古寺のハナヅクリより
さかのぼること4年前に「「オンバシラ」再考」という論文を『信濃』に掲載した。当時、伊那市下殿島にそれらしいものが建てられることを認識していなかったわけであるが、隣の中殿島の事例はとりあげていた。その事例も実見したわけではなかったため、当時からもし実施されていたら確認してみたいと思っていたもの。今回の事例は下殿島であって、中殿島ではない。したがって蟹沢弘美氏が箕輪町でのデーモンジを町文化財に指定する際に調査報告した「大出上組・北小河内漆戸の「大文字」調査報告書」に記載された中殿島の事例と今回の行事は異なる。ようは、東春近には同様の行事が局所的ではなく、広範に分布していたということが推測される。
蟹沢氏の例示した内容は次のようなものであった。
ここでは、歳(せい)の神と言って枝の付いた長い生竹に、太陽に花、柳(十本ほど)を束にして結わえ付け竹の枝には願い事を書いた短冊を吊るしてあった。建ててある場所は道祖神のある辻の田の中であった。一月十五日に建て二十日過ぎの休み日に倒してどんど焼きをする。各家庭の注連飾りが沢山集められてあった。ここの行事は子供会がやっている。側の道祖神は安政六年の建立であり、十四日に投げたのか茶碗の壊れや銭、大根などが産卵していた。
とある。この行事を実施している具体的な場所がわからなかったわけであるが、安政6年の道祖神が建っているというところから中殿島城下中の道祖神であることがわかった。そして記述から察すると、古寺のハナヅクリとよく似ていることが解る。太陽は古寺でいう日輪であり、花はそのままハナである。ただ。願い事を書いた短冊というものは古寺には見られなかった。表現として「七夕飾りのようなモノ」と聞いたのは、城下でのこと。道祖神を手がかりに城下で話を聞いてみることに。ところが城下という集落がなかなかはっきりしない。ようやくそれらしいエリアがわかってある家に立ち寄ってみると、今年やるかどうかはわからないが、と場所を教えていただいた。するとそこに建っている道祖神は安政6年のものではなかった。城下にあるもうひとつの道祖神である。もし蟹沢氏の調査が正確だとしたら、蟹沢氏の示した「歳の神」という行事は城下内でも複数行なわれていることになるが、そのあたりははっきりしない。立ち寄った家の方が言うには、行事は「セーノカミ」というらしい。「道祖神のことは何と言うのですか」とたずねると、「ドウソジン」と言う。明確に行事をセーノカミと称しているようだ。『伊那市誌現代編』によると、『東春近村誌』に「賽の神の前に五色の紙を、青竹に結びつけ、御幣と五色の柳と五色の短冊で飾り立てる」と記述がある。東春近においてこの行事が、城下や古寺だけで行なわれていたわけではないということは、城下の方の「このあたりではどこでもやっていた」という話からうかがえる。もちろん今は限られてしまっているが。
さて、教えてもらった城下のセーノカミを建てるところに行ってみると、蚕神や庚申などともに、ひときわ目立つように道祖神が祀られていた。脇に鉄パイプの柱が立ててあって、もしかしたらここにセーノカミを建てるのかもしれない。蟹沢氏の報告にあるように、道祖神のところに割れた茶碗がおいてある。いつ投げられたものかわからないが、厄落しの痕跡である。
続く
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