ずっと、その日の天気の事が気になっていた。いつもの事だ。仕方がないとは言いながら、この所の季節外れの寒さに些か当惑しながらの日々。予定の日の天気予報は「曇り時々雨」、翌日からは平年並みに戻ると言う。予定の日の前日、朝から何度もパソコンで予報をチェック。昼頃まで風雨が強く午後から回復、と出ていた。春を楽しむはずの企画だったから、一時とは言え真冬並みの寒さに加えて「風雨」はまずい。延期・中止も考え始める。午後には「キャンセル」を告げるメールや心配した問い合わせの電話も入る。長い時間、予報とにらめっこの末、夕方になって出した結論は「集合時間の延期」、今までの経験だと、実際の天気は予報より速く動く事が多い、と言う事もあった。「葉山の古道」を歩くと言うプランは集合時間を11時に遅らせても、元々、行動時間も短い予定だったから大きな影響は無いだろう、との見立てだった。
当日、7時過ぎに起きた時にまだ降っていた雨も朝食が終わる頃には上がっていた。空は相変わらずどんよりと暗い。でも、出がけに傘をささずに済むのはありがたい。電車で集合場所に向かう途中には、もう薄日も差して、青空も垣間見えるほどに回復してきた。集合場所の駅に着くと春の日差しが戻っていた、が風は冷たい。いつも一番乗りのHさんが来ている。
今回の企画の目玉の一つは評判の「蕎麦処」でお昼を食べる、と言う事だった。だから、歩き始めてから丁度昼頃に、その「蕎麦処」に着く、と言う計画を立てていたのだが、天候の回復を待つ時間稼ぎの算段もあって、まずは「お昼」と言う計画に変えていた。山を歩く企画ではこんな事は出来ないが、ウォーキングでは臨機応変がきく。早速タクシーに分乗して向かう。「蕎麦処」に着くと、予約係りのおじいさんが笑顔で迎えて呉れた。まだ開店前だったが我々は2番目だった。週末には、普段行列も出来るそうだ。注文は、なぜか全員一致して「竹の子そば」。この時期だけなのだろう「朝どり」と掲げた「宣伝」が効いたのかもしれない。お店のインテリアは普通の蕎麦屋とは違うモダンなインテリアとBGM、それに大きな窓の御簾越しに見える「棚田」の風景が何とも素敵だ。味よし、雰囲気よし、景色良し、どおりで人気な訳だ。
その日の目玉のもう一つは「にほんの里百選」にも選ばれている「棚田」の景色。関東では、今では珍しい景色だ。選ばれた理由には「葉山牛の牧舎のワラを使った堆肥作り、里山利用の炭、64枚の棚田は湧き水を利用」等「循環の輪」による農業の営みが評価された事による。ただ単に美しい「棚田」の景色がそこにある、と言う事だけでなく人の自然の中の営みが互いに関連して繋がっている、と言う事の価値が認められたのだ。「棚田」はボランティアの手により田植えから収穫までサポートされ、とれたお米は皇室にも献上されていると聞く。その日、棚田に沿う道を登る途中、5月末の田植えに向けて代掻きなどの準備作業をしている「おじいさん」が居た。挨拶をして話が始まった。田圃を囲む畔の内側に張られたむしろが不思議だったので聞いてみた。畔は乾燥するとひび割れて水が外に漏れてしまうのだと言う。内側に張られたむしろは田圃から水を吸い上げ乾燥を防ぐのだ。そんな事を、「おじいいさん」は勢いよく水の張られた田圃に飛び降りて教えてくれた。旨いお米が我々の口に入るまで未知の苦労は多いのだ。棚田の上部に出て見下ろすと水面が光る小さな田圃がジグソーパズルの様に広がり美しい。背後には新緑に彩られ「山笑う」たおやかな山並みが続いている景色に「日本」を感じて、思わずうっとりとする。
「棚田」から里山の中を歩いて30分程、「水源地」に着いた。かつて、近くの「御用邸」に水を引いていた井戸があるのだ。金網で囲われた水道施設の一角に意外な物があった。ニリンソウの大群落だ。道から入り込んだ一角だから、見逃してしまう人は多いに違いない。金網に囲われているのも幸いしたのかも知れない。皆、びっくりして歓声の輪唱が広がる。
近くの浄土宗のお寺でしばし休憩を取ると「鐘」をついた後、古道歩きを続けた。古道は「古東海道」とも言われ、古代の東海道の事で足柄峠を越えてから相模の国に入り、鎌倉から三浦半島を縦断し房総半島に向かった道の事だ。道筋には寺や武将の墓なども点在する。道のそこかしこに見掛けるのが「庚申塔」。「庚申講」は「講」の一種。60日毎の庚申(かのえさる)の日、集まって儀式の後、夜を徹して飲み食いをする。「庚申の夜」と言う言葉を聞いた事もあるだろう。江戸時代の川柳に「五右衛門が親 庚申の夜をわすれ」と言うのがある。「庚申の夜」に身ごもった子は盗賊になる、と言う言い伝えをもじった川柳だ。盗賊で有名な「石川五右衛門」の親は、その夜が「庚申の夜」だった事を忘れてしまったのだろう、と言う意味だ。「庚申塔」は江戸時代の農村信仰の一つで講の継続と供養の為造られた。栗坪の庚申塔は元禄四年(1691年)、寺前の庚申塔は寛文十一年(1671年)と造られた年号が刻まれている。
里の春と古に思いを馳せる里山歩きも、棚田の近くまで、ぐるっと一回りして元に戻った。晴れたり曇ったりの中、眩い青空にも恵まれて、幸い雨にも降られず歩く事が出来た。「日本の農業」の衰退が叫ばれる今、美しい日本の里山の景観も、農業が滅びてはあり得ないと、改めて思った。