Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

旧穂高町塚原の御柱

2016-01-13 23:26:22 | 民俗学

塚原巾上

 

塚原中部

 

 旧穂高町柏原倉平の御柱について触れた。高原正文氏は「道祖神御柱をめぐる一考察-長野県南安曇地方を中心に-」(『長野県民俗の会会報』25)において、倉平の御柱を「女の柱」と表現している。それは「柱本体に対する男根の萬意の認識が極めて薄く、女性器の勢能に対する篤い信仰」がうかがえることからそう表現するのである。倉平の御柱には当初は福俵はなかったという。単なる柱だけだったものが、生殖の神化して御柱の飾りが女性の性器をイメージさせるように変化したという。ようは五色の垂が柱の周囲に楕円状にめぐらされるているのは、「子供が生まれ出てくる大事な女性器は陰毛で守らなければならない」という地元の方の弁から陰毛を意味しているというのだ。当初は白紙だったものを五色に変え、太陽、大地、大気、火、水を表すようにしたとも。そしてほかの御柱につけられる巾着に変えて、俵で女性器の勢能を上げる意味を示したというのだ。安曇の御柱には松本の御柱と違って俵がつけられる例が見られる。それらがすべてそういう意味を持っているわけではないだろうが、とりわけ倉平では地元の方からそれを証すような話をすくい上げているのである。果たして倉平の御柱はそう見えるのか、どうか、それぞれのイメージするところである。

 俵は旧穂高町に現存するほかの2箇所の御柱にも付けられている。倉平から西方の山麓まで上り詰めると、県道25号の烏川橋に至るが、その橋の南側あたりを塚原といい、その水田地帯の中程に御柱が建っているのが巾上の御柱である。浜野安則氏によると(「道祖神の柱立てと火祭りとの関係-安曇野・松本平・上伊那の事例から-」『信濃』63-1/信濃史学会)、ここでは大晦日にサンクローをするという。もちろん松飾りはまだ下ろされていないから、藁だけで燃やすのだと。その理由について触れられていないが、では本来の松飾りはどうしているものなのか。これも浜野氏が前掲書に報告されている。御柱を倒す11日に、昔は注連飾りを持ち寄って燃やしたという。やはり、わたしの推定では、このあたりでも小正月明けに、小正月の飾りを焼く松焼き行事をしていたのではないだろうか。そしてその日は、本来20日であったと思う。とはいえ「昔は」と言うから今はしていないということになるから、現在はどう処理しているものなのか。そのサンクローは現在も道祖神の祀られている前庭で行われる。そしてその場所に御柱も建てられる。向きとしはて真東を向けて建てられる。多くの御柱は明けの方角を向いていることは事実だが、すべてではない。最上部には竹がつけられ、色紙の垂がちらほらと。横木は桑棒だというが、ここでは「こ」の字状に曲げて結えられる。その最上端には日の丸のついた扇が付けられる。横木には巾着がつけられるが、ここでは「ねじれ袋」というらしい。柱の中程に俵がひとつ付けられる。倉平同様に俵には3本の幣束が立てられている。ここでは俵の下にも紅白の布で作った「ねじれ袋」が三つ付けられている。

 巾上から見えるほど近いところに塚原中部の御柱が建てられる。八幡社裏手のグランドの隅に建てられており、グランドにサンクローが作られる。ここも最上部に竹が付けられるが、その竹にも「ねじれ袋」が吊る下がっている。巾上同様桑棒を使って横木とされており、ここでは「こ」の字状ではなく、棒をクロスして結わえ付けている。中程に扇とおかめが付けられ、最下段に俵と言うには小さい藁の束ねたものが付けられる。これにも3本の色紙で作った幣束が立つ。正確には俵と異なるが、意識としては俵だったのではないだろうか。

 巾着がない倉平と、それが付く塚原の事例は細部が異なるものの、基本的な形状は同系といって良いだろう。やはりわたしはこれら御柱を梯子型と呼びたい。


コメント    この記事についてブログを書く
« 旧穂高町柏原倉平の御柱 | トップ | これも御柱 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

民俗学」カテゴリの最新記事