朝早く目星をつけておいた場所に行くと、もう順番待ちの列が出来ていた。誰でも、考える事は同じで「絶好の場所」は決まっている。地中海の港町、フランスのマルセイユからパリまで800㌔のヒッチハイクを目論んでいた私はしぶしぶ、その順番待ちの列に並んだ。先頭の1人が道路に出てヒッチハイクをしている間、他の人は少し離れた所で待つのがルール。1人ヒッチハイクに成功すると、順番が繰り上がる。じっと待つのみだ。私の順番が2・3番目になった時、止まった車が先頭で待っていた男に難色を示した。そして、列の後方を見やると、私を名指しした。勿論、名前が呼ばれた訳ではないが、気に入られたのだろう。パリまで800㌔、約10時間、狭い空間で一緒に過ごすのだから、「相方」を選びたい気持ちは判る。選ばれた私に文句のあろうはずもなく、パリまで乗せて貰う事になった。
20代の頃、住んでいたロンドンやパリをベースに旅に出掛け、ヒッチハイクでヨーロッパ中を巡った。私のそんな旅の原点は日本橋から大阪まで歩いた後、四国、九州、山陽から横浜の自宅までヒッチハイクで旅した事に始まる。そして、ヒッチハイクは日本に帰った後も続き、今でも、時々お世話になっている。
今まで知らなかった人と人が、何の前触れもなく突然知り合い、狭い空間を共有する。最初から最後まで、一言も口を利かない人、根掘り葉掘り、戸籍調べをする人、千差万別だ。でも、そこで交わされる会話は楽しい。自宅に案内され、泊めて貰った事も数多い。
だが、車に乗せて貰う事は、言うほど容易な事ではない。忍耐と少々のコツが要る。それでも、諦めて途方に暮れた事も多い。イギリスの片田舎、ヒッチハイクをしていたら、カラス張りの「金魚鉢」の様な黒塗りの車が来た。手を挙げる、だが止まらない、後続の何台かの車も止まらない。何故か乗っている人が一様に私を睨んでいるのだ。思わず、手が引っ込んだ。後で気がついた。先頭の車は「霊柩車」、その後に続く車列は「遺族」だったのだ。
ある時、フランス南西部の保養地、ビアリッツの近くをヒッチハイクしていたらフランス人の若い女性が乗せて呉れた。しかも、軍服を着た兵隊。会話が弾んで、1時間ほどで彼女の目的地に着き、車を降りる事になったら、是非、一晩泊って行かないか、とお誘いを受けた。まだ「真面目?」だった私は丁重にお断りして旅を続けてしまった。
日本国内でも、随分ヒッチハイクをやった。実は、日本は世界一、ヒッチハイクがやり易い国だと、私は感じている。訳は簡単だ。一般道や高速道路が縦横に走っていて、誰もヒッチハイク等、やっていないからだ。北海道で乗せて呉れた車、聞いてみたら自家用車を運転していた非番のタクシーのドライバー、手を挙げている人がいたから、習性で思わず止まってしまったのかもしれない。そんな事もあるのだ。
オーストリアでは、日の丸に似たデザインのマークを掲げている車を見かける。これは「私はヒッチハイカーを乗せます」と言う意味なのだ。だから、ヒッチハイカーは闇雲に手を挙げるのではなく、そのマークを掲げている車が来た時に手を挙げれば良いのだ。こう言うシステムは夏休みに学生が地方に帰る時に、良く利用されている合理的な習慣だ。
日本国内で、私が車を運転している時は、ヒッチハイカーが居たら、常に乗せてあげようと思って、走っているのだが、残念な事にヒッチハイカーの姿はついぞ見た事がない。
今でも、思い出に残る旅の一つに「地中海一周の旅」がある。実は途中で「事件」が起こるのだが、そんな事も知らずにイギリスのサウザンプトン港から船に乗ってスペインのビルバオへ。そこから汽車でマドリード、それからスペインの観光地を巡って、スペイン南端の港、アルジェシラスから船でモロッコのタンジール経由でカサブランカ。それから汽車でアルジェリア、チュニスと巡り、再び船でイタリアのシシリー島へ。そこからはヒッチハイクの旅になった。最初に拾ってくれたのはサハラ砂漠から帰る途中のフランス人の青年。彼の持っていたテントで初日はポンペイのあるベスビオス火山の中腹で一泊、翌日はローマに向かう、古道、アッピア街道の道端でテント泊であった。ローマで彼と別れると、ヒッチハイクの旅を続けた。ローマを出た日、何台かの車を乗り継いだ後、午後遅く、イタリア人の運転するトラックに乗った。数時間、片言の会話も弾んだ翌朝の4時過ぎ、毛むくじゃらの大男の運転者が突然私に襲いかかって来たのだ。襲いかかられれば抵抗する。狭い、車内で力比べの格闘となった。をれだけ、私は必死だったのだろう。暫くすると彼は諦めたが、薄暗い、雨降る外に放り出されてしまった。辛うじて「操」は守ったが、そこが、いったい「何処」なのかすら判らない場所であった。そして、窮地を脱すると、旅を続け、フランスからイギリスに戻り、波乱に満ちた「地中海一周」旅は終わったのだった。