浮世絵画家・葛飾北斎の世界的名画「富嶽三十六景」の「神奈川沖波裏」は私の地元、神奈川の沖合を描いた傑作だ。遠くに見える富士、画面一杯に広がるデフォルメされた大波、その下を行く三隻の小船と人々。フランスの巨匠ゴッホをして、「北斎」をもっとも影響を受けた人の1人に挙げているのももっともな事とその絵は語っている。
北斎は宝暦10年(1760年)に生まれ90歳まで生きたから、江戸時代の人としては「超」長寿であった。私見だが、長寿の秘訣はその類希な「向上心」にあったのではないか。北斎は死の直前、大きく息をして「あと10年の寿命があれば」と言い、しばらくして「5年の寿命が保てれば本当の絵師になれるのに」との言葉を残して亡くなったと伝えられている。「富嶽三十六景」を完成させたのも72歳の時だったと言うから、生涯エネルギーに満ち溢れていたに違いない。北斎は自らを「画狂老人」と称し、生涯で3万点とも言われる作品を残していると言う。不思議と言ってはいけないが娘の「お栄」も絵の才能に恵まれ、後年は北斎の代筆も務めたと言うから、相当な腕であったのだろう。はたして「門前の小僧」なのか、「遺伝」なのか・・・。 その北斎の展覧会に行ってみた。その物凄さにただただ素晴しいと感じるのみだ。サブタイトルの「ヨーロッパを魅了した江戸の絵師」と言うのに些かの誇張も感じられない。今回の特徴は40点のものぼる肉筆画のヨーロッパからの里帰りである。浮世絵と言えば版画だから大量の「肉筆」はやはり珍しいと言うべきだろう。 鎖国の時代、唯一対外的に開かれていた窓は長崎の出島であった。その主は島原の乱を契機にポルトガル人からオランダ人に代わった。出島はさながら「大使館」としての機能を果たし、お互いの情報収集の拠点でもあった。出島の商館長は4年毎の参府(江戸城で将軍に拝謁する事)を義務付けられていた。現代の我々が旅行をすれば写真をとり、自らの記念とすると共に、家族友人に「かの地の様子」を見せる事は普通のことに違いない。しかしながら「写真機」の無いその時代、出来る事は「絵」を描くことであった。商館長は参府の折々、北斎を訪ね、写真があったら撮るであろう「被写体」を描く事をオランダの紙を渡して注文したと言う。だから、その絵は注文主の希望により描かれた肉筆画の一点ものであった。その注文主の1人にはシーボルトも居たと言う。ヨーロッパに持ち帰られたそれらの絵は、巡り巡って「オランダ国立民俗学博物館」や「フランス国立図書館」等に収蔵され今回の里帰りとなった。「画狂」とは良く言った物だ。その素晴しさに、ただただ恐れ入った。