源太郎のブログ

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岩手山

2009年09月21日 | 山行記

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 この夏、まだ登っていなかった百名山の一つ、岩手山に登った。岩手山の登路は数多い。噴火の可能性から東側からのルートに限られていたのも、5年前には全面解禁になった。私が登ったのは一番距離が短い「馬返し」からだ。「一番距離が短い」とは言ってもコースタイムで約7時間半、だから関東から日帰り、と言う訳には行かない。

 早朝、東京駅から新幹線に乗る。盛岡に着いたのは東京駅を出てから約3時間。ローカル線に乗換える間に早めの昼食を済ませる。盛岡から登山口の「馬返し」の最寄駅、滝沢まではIGR岩手銀河鉄道が走っている。リストラによってJRから別れた第3セクターが盛岡と青森の三戸までの82㌔を走っている。ものの15分程で滝沢に着くと、予約しておいたタクシーが待っていた。「お客さん、今日はどちらから?」「横浜です」「ハァー」、ヘー、そんな遠くから、と言う感じで話が始まった。近くに大学が二つもある事や、小岩井農場・温泉の話をしてくれた。登山口まで、ほんの15分位。大きな駐車場には車が一杯だ。ナンバープレートで日本中から来ている事が判る。駐車場に車が多いのは「百名山」の特徴かも知れない。高速道路、千円で益々多くなったのかも知れない。

 明るい日差しの中、登山口を歩き始めたのは正午少し前。素敵な森の中を進む。暫く行くと、一人、また一人と下山の先陣が下りてくる。途中、「改め所」と言う所を通過した。この山の長い歴史を物語る古風な名前だが、昔はそこに神官がいて、登山の可否を改めた場所と言う。30分程で「0.5合目」の指導標が現れて新道と旧道の分岐となっていた。新道をとる。それにしても「0.5合目」とは随分と細かい。七合目まで新道と旧道はほぼ並行していて、各所に連絡道が設けられている。そこから40分程で「2.5合目」が現れY字分岐になっていた。はて、どちらを行こうか?と考えていたら、上から人が降りてきた。「旧道と新道、どちらが良いんでしょうか?」聞いてみた。「そりゃ新道だよ、殆どの人が行くからね」。それで、新道を行く事にした。所々溶岩流のちょっとした岩場を除いて、大粒の火山灰の土の上を歩く。火山の特徴でぬかるみは無いが、パチンコ玉に様な火山灰の粒に、時折足をとられる。登りながら時折振り返ると去年登った「姫神山」のやや尖った姿が終始見え隠れしていた。

平年より5度も気温が低いと言うその日も私はユニフォーム(白のTシャツ)で歩いた。上から来る人が一様に「寒い、寒い」と言いながら下りてくる。幾分か風も強そうだ。登山口を出て3時間余り、新旧の道が交わる七合目に着いた。確かに、ガスも出て来て、風も強い。一休みして、先を急ぐ。10分もすると、今日の「宿」八合目の避難小屋が現れる。4時間程と見積もった予定が、大分早く3時間ちょっとで着いてしまった。時間はあるが、今日は早朝からの行動だから、この辺で予定通り止めておこう。今日は小屋番の人も居ないと聞いていたが、誰か先客は居るだろうか?辺りはガスに覆われ、相変わらず風が吹きすさんでいた。

 木の引き戸をガラリと中に入ると意外にも、少なからず人の居る気配がする。薄暗闇に目が慣れて来ると、人が居た。それも一人二人ではない。居ないはずの小屋番の人も居た。それでも、小屋の広さに比べたらガラガラと言って良いほどだった。這う様に奥に進み、居心地の良さそうな角っこに場所を占める。空気マット、シラフ、シラフカバーをセットしてもぐり込む。夜、眠りに着くまで、一人、長い時間を何すること無く過ごさなければならなかった。夜中、寝返りを打つ度に目覚め、ずっと吹き止まぬビュービューと言う風と雨音に気持ちは落ち着かなかった。

 朝5時過ぎ、窓から入る光が少し明るくなって、起きる事にした。身支度を整えると、大き目のりんごを一つほうばった。雨具を着て小屋の外に出る。幸い雨は止んでいるものの、小屋を包むガスと強風は変わらない。小屋番のおじさんも出て来て、無言で頂上の方を指さす。「行くのか?」と聞いているのだ。私も無言でうなずく。

 小屋から20分程で頂上へ向かう分岐のある不動平に着く。ガスに包まれた誰も居ない分岐には指導標だけがひっそりと立っていた。ここからはお鉢のふちまでガラガラの登りが続く。上るに従い風はますます強さを増す。15分ほどでお鉢のふちに着き最後の頂上への登りとなる。頂上までは私を導くように多くの石仏が登山道の脇に立っていた。横風が強く、時折体が振られる。ガスに包まれ、猛烈な風の吹くふちを高みに向かって一人歩く。20分程歩くと頂上と思しき所が霧の中に浮かんだ。7時過ぎ、2038mの岩手山の山頂に立った。


大津岐峠

2009年07月28日 | 山行記

 「会津駒ですか~?」、と、歩きだしてすぐ、聞かれてしまった。「違います、大杉岳です」。皆の歩きだす方向とまったく逆だったからだろうか。尾瀬の入口、御池から、いざ、歩きだしてすぐ、「係り」の人が飛んで来た。何だか、変だぞ~、と思って声を掛けたのだろう。それ程、場違いの方向だった。成程、下山するまで、会ったのはたった一人だけだった。このエリアが最も賑う7月の3連休、御池の駐車場は人と車で溢れていた。やはり、7月だった富士山の五合目から歩き始めた時と同じだ。

 それにしても、何日も前から天気予報に一喜一憂したことか。微妙に変わる予報も、出発する前日には「曇りのち雨」、加えて日本海沖に低気圧が発達し、風雨が強まると出た。最近起きた北での出来事が脳裏を横切る。ま、無理をしないで行こう、と腹を括る。

 初日、東北新幹線、那須塩原駅を桧枝岐に向けて10人乗りのレンタカーで出る。この道を行くのは何度目だろうか。数え切れない。今日は、急ぐ旅では無いから、殊更ゆっくり行っても目的地までは概ね2時間程度。出る時は降っていなかった雨、途中から小雨になった。昼過ぎ、桧枝岐に着く。早速、桧枝岐名物、「裁ちそば」の店に寄る。「裁ちそば」とは、つなぎを使わない十割そばが特徴。そばを切る時に重ねて、裁つように細く切る事からこの名前がついたと言う。長く辺境の地であった桧枝岐は「つなぎ」の材料が手に入らなかった為の苦肉の策でもあったのだろう。

 初日は、天気が良ければ、近場を散歩がてら歩くつもりだったが、生憎の雨、小屋に直行する事にした。それにしても、ちょっと早い。桧枝岐から15分程の七入山荘に着くと、案の定、まだ、と言われてしまった。時間つぶしに、雨の中近くの「ミニ尾瀬公園」に向かう。普段なら、通り過ぎてしまう所だが、たまたま「白旗史朗」さんの尾瀬の写真展をやっていた。

 二日目、まだ雨が少し残っている。早朝、近くのバス停からバスで御池に向かう。連休中とあって予定よりちょっと遅れて来たバスはハイカーで既に満席状態。補助椅子を出して、辛うじて座る。20分程で人と車で溢れる御池に着くと既に雨はあがっていた。

 大杉岳、大津岐峠(おおつまたとうげ)へ向かう登山口は御池からの車道を10分程歩いた所にひっそりと小さく口を開けている。登山口を出て間もなく、空が青みを帯びてきた。青空が広がって来たのだ。悪いと、半ば諦めていた天気が良くなると、喜びが倍加する。時々振り返ると燧ヶ岳が大きく眼前に広がっていた。2時間弱で大杉岳に着いた。ここから先は幾つかのピークを昇り降りする稜線歩きが続く。時々現れる「田代」が美しい。が、鬼門は随所に現れる木道だ。余り歩く人がいない木道は苔で薄く覆われ、雨上がりには殊更滑りやすいのだ。それを、徹底的に避けた。本当は、木道の脇を歩くのは良くない事なのかも知れないが、数々の怪我を目撃した経験で、背に腹は変えられないと感じた。 

途中の「電発避難小屋」の下で、会津駒から縦走してきたと言う青年が休んでいた。「一人」を楽しんでいた彼は、突然のグループに当惑したに違いない。この先も大津岐峠まで、登り下りが続く。もうすぐ峠だと言う頃、雲行きが怪しくなってきた。燧ヶ岳の頂上は雲に覆われ雨が降っているようだ。間もなく、我々の所にも雨が落ちてきて雨具を着る。雨具を着ると止む、とは良く言うが、その通りになって、大きな木柱の建つ峠に着くころには雨雲は通り過ぎていた。峠で一休みすると、1時過ぎ、キリンテへ向けて下山を開始。最後の1時間半ほど再び雨に降られたが「天気の神様」に感謝する一日となった。

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小御岳

2009年07月09日 | 山行記

 小御岳(こみたけ)、と聞いて、すぐ何処の山、と答えられる人は少ないかも知れない。元は、立派な一人前の山だったのだが、今では見る影もなく、ましてやこの山を目指して、遠路「お越になる」人は殆ど皆無に違いない。この山が生まれたのは今から70万年前にさかのぼる。10万年前にはもう一つの兄弟の山が近くに生まれた。それが「古富士火山」と呼ばれる山だ。そして、兄弟の山の間に登場したのが富士山である。今から、たった1万年前の話だ。富士山は兄弟の山を土台にどんどん噴火を続け、とうとう兄弟を飲み込み日本一高い山へと成長したのだ。犠牲となった小御岳は、今では頭頂部のみの10m程が富士山の5合目に辛うじてその姿を残している。

 その、小御岳に登った。集合は富士急行線の河口湖駅。バスが5合目まで出ている。が、バスを待っているのは我々を除けばほぼ全てが外国人だ。これは凄い。いくら、日本に来た記念に有名な日本一高い富士山に登りたいと言っても、随分と乱暴な話だと思う。スバルラインを通って5合目まで小一時間。濃密な木々の茂った樹海を切り開いた道を行く。座席に座れない人が何人か居る位の混みようだ。随分と緑豊かな空間を抜けて、突然「繁華街」のど真ん中、とも思える5合目に着いた。そこは、喧騒の巷。これから富士山に登る意気軒昂な人と、ボロボロになって放心状態で戻って来た人が交錯する場所だ。喧噪を避けて、休憩所の片隅で身支度を整えると、いざ小御岳に登る。とは、言っても頂上までは、ほんの1~2分。誰も、気にも留めない筈だ。頂上には冨士山小御嶽神社がある。創建は承平7年(西暦937年)と古い。富士講の盛んだった江戸時代には冨士山と並んで、小御嶽神社もその信仰の対象になっていたと言う。

 小御岳登山は、登って降りて、5分で終了。山上の「繁華街」を離れて、お中道に向かう。少し歩けば、もう静かな世界が広がる。コケモモ・ベニバナイチヤクソウ等結構花も咲いている。見上げれば、頂上まで続く赤い火山灰の大地、見下ろせば広々とした樹海の中に河口湖や精進湖が見える。梅雨の時期、これ程の視界があれば文句はない。やがて「御庭」と称する自然の庭園が現れる。自然の妙、とはこの事なのだろう。歩き始めてから2時間弱、スバルラインを渡って、今度は「奥庭」に向かう。7~8分下ると奥庭山荘に着く。小屋の脇にカメラの砲列。何事、と見れば、脇の小さな庭の水場に野鳥のルリビタキが水浴びに来ているのだ。ここはバードウオッチングでは有名な所らしい。地上では余り見られない高山特有の野鳥が集まってくると。川の無い富士山で、水場は貴重なのだ。山荘のご主人が毎日下界から水を運び上げていると言う。庭の端にはオダマキとクロユリが咲いていた。今日の行程で、ここまでは歩く人も多いかも知れないが、この先に行く人は少ないようだ。「遊歩道」が終わり、歩き難い山道になるからかも知れない。先に進むと、すぐ道は狭くなり、野草が生い茂る。空気が良いせいか見た事もない様な地衣類の群生も。下るに従い、植生が微妙に変わり木々の下を分厚い苔類が埋める。途中、出会った人が、「あそこにイチヨウランが咲いていますよ」、と教えてくれる。そう簡単には見られない貴重な花らしい。

 その日のコースは前半と後半のコントラストが面白い。山荘を出てから2時間弱、しっとりとした雰囲気の良い樹海の中の下りが続く。最後はちょっと早足になって、3合目のバス停に着くと間もなく来たバスに乗って河口湖駅に戻った。

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「シモバシラ」

2008年11月24日 | 山行記

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「お坊山」、と聞いて、すぐその場所のイメージがわく人は少ないかも知れない。山と高原地図「大菩薩嶺」を見ても、主要な山は、乾徳山、笠取山、雲取山、そして勿論、大菩薩嶺だ。そんな有名な山々の陰に隠れて滝子山の西にひっそりと立つのが「お坊山」。中央線の甲斐大和駅から笹子峠、笹子雁ヶ腹摺山、米沢山、お坊山と縦走し、景徳院に下山する人が多い。

 晩秋の連休中日、その「お坊山」を訪ねた。朝、8時半過ぎ、笹子の駅に降立つと、もう雲ひとつない青空が待っていた。笹子川の下流に向かって暫く歩き、旧甲州街道沿いにある吉久保の集落を抜けると、下山に使うお坊山からの尾根が一望できる。地味だが朝日に輝く紅葉が何とも言えない。滝子山の寂ショウ尾根の入口を見て25分程歩くと「道証地蔵」のある、もう一つの滝子山の登山口に着く。一休みの後、大鹿峠への登山口へ向かう。指導標が比較的しっかりしている山梨の山としては登山口には珍しく何も無く、「大鹿峠」と記された古びた板が地面に転がっていただけだった。そこから、大鹿峠まで小一時間、落ち葉に覆われた歩き易い道が続き、峠の日差しの溢れたベンチで一休みするとお坊山の登りが始まる。

 幾つになっても「はすっぱ」な私、山道脇にテイッシュペーパーか何かが落ちている、と思いながら歩いていると、突然後方から『あっ、「シモバシラ」じゃない』とHさんの声がした。しゃがんでよくよく見ると、それは白い極細の絹糸を紡いだレースの様な氷の結晶だった。何と繊細で美しいことか! 後で調べてみると「シモバシラ」はシソ科の多年草。学名は Keiskea japonica、本草学者の伊藤圭介に因む。関東地方以西に分布し草丈40cm~90cmの目立たない植物だ。目立たないが、この地味な植物が本領を発揮するのは実は、枯れた後。もう一度、花を咲かせるのだ。美しいガラス細工のような「氷の花」を。秋に、「シモバシラ」が枯れた後も地中の根は活動を続け水分を茎に送り続けていると言う。急激に冷え込んだ朝、その水分が凍り、茎を裂き、外へと成長し、神秘的な造形美の競演を見せる。しかも、茎が裂けると同じ事は二度と起こらない為、一年に一度限りの貴重な現象なのだ。その形は、その時々の条件により、千差万別に見える。「シモバシラ」の花が出来る条件は「超」厳しいと言われる。地中が凍らず水分があり、地上が氷点下、風が無風に近く、雨や雪が降っていない、等だ。その上、せっかく出来ても、日の光に当り気温が上がれば、うたかたの様に消えてしまう。必然的に、目にする機会は少ない。

 こう言うものは、見たいと願って見られるものでは無く、まさしく「プレゼント」以外の何物でもない。一年に一度、ほんの一瞬、偶々全ての条件が揃ったその日、その辺りは、「シモバシラ」の花が我々の歓声と共にびっくりするほどずっと長く続いていた。

 昼過ぎ、滝子山を正面に臨む頂きのベンチで昼食を取ると、すぐ近くのお坊山に向かった。頂上からは「南アルプス」のパノラマが広がり、雪を被った北岳が殊更、光り輝いて見えた。


☆☆☆ 高尾山

2008年11月20日 | 山行記

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昨年に続き高尾山を訪れた。高尾山のみを目的としたツアー登山等皆無に違いない。が、今回は、敢て「新ルート」と銘打ち、一味違う「高尾山」にした。四通八達した、高尾山で、何を今更「新ルート」等と思う向きもあるかも知れないが、歩いて歩けない所は少なくはない。

 JR高尾駅北口に9時に集合、登山口の「日陰」に向かう。「日陰」の登山口は、「いろはの森」を抜けて、日影沢沿いに高尾山に至る道の一つ。平日だと言うのに、次から次へと、ザックを背負った人達が来る。ドピンカンの天気に、その日、思い立って来た人も多いに違いない。我々は、沢沿いに登る人達を尻目に、頂上から南西に延びる尾根に取りつく。いきなりの急登。「高尾山」と言う、イメージで来た方には、「ちょっと話が違うわ」と思ったかもしれない。人が歩く事を想定していない道は、倒木や深く積もった落ち葉、蜘蛛の巣等で歩き難い。30分程で林道に出る。一休みした後、20分程林道を東に辿り、尾根を乗り換える。そこからが、本格的な「急登」となる。アキレス腱が目一杯伸びる。巨木の自然林が続く。見上げれば、快晴の青空だが、見ている余裕はない。

 綾線の先の木々の間に広がる空が、みるみる大きくなると、ようやくなだらかな道になり、ホッとする。間もなく、木漏れ日に溢れた小ピークでランチ。ここまで、誰にも会わなかった。30分程のランチを済ませ、乾いた落ち葉を踏みながら暫く歩くと、一般道に合流。ここからは、別世界が始まる。丁度、そこを歩いていた人達は、突然、来るはずのない所から現れた我々に、「何事!」と不審そうな目を向けた。ここからは、歩を進めるごとに人は増える。まさに、祭礼の夜店状態。そして、頂上。ジャーーン、そこは満員電車。頂上の広場が人で埋まっている。富士山の見える「展望台」には、カメラの砲列。我々もそれに加わったのは言うまでもない。

 昨年、「Voyager Pratique Japon」と言う本がフランスのミシェランから発売された。日本版旅行ガイドである。4人の担当者が日本各地を2ヶ月ずつ、くまなく訪ね歩き、書き上げたと言う。そこで「高尾山」は三つ星に「輝いた」。三つ星は「必ず訪れるべき観光地」を意味する。三つ星の数に限れば東京の9つは京都の16に次いで、2位だ。そして、国内外の「観光客」が押し寄せた。昨年の秋、多い日で1日3万人。春夏秋冬、平均して1日7千人、年間250万人だそうだ。我々が訪ねた日、空はどこまでも青く、高く、房総半島までが見渡せる空気の澄んだ日、紅葉も真っ盛りなら「満員電車」もうなずける。下山のロープウェーの列は30分待ち。年間250万人訪れる山は、日本一だろう。それは、取りも直さず「世界一」でもある。

 下山、我々は最初から、余り歩かれていない道を辿ると、決めていた。高尾山の北東の外れに「金比羅台」と言う場所がある。そこから「落合」へ、密やかな道が続いている。その道に一歩踏み入れると、誰もいない。このコントラストは一体何なのだろうか? そんな事を思いながら30分程歩くと下山口に着いた。そこから、高尾の駅まで、それ程、遠く感じる事はなかった。


鬼怒沼~尾瀬沼縦走

2008年07月22日 | 山行記

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 昭文社の山と高原地図「尾瀬」は燧ケ岳を中心に広い範囲をカバーしている。燧ケ岳の南東に鬼怒沼山から黒岩山、赤安山を抜けて尾瀬沼に至るルートがある。登山口は大清水から物見山新道を取るか奥鬼怒温泉からのルートに限られる。共に、中高年にとって一日の行程としては長すぎるし、途中に営業している小屋は無いから、プランする事は難しい。唯一の可能性は鬼怒沼にある無人の巡視小屋を利用する事だが、そうなると、シラフ・マット・水・食料・その他を担ぐ羽目となる。それも、簡単な事ではない。何とか、実現可能なプランは作れないかと、地図と睨めっこしながら、数年が経ってしまった。<o:p></o:p>

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 避難小屋泊りには重い諸道具一式を担ぐ、と言う発想を捨てたのが、実現するきっかけになった。シラフ・マットは必要だとしても、夕食・朝食を「煮炊き」する事を止め、「調理」不要の食べ物で凌ぐ事にした。水も途中の水場を利用する事にして、最低限を持つ事に。人数も小屋の広さを考えて4人の限定とした。<o:p></o:p>

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 そして、この連休、2泊3日のプランを実行する時が来た。初日の集合は東武鬼怒川線の鬼怒川温泉駅。時間の関係で成るべく早く女夫淵から歩き始めたい、が丁度良い乗り物が無い。以前来た時に居た「白タク」のちょっと強面のおじさんは居るだろうか? と案じつつ電車を下りる。案の定、強面さんが近寄ってくる、が、条件が折り合わない。結局、40分も待ってバスに乗る。女夫淵に昼過ぎに着く。予定では日光沢温泉までの林道歩きが2時間、それから山道に入って鬼怒沼の小屋まで3時間。着くのが夕方の予定、だから一刻も早く歩き始めたい。女夫淵には何時も止まっている温泉宿のバスが数台。これに乗れれば、大分助かるのだが・・・。どうせダメだろうけど、ダメもとで一番先まで行くバスの運ちゃんに聞いてみる。が、やはり、けんもほろろに断られる。それを見ていた、Tさん、では私がと、別のバスに交渉、暫く話していたら、頭の上に両手で大きな丸。早く乗れ、と言っている。これで、林道歩きが大幅に短縮。しめしめ!結局20分程の歩きで山道の入口に立つ事が出来た。まずは幸先が良い。<o:p></o:p>

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 問題は「小屋」に先客がいるか?、だ。何しろ、狭い、4~5人で一杯になる。それにしても、連休の初日、下山してくる人の多い事! 我々が小屋に泊まる事を知って、「小屋の前にザックが置いてありましたよ!」と親切?に教えてくれる人も。「え~!、何個でしたか?」「3個でした」、う~ん、それじゃ小屋はいっぱいだ~。一瞬、気分が落ち込む。そんなときの為に、簡易テントを二張り持っているとは言え、それは最悪の場合。やはり、戸外より、戸内が好ましい。お日柄も宜しいし、やっぱり、とおもいつつ、不安な気持ちで先に進む。そして4時過ぎ、ワタスゲの咲く鬼怒沼の湿原が目の前に現れる。もう誰も居ない。湿原を挟んで男体山と燧ケ岳が対峙している。15分程木道を歩き、いよいよ小屋に到着。恐る恐る鉄の扉をノック。が、反応は無い。扉を開ける。やった~、誰も居ない。そして、ささやかな「夕食」の後、我々は日没と共に眠りについた。夜、木道にこだまする鹿の足音だけが響いていた。<o:p></o:p>

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 翌朝、4時過ぎに起きると金色に輝く満月が湿原の空に浮かんでいた。今日も天気が良さそうだ。5時過ぎ、歩き始める。地図に「ツキノワグマ出没注意」とあるエリア、早朝は特に注意が必要だ。普段はつけない、クマ除けの鈴を鳴らす。30分程で鬼怒沼山への分岐に着いた。以前は無かった山名の表示やマーキングが多い。分岐にザックを置いて頂上を往復する。ここまでは来る人が多い為か、踏み後もしっかりしているが、ここから先は格段に踏み後も細く、薄くなる。北東に向かうルートはシラビソの原生林の中を、幾つかのピークを左へ、右へと巻きながら進む。何と倒木の多い事か!その度に、乗り越し、下をくぐり、左右に迂回する。8時半頃、水場が現れる。「小松湿原」の表示もあった。湿原はそこからは離れているので見ることは出来ない。この辺りは、めったに人が来ないせいか、クマの活動も活発の様だ。ルートの脇には、何の為だろうか、根元が無残にも大きく皮を引き剥がされたばかりのシラビソがクマの爪痕も顕に立っていた。「俺の怖さを忘れるな!」とでも言いたいのだろうか? 9時過ぎ、黒岩山への分岐で一休みすると西に方向を変える。そこから2時間程の上り下りの後、赤安山の急な登りとなる。ルートは赤安山のピークをわずかに北側に巻いている。頂上直下にザックを置くとピークを往復。目立たないピークには笹薮の中に黒く小さな三角点が頭を覗かせていた。12時半頃、赤安山を下った鞍部に「赤安清水」の表示。水場はちょっと遠く、水の補給には向かないがテントを張るスペースはある。この後、袴腰山の北をトラバースする道は根曲竹や倒木に遮られ、上下する道は歩き難く、疲れや、強い日差しの為か、通過に小一時間も掛かってしまった。2時少し前、ルートはなだらかな下りの道に変わり125番鉄塔を過ぎると、中ノ俣沢への分岐を左に分け14時35分、小淵沢田代に着いた。誰も居ない、広くひっそりとした田代で、うっとりとしながら休みを取り、先を急ぐ。間も無く尾瀬沼への分岐を左へ入ると、最後の登りが待っていた。これが、最後の登りと言い聞かせながら登る。尾瀬沼への下りに入ると、段差のある急な道が続き最後まで楽にはさせてくれない。4時過ぎ、道が木道に変わる。左右に真新しいテントが続く尾瀬沼キャンプ場だ。大勢が夕食を囲んでいる一団から、「もう下山するんですか?」等とトンチンカンな声も掛かる。間も無く「満館」と書かれた今日の「宿」長蔵小屋が目の前に現れた。お疲れ様!<o:p></o:p>

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中禅寺湖南岸周遊歩道

2008年06月03日 | 山行記

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 日光の中禅寺湖。西の外れに千手ヶ浜はある。雨続きの合間、びっくりする様な爽やかな日。乗り物を乗り継いで昼過ぎ、その浜に立つ。湖面の先に大きな男体山。千手ヶ浜は日光開山の祖、奈良天平の時代に生まれた勝道上人が創建した「千手堂」があった事に由来する。湖岸に立つと、この時期としては湖を渡る風がひんやりと冷たい。歩き始めてすぐ、音次郎吊橋を渡ると、すぐクリンソウの群落地に着く。園内に入ると、色取り取りに咲いたクリンソウが素敵な小川の淵に可愛らしい列を作っていた。ゆっくりとしたい所だったが、今日は先を急ぐ。湖岸の道に戻り、東に向かう。<o:p></o:p>

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歩き始めて30分、「千手堂」の跡地を通り、山道に差し掛かる。目指す「阿世潟」までは約9km。程無くして黒檜山への分岐を右に分け、緩やかな登り下りが湖岸に沿って続く。所々シャクナゲの群落が現れるが、今年は「裏」なのかもしれない、殆ど花をつけていない。その代わり、私の好きな清楚な白い花をつけたシロヤシオの木が所々に現れる。「俵石」を過ぎると、道は少し険しさを増し、緊張を迫られる所も現れる。道は、木々に囲まれた、しっとりとした2000m級の山をトラバースしている雰囲気だが、すぐ目線の下には薄緑色の湖面が木々の間から見え、ちょっと、不思議な感覚がする。ほんの時々だが、木々の間の、湖面の奥に、雪の残る奥白根の山々が見える。ハッとして立ち止まり、うっとりと眺める。暫くして「梵字岩」を通過、所々日差しを浴びたブナの新緑が目に眩しい。幾つもの「崎」を通過する度に歩く方角が千変万化し、その度に景色が変わる。「白岩」は展望の良い事で知られるが、今日は先を急ぐ為、残念ながら省略。頭上の木々の花々や湖面の水の色、遠くに見える山々を楽しみながら、先を進む。<o:p></o:p>

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松ヶ崎から大日崎を過ぎると中禅寺湖唯一の島「上野島(こおずけじま)」が現れる。前述の勝道上人の遺骨の一部が納められていると言うその小さな島、一説には人工の島とも言われ、水位が下がると、歩いて渡れるとも言われている。その小さな島の対岸の歌が浜には延暦3年(784年)勝道上人創建の中禅寺がある。そこから30分程で阿世潟に着く。そこは社山や半月山へ至る分岐にもなっている。日の長いこの時期とは言え、そろそろ日も傾き、標高の高さもあって寒さも少し増してきた様に感じた。ゆっくりと休憩し、ここからはブナ林の中に続く広い道を進む。<o:p></o:p>

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八丁出島を過ぎると、程無くして半月山荘。ここから先は舗装路となり、車も通行出来る道だ。右からの広い車道が合流すると、間も無く各国の大使館の別荘の脇を抜け中禅寺温泉に出た。そこは、既にひっそりとして、誰も居なかった。ようやく、開いている蕎麦屋を見つけ、バスの出る合間に空腹を満たした。日曜日の喧騒も終わり、渋滞も終わったいろは坂をバスが下る頃、うっすらと闇が迫り、日光の駅に着く頃は、既にとっぷりと日も暮れていた。<o:p></o:p>


日向山

2008年05月03日 | 山行記

 日向山、と言って、すぐどこにある山か判る人は少ないかも知れない。近くには、数多の有名な山々があるから、それも仕方が無い。些か単調で、何の変哲も無いこの山には、実はびっくりする「演出」が施されている。<o:p></o:p>

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 連休の谷間、特急が甲府盆地に入ると、それまで日差しが出ていた天気が、ガラッと変って、霞で覆われたようにうすぼんやりとした風景に変った。目指す長坂駅、特急は止まらない。手前の韮崎駅で降りて各駅に乗換える。待ち時間30分、乗車20分で長坂駅。頼んでおいたタクシーで登山口の矢立石へ向かう。舗装道路がでこぼこ道に変って間も無く、車が何台も林道脇に止まる登山口に着いた。<o:p></o:p>

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 登山口で、いつもの「儀式」を済ませて、昨日、登山靴を買ったばかり、と言うFさんを先頭に歩き始める。15分程で「10/1」と書かれた所を通過。新緑が美しい。暫くすると鮮やかな赤紫色をした「ミツバツツジ」が現れ、新緑の芽吹きの中、目を楽しませてくれる。風もなく、ひんやりとして気持ちがいい。薄曇の空は、この時期は、むしろありがたい。小一時間もたった頃、道端に石像が現れた。脇には「天保十三年」と刻まれている。江戸時代にもここを人が歩いていたのだ。丁度、12時頃、道の脇でお昼にする。<o:p></o:p>

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午後の歩きになって、少しずつ風景が変わり、一面クマザサに覆われたカラマツの林が続く。積もったカラマツの落ち葉が足に心地よいクッションに。そして、表示が「10/9」になった頃、「三角点」と記された分岐が。本来は、そこが「山の頂上」なのだろうが、この山の頂上は、もう少し先にある。そこから、緑の林の中を5分程進むと、突然景色が一変した! そこは、一面、純白の世界。「雁ヶ原」と呼ばれ、白砂と花崗岩の奇岩が広がる。薄雲の間から荘厳な、雪に光る甲斐駒も覗いていた。何と言う「演出」だろうか。頂上までの、些か単調な風景は、この奇観をドラマチックに見せる為の「演出」だったのだろうか。 我々は、嬉々として奇観の中を歩き回った。<o:p></o:p>

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 時が来て、我々は去りがたい気持ちで「白の世界」を後にした。下りでは、余韻を噛みしめるように、花の事など話しながら、ゆっくりと歩を進め、下山口に来ていたタクシーに乗り、元来た道を戻った。<o:p></o:p>

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 山麓には白州と呼ばれる場所があり、白砂に浄化された、本物の「水」が湧き出ている。それは「南アルプスの天然水」や「白州」と呼ばれるウイスキーにもなっている。 <o:p></o:p>


稲荷山

2008年03月24日 | 山行記

08_015_2  この季節、「潮干狩り」のニュースが風物詩の様に新聞やテレビで取り上げられる。わが町、横浜で「潮干狩り」が出来る場所があるのを知ったのは昨年。びっくりした。市民でも、知らない人が多いに違いない。ならば、「潮干狩り」をしてから「山登り」をと、「奇想天外」なプランが頭に浮かんだ。でも、「潮干狩り」は「潮」加減が難しい。「潮」が程よく、温み、「大潮」でなければダメ。半年もの前に、それを探るのが「難題」だった。散々調べて、当たりをつける。山も、近くの「稲荷山」に決める。「自画自賛」しても、問題は来る人がいるかどうか?<o:p></o:p>

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 そして、3月中旬、その日を迎えた。「要綱」には「潮干狩りの道具はこちらで準備します」と書いてしまったので、前日購入した「道具」がずっしりと重い。「ずっしりと重くなる」程の参加者を得て、当日は快晴無風。「現場」に向かう乗り物の中から、この時期珍しい「真白き富士の峰」がくっきり。乗り物は浜の前まで行くのだが、時間調整の為、ずっと前から降りて歩く。江戸の昔より、風光明媚だったこの辺りは、今でも風光明媚。浜が遠くに見え、歩を進めるに従い、近付いてくる。そして、ぼんやりと「人の群れ」らしきものが見え始める。そして、浜辺の木陰到着。磯の香溢れる目の前の浜には人人人。すぐズボンをたくし上げると熊手と収穫を入れる大き目の網の袋を持って渚へ。それにしても、こんな事をするのは実に久し振り。慣れないせいか、裸足で濡れた砂浜を歩く感覚に少し違和感が。それでも、すぐに熊手を干上がった砂地に入れる。それにしても、熊手が大きい、アサリ用と言うより、ハマグリに向いている。あれっ、取れない!と思い始めるのに時間は掛からなかった。掘っても、掘っても、貝殻ばかり、中味が無い。余りの事に、一人、吹出してしまった。さっきから「2キロ以上は採らないように」とのアナウンスが繰り返し流れている。聞くほどに、気持ちが落ち込む。結局、7粒程の小さなアサリを大き目の袋に入れると、早々に木陰に戻る。それにしても、慣れない格好で少々腰も痛い。私の事を気遣ってか「見ているだけで楽しいわね」とか「久し振りに裸足になって童心に帰ったわ」等と聞こえる。トホホ。そして、相変わらず流れるアナウンスを聞きながらお昼に。空気はすがすがしく、広がる浜辺と人々の夢中な姿が心和ませる。そして、これも間を持たせる為、人の「収穫」を気にしながら、広く長い浜を歩き、いよいよ山へ向かう。目指す「山」は古刹「金沢山(きんたくさん)称名寺」の裏山で史跡に指定されている貴重な山域。浜から15分程で登山口に。暫くするとさっきまでの「潮干狩り」がウソの様な風景が目の前に広がる。春の日差しを浴びた山の斜面にはスミレの大群落も。登山口から40分程で目指す稲荷山に到着。休む間も無く「縦走」を続け金沢山(73m)のピークを通り、都合1時間半程で下山口に着いた。かくして、「奇想天外」な一日は重くなるはずだったザックを背にお開きとなった。<o:p></o:p>



極める

2008年02月03日 | 山行記

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 人が何かを「極めたい」と言う事は何なのだろうか?「極める」とは極限の状態までつきつめる事だから、例えば、位を極める、頂上を極める、もっと言えば命を極める、と言う事もある。人類をここまで進化させた原動力の一つでもある。いずれにしても「楽」な事ではない。

 「沼津アルプス全山縦走」等と言うのも「極める」事の一つだろう。一体、誰が最初に考えついたのか?余計な事を考えた物だ。ついこの間まで、「全山縦走」とは香貫山から大平山までを言ったのだが、今ではそれが大嵐山まで伸びてしまった。人の「極め心」は尽きないものだ。

 この「全山縦走」は一般的に前泊し、早朝の出発が普通だが、今回は「日帰り」で敢行した。これも、「極める」部類の話かも知れない。沼津の駅に集合して、タクシーで登山口へ。車の通行量の多い幹線道路にその登山口はある。手短に歩き始める体勢を整えると8:27、最初の一歩。目指すは第一座「香貫山・193m」。この山域は全体が都市公園の様に整備され「市民の憩いの場」となっていて、頂上近くまで立派な舗装道路が通じている。30分程で頂上。素晴しい「指導標」が立っている。この道標に、作者のコースを愛する気持ちを感じない訳には行かない。ここは「全山」が見渡せる唯一の場所。今日は予報に反し、青空だったので「全山」がくっきり。すぐ下山に掛かり20分程で林道に下り、第二座目の「横山・182m」の登山口に向かう。9:37、八重坂峠の登山口から登り始める。暫くして「沼ア」名物のトラロープの滑り易い急登に。登っている時は長く感じる時間も、頂上まではほんの20分程度。横山峠まで下ってからの「徳倉山・256m」への登りもきつい。「クサリ」と称していても、実際はクサリのついた階段。それが、一直線に頂上辺りまで伸びているのが見える。コース上で一番の絶景ポイントの頂上から、今日は富士山が見えない。ちょっと、残念。携帯で「去年はこう見えた」と写真を見せる人も。わ~、綺麗、と携帯の画面に。そして、羽衣伝説で有名な三保の松原の美しい砂浜の曲線にうっとり。でも、長居は無用、先を急ぐ。香貫台分岐を通過して「フユノハナワラビ」が数本、その先に木肌の素敵な「鹿子の木」の群生、そして千金岩のある急坂を下る。ここも、うっとりする景色の一つ。淡島や伊豆の山並みがうっすらと浮かぶ。志下坂峠から5分で「大トカゲ場。 順調に来たので、ここでトカゲの様に日を浴び、海を見ながら短いお昼に。そして「志下山・214m」から馬込峠、「中将宮」へ。ここは、以前脇道だった所、ルートが変わりメインルートの一部になった。さて、その後がいよいよ、急登の本番。木の根っこをこれ程有難く感じる所は他にはないかも。そして、「小鷲頭山・330m」。大勢の人が景色を眺めている。そこから10分でルート上の最高峰「鷲頭山・392m」に。地元の人か、シートを広げて宴会の最中の人達も居て、賑やか。一休みして多比峠に下る。何時もの事ながら、水っぽく、滑り易い下り。峠を越えると「うばめがし」の純林。そして全員無事「肥満度測定木」を通過。このコースの素晴しさは、コースに変化があって飽きさせない事。ここからは、岩っぽい所が続き、変化がある。13:31、多比峠を通過して、一気に「大平山(おおべらやま)・356m」の登りに掛かる。ここまで、何度上り下りを繰り返しただろうか。頂上から先が「奥沼津アルプス」と呼ばれる山域に。昭文社の地図では今でも破線のエリア。暫く前までは極少数の人が歩いていたのだろう、が、今では立派な道が開かれている。頂上にカンバンが出ている「奥アルプス大平会」の人達の尽力に拠ったのかも知れない。13:51、いよいよ「極め」始める。が、いきなりの急降下。正しく、落ちる、と言った方が適当かも。それも、長い。雨の日じゃなくて良かった!下った先に7段のハシゴ。何も書いていない山口峠を通過、蛙岩の先に「展望台」の岩。確かに景色はいい。そこから5~6分で分岐に。直進するコースは「ベテラン・コース」だそうだ。勿論「ベテラン・コース」に、と言えば格好はいいが、私の見立てでは難易度は変わらない。途中、「新城」に下る分岐で一休みした後、14:33、いよいよ「大嵐山(おおぞれやま)・191m」に向かう。疲れが溜まってくる頃の登りはつらい。やっと頂上近くなると石の柵が見える。ここは、地元の人の「憩いの場」、散歩気分で登ってくる人がいる。この山は、地元の「日守」に因んで「日守山」とも呼ばれ親しまれ、三角点もある。実の所、コース上の三角点は「徳倉山」とここだけだ。ここからは箱根の山々が目の前に広がる。さて、極める為にはまだ先がある。ちょっと判りにくい分岐から下り始める。ここまで、読むだけで疲れるのだから、歩いたら・・・。「大嵐山」が最後の山、と思ったら大間違い、まだ「茶臼山・128m」がある。でも、先が見えれば力は出る。黙々と歩き、ピークを越え、下山口に16:27、これでぴったり8時間、累積の標高差は約1200m。疲労感と充実感で一杯になった。目出度し目出度し。