ寒い。
7月の中旬、避難小屋を利用して「裏岩菅山」まで足を伸ばす、と言う企画で志賀高原に出掛けた。集合は新幹線の長野駅。新幹線は大宮を出ると上田に止まるだけで長野まで1時間25分の道のり。あっと言う間だ。長野からはバスも出ているが、帰りの事を考えて、今回はレンタカーを利用する事にした。高速を経由して志賀高原の「高天原」まで1時間20分程。「高天原」からはスキー用のリフトを利用して時間を稼いだ。標高差は約250mだから、我々の足で登ったら1時間以上かかる計算だ。本当は、長野オリンピックのスキー大回転のコース、東館山へのゴンドラリフトを利用すればもっと標高は稼げるのだが、今回は下山のルートも考えて「高天原」からのスキーリフトを利用する事にした。
ルートは一旦「東館山」に登り、高山植物のお花畑を抜ける。ゴンドラ駅の周辺には観光客も多い。連休の後、と言う事もあってか、そこを抜ければ殆ど人の姿は無い。歩き始めてから約1時間半、2126mの「寺子屋峰」に着いた。三角点が無ければ、気付かない様なピークだ。続いて「赤石山」への分岐、「金山沢の頭」で暫しの休みを取ると先に進む。左手に、「尖った」岩菅山の姿がチラホラする。幾つかの登り下りを繰り返して、「ノッキリ」と呼ばれる分岐に着く。ここまで約4時間、時間の余裕があるせいか、のんびりと歩を進めた。それにしても「ノッキリ」とは些か面妖な「地名」だ。峠の分岐だから「霧が晴れる場所」「退く霧」「ノッキリ」とも「峠を乗り切る」「ノッキリ」とも言う説がある。私も定かではないが「峠を乗り切る」方が、それらしい気がする。ここまで来れば、距離的には「岩菅山」の頂上は近い。が、難所が待っている。「ノッキリ」を出て暫くすると岩ガラガラの急登が待っている。せっかく作られている階段道も壊れ放題で実に歩きにくい。そんな道と格闘する事小一時間、午後4時過ぎ、「岩菅山」の頂上に着いた。今日は頂上にある「避難小屋」泊りだから、のんびりと周りの景色を楽しむ、所だったが、それを邪魔する「伏兵」が居た。「ブヨ」の大軍だ。その数も半端じゃない。手を振り回せばブヨが何匹も手に当たる。顔にも、頭にもたかり、耳にも入る。もう居られない、慌てて「避難」小屋に入る。「避難」とは、そう言う事だったのか。
「避難小屋」に泊まるには色々と道具立てが必要で、ちょっと敷居が高いイメージがある。日帰り山行には要らない、寝袋・マット・多くの食糧や水・ガスやコンロ・鍋や食器、これだけでも相当な重さだ。でも、「料理する」と言う発想を捨てれば、必要のなくなる物は多い。調理不必要な食べ物は数多ある。勿論、日帰りより重くなるが、「避難小屋」利用で山の世界がグーンと広がる。
さて、そろそろ日没、夕焼けを見ようと外に出る。勿論待っていたのは「ブヨ」の大軍。それでも、2295mの頂上から見る日没と山々のシルエットは素晴らしい。
翌朝、5時半過ぎには小屋を後にして標高2341の「裏岩菅山」へ向かう。晴れ上がった、その日、北アルプスの全山が一列に並んで見える。「ブヨ」も相変わらず活発に活動している。御蔭で、「牛に引かれて善光寺参り」ならぬ、「虫に追われてコースタイム」になり、丁度50分で到着。一頻り、景色を眺めると、踵を返し、再び「岩菅山」に向かった。「虫除け」も殆ど効かない「つわもの」に対処するには、悟りを開いて「明鏡止虫」しか無いのかも知れない。
8時前、「岩菅山」からの下山開始。昨日苦労した、「瓦礫」の下りを慎重に行く、そして「ノッキリ」の分岐に戻ると、「アライタ沢」のルートを下る。その頃には、朝早く登山口を出た人達が上がって来た。皆、一様に、「早いですね~」と口々に言う。「はい、昨日は避難小屋に泊まったんです」と返す。
「ノッキリ」から下る事1時間40分、「アライタ沢」に出る。橋の手前で休息。手と顔を洗ってさっぱり。水が、冷たく気持ちが良い。細い木橋を渡ると道は殆ど水平で気持ちの良い道が続く。脇を小川が流れる。この流れは「上条用水」と呼ばれ付近の水源となっている。もうすぐ「小三郎小屋跡」の分岐に着くと言う頃、小川の脇に岩の裂け目から清水が湧く場所がある。「底清水」だ。早速、飲んでみると、これが「絶品」の味。実に旨い。水の味もさることながら、「旨い」には訳がある。何しろ、実に「冷たい」のだ。冷蔵庫で冷やしたって、これ程「ギンギン」にはならない。ほんの少し手を浸しただけでしびれを感じる程だった。
「底清水」から歩く事1時間、一ノ瀬に着く。そこが、下山の目的地。丁度、お昼、何か食べてお風呂に入ろう。思い返せば、「岩スゲェ山」か、と思ったら、そこは「虫スゲェ山」だった。だが我々は、山の魅力に浸る二日間を過ごし、その満足感で一杯だった。
ずっと、その日の天気の事が気になっていた。いつもの事だ。仕方がないとは言いながら、この所の季節外れの寒さに些か当惑しながらの日々。予定の日の天気予報は「曇り時々雨」、翌日からは平年並みに戻ると言う。予定の日の前日、朝から何度もパソコンで予報をチェック。昼頃まで風雨が強く午後から回復、と出ていた。春を楽しむはずの企画だったから、一時とは言え真冬並みの寒さに加えて「風雨」はまずい。延期・中止も考え始める。午後には「キャンセル」を告げるメールや心配した問い合わせの電話も入る。長い時間、予報とにらめっこの末、夕方になって出した結論は「集合時間の延期」、今までの経験だと、実際の天気は予報より速く動く事が多い、と言う事もあった。「葉山の古道」を歩くと言うプランは集合時間を11時に遅らせても、元々、行動時間も短い予定だったから大きな影響は無いだろう、との見立てだった。
当日、7時過ぎに起きた時にまだ降っていた雨も朝食が終わる頃には上がっていた。空は相変わらずどんよりと暗い。でも、出がけに傘をささずに済むのはありがたい。電車で集合場所に向かう途中には、もう薄日も差して、青空も垣間見えるほどに回復してきた。集合場所の駅に着くと春の日差しが戻っていた、が風は冷たい。いつも一番乗りのHさんが来ている。
今回の企画の目玉の一つは評判の「蕎麦処」でお昼を食べる、と言う事だった。だから、歩き始めてから丁度昼頃に、その「蕎麦処」に着く、と言う計画を立てていたのだが、天候の回復を待つ時間稼ぎの算段もあって、まずは「お昼」と言う計画に変えていた。山を歩く企画ではこんな事は出来ないが、ウォーキングでは臨機応変がきく。早速タクシーに分乗して向かう。「蕎麦処」に着くと、予約係りのおじいさんが笑顔で迎えて呉れた。まだ開店前だったが我々は2番目だった。週末には、普段行列も出来るそうだ。注文は、なぜか全員一致して「竹の子そば」。この時期だけなのだろう「朝どり」と掲げた「宣伝」が効いたのかもしれない。お店のインテリアは普通の蕎麦屋とは違うモダンなインテリアとBGM、それに大きな窓の御簾越しに見える「棚田」の風景が何とも素敵だ。味よし、雰囲気よし、景色良し、どおりで人気な訳だ。
その日の目玉のもう一つは「にほんの里百選」にも選ばれている「棚田」の景色。関東では、今では珍しい景色だ。選ばれた理由には「葉山牛の牧舎のワラを使った堆肥作り、里山利用の炭、64枚の棚田は湧き水を利用」等「循環の輪」による農業の営みが評価された事による。ただ単に美しい「棚田」の景色がそこにある、と言う事だけでなく人の自然の中の営みが互いに関連して繋がっている、と言う事の価値が認められたのだ。「棚田」はボランティアの手により田植えから収穫までサポートされ、とれたお米は皇室にも献上されていると聞く。その日、棚田に沿う道を登る途中、5月末の田植えに向けて代掻きなどの準備作業をしている「おじいさん」が居た。挨拶をして話が始まった。田圃を囲む畔の内側に張られたむしろが不思議だったので聞いてみた。畔は乾燥するとひび割れて水が外に漏れてしまうのだと言う。内側に張られたむしろは田圃から水を吸い上げ乾燥を防ぐのだ。そんな事を、「おじいいさん」は勢いよく水の張られた田圃に飛び降りて教えてくれた。旨いお米が我々の口に入るまで未知の苦労は多いのだ。棚田の上部に出て見下ろすと水面が光る小さな田圃がジグソーパズルの様に広がり美しい。背後には新緑に彩られ「山笑う」たおやかな山並みが続いている景色に「日本」を感じて、思わずうっとりとする。
「棚田」から里山の中を歩いて30分程、「水源地」に着いた。かつて、近くの「御用邸」に水を引いていた井戸があるのだ。金網で囲われた水道施設の一角に意外な物があった。ニリンソウの大群落だ。道から入り込んだ一角だから、見逃してしまう人は多いに違いない。金網に囲われているのも幸いしたのかも知れない。皆、びっくりして歓声の輪唱が広がる。
近くの浄土宗のお寺でしばし休憩を取ると「鐘」をついた後、古道歩きを続けた。古道は「古東海道」とも言われ、古代の東海道の事で足柄峠を越えてから相模の国に入り、鎌倉から三浦半島を縦断し房総半島に向かった道の事だ。道筋には寺や武将の墓なども点在する。道のそこかしこに見掛けるのが「庚申塔」。「庚申講」は「講」の一種。60日毎の庚申(かのえさる)の日、集まって儀式の後、夜を徹して飲み食いをする。「庚申の夜」と言う言葉を聞いた事もあるだろう。江戸時代の川柳に「五右衛門が親 庚申の夜をわすれ」と言うのがある。「庚申の夜」に身ごもった子は盗賊になる、と言う言い伝えをもじった川柳だ。盗賊で有名な「石川五右衛門」の親は、その夜が「庚申の夜」だった事を忘れてしまったのだろう、と言う意味だ。「庚申塔」は江戸時代の農村信仰の一つで講の継続と供養の為造られた。栗坪の庚申塔は元禄四年(1691年)、寺前の庚申塔は寛文十一年(1671年)と造られた年号が刻まれている。
里の春と古に思いを馳せる里山歩きも、棚田の近くまで、ぐるっと一回りして元に戻った。晴れたり曇ったりの中、眩い青空にも恵まれて、幸い雨にも降られず歩く事が出来た。「日本の農業」の衰退が叫ばれる今、美しい日本の里山の景観も、農業が滅びてはあり得ないと、改めて思った。
万葉集に「しもつけぬ みかもの山の こならのす まくわしころは たかけかもたむ」(下野の三鴨の山に生えている小楢の木のように、かわいらしい娘は 一体、誰の妻になるのだろうか)と言う歌がある。 3月の下旬、のどかな春の一日、その三毳山(三鴨の山)を歩いた。最寄駅は群馬県と栃木県を東西に繋ぐ両毛線の「佐野駅」。朝、10時少し前、「佐野駅」に着くと、改札口の外に、「カタクリの里」を初めとする近隣の観光スポットを紹介するパンフレットがテーブルの上に並べられ、妙齢のご婦人が立っていた。無料のバスも「カタクリの里」まで出ていると言う。どおりでハイキング姿が目立つ。我々の今日の行程は、南の登山口にある「三毳神社」から縦走して北側の「カタクリの里」まで歩こう、と言う趣向だ。早速タクシーに分乗して15分程の所にある神社に向かう。「三毳神社」は星の神「天香香背男命」(アメノカカセオノミコト)を祀る古い神社だ。「毳」は「柔らかい毛」を意味する漢字らしい。なだらかで優しい姿の峰が三つ並んだ様を「三毳(みかも)」と称したのだろう。登山口での何時もの「儀式」を終えると歩き始めた。冷たい風がひんやり感じていたのも束の間、急な階段状の登りに汗ばむ。30分程の所にある日本武尊の足跡石と呼ばれる足型の石のある辺りでは、もう息が上がっている。相当な急登だ。奥宮までは登山口から小一時間、我々が到着した時はお昼のお弁当を食べる一団で溢れていた。我々も早速その仲間に加わる事にした。
腹ごしらえを済ますと北に向かう。15分程で今日最初の小さなピーク、中岳(210m)に着く。流石連休の最終日、人が溢れている。暫く行くと峠の車道に下りた。そこは、ちょっと変なネーミングだが「山頂広場」と呼ばれ、東屋やトイレ等がある。そこで用を済ませると先に進む。10分程で再び車道を渡るとすぐ山道の分岐に着く。ここはその昔
「三毳ノ関」があった、と言われている所だ。が、今はひっそりと石の祠が立つのみで何もない。「関」は7世紀の奈良時代、近江の国府(滋賀県大津)から陸奥の国府(青森)を結んだ「東山道」に設けられたと言う古の「関所」跡だ。そこから暫く進むと「花籠岩」の脇を通り、広い平坦な山道となって、正面の木々を通して青空をバックに「三毳山」のシルエットが浮かぶ。殊更急ぐ訳の無い行程、山道の脇に座って休憩を取る事にした。
低山とは言っても「三毳山」の登りに掛ると急登が続く。10分程だが、長く感じる。午後2時前、この日の目的の山「三毳山」229mに着いた。頂上からは雪を頂いた「男体山」を初めとする日光連山や赤城山等も見えている。どうやら「三毳山」とは山域の総称で頂上には「青竜ヶ岳」と229mの山とは思えない「豪壮」な名前が書いてあった。思わず「青竜ヶ岳」3229mに着きました!と言ってしまった程だ。
頂上を出て15分、尾根を東に分ける分岐に出た。指導標には東の方向に「カタクリ群生地」とある。皆、躊躇なく東の道を取る。そこから5分、「カタクリの群生地」に着いた。満開の「カタクリ」が一面に群生している。この「カタクリの群生」だけを目当てに多くの人がカメラを向けていた。「カタクリの群生」に加えて「イチゲ」の白も目立つ。管理人の人に聞いたら7~8月に下草を刈る位で肥料はもとより手入れなどせず、自然のままだと言う。5月下旬、実が弾けて2~30のタネが落ちる。生き残ったタネが翌年、針の様な新芽を出す。翌年はそれが小さな葉になる。毎年少しずつ成長して7~8年、ようやく花を咲かせるのだ。花の命は短い、が花をつけるまで、何と長い事か。
園地を抜け、そろそろ「気もそぞろ」になってきた頃、最後の「びっくり」が待っていた。「ミズバショウ」の群落が突然現れたのだ。思わず、大歓声が上がった。意外だったからだ。そして、春の息吹を堪能した余韻に浸りながら我々の一日は終りを告げたのだった。
登ってみたくても、中々チャンスに恵まれない山がある。その一つに札幌の円山・藻岩山があった。北海道に行くとどうしてもメインの山に目が向いてしまい、低山に登る機会は少ない。10月の末、予定していた山行が中止になり、ぽっかりと空いた一日、やっと念願が叶った。
円山は標高225m、藻岩山は531m、大正10年、共に天然記念物に指定されている。外国に行くと市街地の真ん中に広大な公園があったりして羨ましく思う事がある。例えばロンドンのハイド・パーク(253ha)、ニューヨークのセントラル・パーク(337ha)、ニュージーランド、クライストチャーチのハグレイ公園(150ha)等だ、因みに広いと思う皇居は115ヘクタールでハイド・パークの半分の広さである。円山と藻岩山は市街地を挟んではいるが一帯の物と考えれば、天然記念物の指定区域だけでも広さは約327haだからセントラル・パークとほぼ同じ広さだと言える。円山・藻岩山共に開拓時代から保護され「原始林」と呼ばれてはきたが、厳密に「原始林」と言えば、それは「過去において一度も人間による破壊を受けていない森林」と言う事になる。実際の所は人の手が全く入っていない訳ではなく、「原始林」に近い、「天然林」と言えよう。平地はカツラ、上部にはミズナラ、山腹にはシナノキ、エゾイタヤ、オオバボダイジュ等が生育している。一帯には学術的に貴重な植物が生育していると共に、藻岩山だけに限っても、植物の種類は400種以上にも及んでいると言う。そんな所が、地下鉄の駅から歩いて10分も掛からない所にあるのだ。
飛行機、バス、地下鉄を乗り継いで最寄りの地下鉄「丸山公園駅」に着いたのは朝の10時過ぎ。Tシャツ1枚ではちょっと肌寒い感じだったが、抜ける様な青空が気分をウキウキさせた。デイパックを背負った人達や小学生の一団が、同じ方向に向かって歩いている。登山口のある公園の入り口までは地下鉄を降りて7分程度。公園に入ると背の高いスラリとした巨木が林立している。紅葉も丁度真っ盛り。積もった落ち葉も美しい。
数分で「円山八十八ヶ所」と呼ばれる登山口に着く。四国の八十八ヶ所に因んで道中に八十八体の観音像が祭ってあるのだ。登山口の大師堂を抜けるとすぐ登りに入る。向かう円山はその昔、アイヌの人々に「モイワ」(小さな山)と呼ばれていたほんの小さな山なのだ。途中の木々が実にすばらしい。長く保護され、原始に近い姿を保っているからだろうか。市街に近い山だけあって、散歩がてらに登る人や子供連れも多い。抜ける様な青空に反し、濡れた落ち葉が滑る。思わず、下って来た人に聞いてしまった。「どうして、こんなに落ち葉が湿っているのですか?」、曰く、「今朝まで雨が降っていたからですよ!」、どうして、お前はそんな事を知らないのか、と言わんばかりの顔をしていた。横浜は雨は降らなかったんだけどな~。頂上には40分で着いた。少し速足だったとは言え、40分で登れるなら、散歩気分もうなずける。頂上にいた人から「旦那さん、若いね~」、声が掛かる。私のTシャツに目が留まったのだ。いや~、お兄さんじゃなく、旦那さんと言われたのがちょっと気に入らなかったが、「これしかないんですよ~」と応じた。頂上には目の前にビルで埋め尽くされた札幌の市街が広がる。本当に目の前なのだ。今日はもう一つ登らなければならないので長居は出来ない。下りは円山動物園経由の周回ルートで下山。25分で大師堂のある八十八ヶ所に着いた。週末だった為か、沢山の人が三々五々歩いている。市街地に出ると円山の淵に沿って歩き、旭山公園にある登山口に向かう。街路樹の紅葉も綺麗だ。45分程歩いて登山口に着いたのは丁度12時過ぎ。そろそろお昼だ。羽田で買った鯖寿司を登山口に座って食べ、腹ごしらえをして歩き出す。頂上までは約1時間半、幾つかのピークを越えて行く。円山ほど樹相は濃密ではないがさすが天然記念物に指定された区域のある山、しっとりとした趣がある。前夜の雨の為か、地面が少しぐちゃぐちゃして滑り易かったが、青空や紅葉と木々の間から見える市街地のビル群のコントラストが面白い。だが、頂上は別世界だ。頂上直下に大きな駐車場があるのに加えてロープウェーまであるから、「札幌の展望台」に観光客が溢れていた。眺望は360°。市街地の反対の西側には山々が見渡せる。余りの喧騒に早々に退散する事にして南東の下山ルートを取る。2~3分もすれば、元の静寂が戻る。紅葉が逆光に映え、真赤に燃えている。45分程で下山口に着いた。舗装道路を歩いて札幌駅に行くバス停に向かった。午後3時過ぎ、北の大地は早い夕暮れの雰囲気を既に迎えていた。札幌駅からはJRの「快速エアポート」が出ている。飛行機が新千歳の空港を離陸する頃、夕闇がもうそこまで迫っていた。
成田からアメリカのアトランタを経由してチリのサンチャゴまで、飛行機で飛ぶと28時間。それからアルゼンチンのメンドーサまで飛行機でもう1時間、その先、登山口に近いロッジまでバスに乗って3時間、泊まったロッジから登山口まで車で15分。日本から南北アメリカの最高峰アコンカグア(6962m)の登山口までの行程を、途中経過を省いて、簡単に言って仕舞えばこんな所だ。確かに遠い。が、現地の言葉で「石の歩哨」を意味するアコンカグアの頂上へ向かう歩きはそこから始まる。登山口の標高は2900m。私が行った12月はカラッと青空の広がる、明るい日差しの溢れる、空気がちょっとひんやりとした所だった。この場所に、再び下山して来るのは2週間後だ。取敢えず標高4230mのベースキャンプ(BC)まで2日間の行程。荷揚げのミューラと呼ばれる馬の群れが引っ切り無しに行き来している。その度に赤い土埃が舞う。初日の標高3368mのキャンプ地までは約3時間半の歩程、オルコネスの谷を流れる川沿いのなだらかな道が続く。二日目、8時過ぎにキャンプ地を立ち、何度か徒渉を繰り返して4230mのベースキャンプ(BC)に着いたのは夕方の5時過ぎだった。谷の奥まった所に位置するベースキャンプは色とりどりのテントで溢れている。ヘリポート、診療所、ロッジのある賑やかな場所だ。まあ、アコンカグアの本格的な登山はここから始まる、と言って良いだろう。我々は、ここで高度順化の為滞在し、上部キャンプとの登り下りを繰り返した。
高度障害、と言う意味ではここが一つの関門と言って良いかも知れない。ここで、高度順化していなければ、この先に行くのは難しい。診療所で酸素の「血中濃度」を測る事が義務付けられている。いよいよ、BCを立つ最後の日、相棒がこれに引っ掛かった。が、執念と言うのは恐ろしい、彼は夜っぴて3リッターの水を飲み続け、見事翌朝のチェックをクリアーしたのだ。トイレに行く為、一時間毎にテントを這い出る物音に、おかげで私は一晩中殆ど一睡も出来なかった。
BCに着いてから数日後、テントを撤収して上部キャンプへの移動を開始。小刻みに標高を上げる為、行動時間は1日に4時間程度と短い。その日は再びBCに下山。翌日、再び5600m地点に移動してテント泊。もっぱら日本から持ってきた日本食を食べる。が、食欲が極端に落ちている。翌朝、食欲が殆ど無く頭痛がする。起きてみると、テント内のペットボトルが凍りついている。暫くすると、頭痛も治まった。やはり、睡眠中は呼吸が浅くなる為酸素摂取量が下がるのだろう。その日、高度順化の為、標高5600mから最終キャンプ地の標高5900mまでを往復し荷揚げも行った。翌日、同じ行程を繰り返し、再び5900mの最終キャンプに着いたのは午後の3時前。頭痛、食欲不振、疲労、寒さ、長く続いた狭いテント生活に体が既にぼろぼろになっていた。翌日はいよいよ、頂上を目指す日だ。
殆ど眠れずに迎えた朝、起床は、3時45分。殆ど食欲の無い所、口に入る物を無理やり腹に入れるのに1時間、出発の準備にもう1時間。午前、5時45分、極寒のまだ薄暗い中テントを後にした。登山口を出てから9日目、既に疲労がたまり、テントを出る時には既に疲労困憊の状態であった。頂上までの標高差は1000m以上。寒いが、幸い風も殆ど無く天気も良い。長い歩行と我慢の末、午後3時5分、アコンカグアの頂上に着いた。南北アメリカの最高峰の頂きからは雪に覆われた数多の峰々が光り輝いていた。そして30分後、下山開始。来た道を戻りキャンプ地に着いたのは夜の9時過ぎであった。標高5900mから6962mの間の行動時間15時間余は私にとっては過酷なものとなった。
下山は早い。頂上に立った翌日、標高差1670mを下りBCに戻る。その翌日には登りに二日掛かった道程を1日で下り、ようやくロッジのベッドに横になる事が出来た。部屋の鏡に映った凍傷になった鼻や醜く腫れ上がった自分の顔を見て、アコンカグアの登頂は、この「顔」を代償に成し遂げられたのだと知った。