こっそりと、ベッドに横になってみる。ふわぁ~と、一瞬無重力になって、体がスーッとどこまでも沈みこむ、そんな感じがした。体の重みがなくなり静かに、そして無限に沈んで行くようだった。
そのベッド、ガウディの寝ていたベッドだ。スペイン・バルセロナの中心から少しはずれた丘の上のグエル公園の一角、サグラダ・ファミリア教会等で有名なアントニ・ガウディ(1852年~1926年)住んでいた邸宅が建っている。その内部を博物館として公開しているのだ。大分以前の事だから、告白しても、もう「時効」だろう。邸宅2階の寝室のベッドに禁を犯し、誰も居ないのを幸いにロープをまたいで、寝て見たのだ。その、無重力でどこまでも沈んで行くような感覚が、そのベッドの素晴らしい、ガウディらしい意匠と共に今でも深く私の記憶に残っている。
世界遺産にもなっている「グエル公園」は20世紀初頭、自然と芸術に囲まれて暮らせる60棟の邸宅「団地」を作ろうと、ガウディとグエル伯爵が意気投合して始まった。だが、理想と現実は別物。何と、誰も買い手が居なかった。売れなかった訳は、多分、余りの斬新さと辺鄙だった当時のロケーションだったのかもしれない。仕方なく2人は一軒づつ自ら購入して、終りとなった。ガウディの自ら買った家は今では、博物館として公開され、もう一軒は現在でも人が住んでいる。観光客の多く集まる世界遺産の大公園に聳え立つその一軒家は壮観で、世界でもっとも「豪華」な邸宅と一つ、と言えるのかもしれない。
バルセロナは人口170万人、周りの衛星都市を含めれば400万人と言われるスペイン第二の大都市だ。1992年にはオリンピックも開催されカタロニア人の町でもある。カタロニア語とスペイン語が公用語でカタロニア語はポルトガル語とスペイン語の中間位の言葉との事。フランス語等と同様にカタロニア語やスペイン語もラテン語をルーツに持ち、同じ系統の言葉だ。イベリア半島ではバスク語だけが異質の系統に属し独立した言語だと言う。スペイン語ではスペインの事を「エスパーニャ」と言うが、これは「日の沈む国」と言う意味で、日本とは対照的な国名だ。スペインでは公務員の勤務時間は8:30~14:00までだそうだ。一日が二日に使える、夢の様な勤務体制だ。これでは「日の沈む国」ではなく「国沈む国」なのも「納得」と言う感じだ。尤も、朝から夜まで働いても「沈む国」もあるのだから、同じ「沈む」なら、どちらが良いか、ちょっと考えさせられる。
バルセロナには世界遺産に指定されている建物が多い。その、殆どがモデルニスモと呼ばれ、バルセロナを中心とするカタロニア地方に19世紀末から20世紀初めにかけて起った新たな表現の建築様式を求めたものだ。その一つに、ガウディの先生であったドメネク・モンタネールの作ったサンパウ病院やカタルーニャ音楽堂がある。今や「世界遺産」の音楽堂、と聞けば、さぞかし「いかめしい」と言う感じがするかもしれない。実の所、この音楽堂はオルフェ・カタランと言うアマチュア合唱団が1908年に寄付を集めて作った。つまり、市民が自ら作った音楽堂なのだ。だから、場所も、狭い道に面した旧市街地の生活の場に造られた。収容人員2千人、フラメンコからヘビメタまで何でも来い、の庶民的な会場で年間300回も演奏会開かれると言う。
ガウディ関連の世界遺産の建物は、グエル公園、グエル邸、カサ・ミラ、カサ・ヴィセインス、カサ・バトリョ、そしてサグラダ・ファミリア教会と計六つを数える。何れも、世界遺産に相応しい斬新・奇抜な建物だ。現代人の私が今見ても、「斬新・奇抜」だと感じるのだから100年以上前は「衝撃的」だったに違いない。モンタネールやガウディを始めとするモデルニスモの旗手たちの発想がユニークであった事は勿論だが、建物はそれだけでは建たない。その発想を「勇気」を持って受け入れ大枚の「お金」を出す建築主抜きでは生まれなかった建物群である。ペレ・ミラが建築主となって建てられたカサ・ミラは完成当時、「飛行船の発着場」と地元市民からは揶揄されたと言う。お金の掛る建物の資金は18世紀終わりから20世紀にかけカリブ海貿易によってバルセロナにもたらされた富とその後、織物に投資して財をなした人々が支えていたと言う。建築家(芸術家)と建て主が相まって今に偉大な「遺産」を残したのだ。
バルセロナは「先進的」な土地だ。バルセロナに関係した「前衛芸術家」を挙げれば、ミロ・ピカソ・ダリ・ガウディ等多士済々である。スペインでは「国技」とも言われる「闘牛」もバルセロナでは今年限りで終り、だと言う。バルセロナのスペイン広場近くの大きな「闘牛場」も既に大きなショッピング・センターに変っている。
バルセロナの世界遺産に触れる時、ガウディの構想した「ダグラダ・ファミリア教会(聖家族教会)」に触れない訳にはいかない。20年ほど前、私が初めてバルセロナを訪れた時ですら協会の建築は建て始めから約100年を経過し、完成まで、後、数百年とも言われていた。まだ、屋根すら無かった時代だ。それが今や、アルファンブラ宮殿やピカソ美術館を凌ぎ、年間250万人を集めるスペイン一の「観光地」に変身していた。人が多く集まり始めたのは15年程前からだと言う。それまでは、日本人観光客が多く、バルセロナ市民からは訝しげに見られていた事もあると言う。教会の世界遺産指定は意外な事に遅い。指定されたのは2005年になってからである。理由は簡単だ、建築中の建物は世界遺産には指定されないのが通例だったからだ。だから指定されたのは「誕生のファサード」と言われる部分だけであり、全体が世界遺産に指定された訳ではない。昨年にはローマ法王によりミサが行われ、初めて正式なバシリカになったばかりだ。
年間250万人の訪問者と言えば1日平均約7000人。今や、何時行っても「凄い人の数」だ。だから入場は勿論予約制で一人10ユーロ(約1200円)。尖塔へ登るエレベーターは時間指定で勿論別料金だ。教会の敷地内にあるショップも人で溢れ入場制限をしていて溢れた人が外に列をなし入場を待っている有様だ。教会は主に寄付と入場料収入で造られているから、最近の盛況ぶりで一時はあと、何百年と言われていた完成も、豊富な資金を背景に、ガウディ没後100年に当たる2026年を目指すまでになっている。バルセロナにとって、「救世主」とはキリストの事ではなく、これだけの人を集めるガウディの事ではないかと思ってしまう程だ。しかしながら、皮肉な事に殊更信心深かったガウディは神が作ったと信じるモンジュイックの丘の高さ170mを超えない様、教会の高さを決めたと言う。その建物の素晴らしさは比類を見ないから、日本から飛行機に乗ってその建物だけをわざわざ見にゆく価値は充分にある、と私は思っている。
(フランスとスペインの旅の写真をまとめ、このブログ内にフォトーアルバムとして掲載致しましたので併せて御覧頂ければ幸いです。)
そのベッド、ガウディの寝ていたベッドだ。スペイン・バルセロナの中心から少しはずれた丘の上のグエル公園の一角、サグラダ・ファミリア教会等で有名なアントニ・ガウディ(1852年~1926年)住んでいた邸宅が建っている。その内部を博物館として公開しているのだ。大分以前の事だから、告白しても、もう「時効」だろう。邸宅2階の寝室のベッドに禁を犯し、誰も居ないのを幸いにロープをまたいで、寝て見たのだ。その、無重力でどこまでも沈んで行くような感覚が、そのベッドの素晴らしい、ガウディらしい意匠と共に今でも深く私の記憶に残っている。
世界遺産にもなっている「グエル公園」は20世紀初頭、自然と芸術に囲まれて暮らせる60棟の邸宅「団地」を作ろうと、ガウディとグエル伯爵が意気投合して始まった。だが、理想と現実は別物。何と、誰も買い手が居なかった。売れなかった訳は、多分、余りの斬新さと辺鄙だった当時のロケーションだったのかもしれない。仕方なく2人は一軒づつ自ら購入して、終りとなった。ガウディの自ら買った家は今では、博物館として公開され、もう一軒は現在でも人が住んでいる。観光客の多く集まる世界遺産の大公園に聳え立つその一軒家は壮観で、世界でもっとも「豪華」な邸宅と一つ、と言えるのかもしれない。
バルセロナは人口170万人、周りの衛星都市を含めれば400万人と言われるスペイン第二の大都市だ。1992年にはオリンピックも開催されカタロニア人の町でもある。カタロニア語とスペイン語が公用語でカタロニア語はポルトガル語とスペイン語の中間位の言葉との事。フランス語等と同様にカタロニア語やスペイン語もラテン語をルーツに持ち、同じ系統の言葉だ。イベリア半島ではバスク語だけが異質の系統に属し独立した言語だと言う。スペイン語ではスペインの事を「エスパーニャ」と言うが、これは「日の沈む国」と言う意味で、日本とは対照的な国名だ。スペインでは公務員の勤務時間は8:30~14:00までだそうだ。一日が二日に使える、夢の様な勤務体制だ。これでは「日の沈む国」ではなく「国沈む国」なのも「納得」と言う感じだ。尤も、朝から夜まで働いても「沈む国」もあるのだから、同じ「沈む」なら、どちらが良いか、ちょっと考えさせられる。
バルセロナには世界遺産に指定されている建物が多い。その、殆どがモデルニスモと呼ばれ、バルセロナを中心とするカタロニア地方に19世紀末から20世紀初めにかけて起った新たな表現の建築様式を求めたものだ。その一つに、ガウディの先生であったドメネク・モンタネールの作ったサンパウ病院やカタルーニャ音楽堂がある。今や「世界遺産」の音楽堂、と聞けば、さぞかし「いかめしい」と言う感じがするかもしれない。実の所、この音楽堂はオルフェ・カタランと言うアマチュア合唱団が1908年に寄付を集めて作った。つまり、市民が自ら作った音楽堂なのだ。だから、場所も、狭い道に面した旧市街地の生活の場に造られた。収容人員2千人、フラメンコからヘビメタまで何でも来い、の庶民的な会場で年間300回も演奏会開かれると言う。
ガウディ関連の世界遺産の建物は、グエル公園、グエル邸、カサ・ミラ、カサ・ヴィセインス、カサ・バトリョ、そしてサグラダ・ファミリア教会と計六つを数える。何れも、世界遺産に相応しい斬新・奇抜な建物だ。現代人の私が今見ても、「斬新・奇抜」だと感じるのだから100年以上前は「衝撃的」だったに違いない。モンタネールやガウディを始めとするモデルニスモの旗手たちの発想がユニークであった事は勿論だが、建物はそれだけでは建たない。その発想を「勇気」を持って受け入れ大枚の「お金」を出す建築主抜きでは生まれなかった建物群である。ペレ・ミラが建築主となって建てられたカサ・ミラは完成当時、「飛行船の発着場」と地元市民からは揶揄されたと言う。お金の掛る建物の資金は18世紀終わりから20世紀にかけカリブ海貿易によってバルセロナにもたらされた富とその後、織物に投資して財をなした人々が支えていたと言う。建築家(芸術家)と建て主が相まって今に偉大な「遺産」を残したのだ。
バルセロナは「先進的」な土地だ。バルセロナに関係した「前衛芸術家」を挙げれば、ミロ・ピカソ・ダリ・ガウディ等多士済々である。スペインでは「国技」とも言われる「闘牛」もバルセロナでは今年限りで終り、だと言う。バルセロナのスペイン広場近くの大きな「闘牛場」も既に大きなショッピング・センターに変っている。
バルセロナの世界遺産に触れる時、ガウディの構想した「ダグラダ・ファミリア教会(聖家族教会)」に触れない訳にはいかない。20年ほど前、私が初めてバルセロナを訪れた時ですら協会の建築は建て始めから約100年を経過し、完成まで、後、数百年とも言われていた。まだ、屋根すら無かった時代だ。それが今や、アルファンブラ宮殿やピカソ美術館を凌ぎ、年間250万人を集めるスペイン一の「観光地」に変身していた。人が多く集まり始めたのは15年程前からだと言う。それまでは、日本人観光客が多く、バルセロナ市民からは訝しげに見られていた事もあると言う。教会の世界遺産指定は意外な事に遅い。指定されたのは2005年になってからである。理由は簡単だ、建築中の建物は世界遺産には指定されないのが通例だったからだ。だから指定されたのは「誕生のファサード」と言われる部分だけであり、全体が世界遺産に指定された訳ではない。昨年にはローマ法王によりミサが行われ、初めて正式なバシリカになったばかりだ。
年間250万人の訪問者と言えば1日平均約7000人。今や、何時行っても「凄い人の数」だ。だから入場は勿論予約制で一人10ユーロ(約1200円)。尖塔へ登るエレベーターは時間指定で勿論別料金だ。教会の敷地内にあるショップも人で溢れ入場制限をしていて溢れた人が外に列をなし入場を待っている有様だ。教会は主に寄付と入場料収入で造られているから、最近の盛況ぶりで一時はあと、何百年と言われていた完成も、豊富な資金を背景に、ガウディ没後100年に当たる2026年を目指すまでになっている。バルセロナにとって、「救世主」とはキリストの事ではなく、これだけの人を集めるガウディの事ではないかと思ってしまう程だ。しかしながら、皮肉な事に殊更信心深かったガウディは神が作ったと信じるモンジュイックの丘の高さ170mを超えない様、教会の高さを決めたと言う。その建物の素晴らしさは比類を見ないから、日本から飛行機に乗ってその建物だけをわざわざ見にゆく価値は充分にある、と私は思っている。
(フランスとスペインの旅の写真をまとめ、このブログ内にフォトーアルバムとして掲載致しましたので併せて御覧頂ければ幸いです。)