Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

立ち小便

2019-01-08 23:40:55 | ひとから学ぶ

落とし紙のことより

 久しぶりに長野で会議があって、明日もヒアリングがあるため、ホテルへの宿泊となった。会議に合わせて新年会が開かれたのだが、近在に住む人の中には、自宅に帰ることができるのに飲むのを楽しみにして、わざわざ泊まる輩もいて、「つきあえ」とばかりに遅くまでつき合わされた次第だ。暦が変わるころホテルに戻って、トイレに座ると、やはり便座が小さいと感じる。これもまた以前に記していることだが、便座の大きさというものは、それほど規格が違うはずはないと思うのだが、狭い空間に押し込んだようなホテルのトイレは、「小さい」と感じることが当たり前になっている。日本人ならともかく、大柄な「外国人にとってどうなんだろう」とホテルでつぶやくことは多い。

 今は職場で旅行をするといっても、ほとんどホテルの個室に泊まるのが当たり前になった。したがって風呂に入るといっても、いわゆるバスとトイレがひとつ空間に収まったもの。違和感があっても仕方のないことだ。かつては旅館泊まりがふつうだったから、こんな空間を経験することはなかったが、今は当たり前の光景だ。狭い空間に押し込めばこんなもんなのだろうが、今回泊まったホテルでは、空室の関係なのだろうがたまたまダブルの部屋に案内された。依頼したわけではない。大きめなベッドが二つ並んでいて、部屋としてはずいぶん広い。もちろん独りで泊まるには広すぎるほど。ところがバスとトイレはシングルと同じ。当たり前なのかもしれないが、それでいて便座が小さいと、なぜこの空間だけは「こうなってしまうのか」と思ってしまうのだ。

 さて、昨日も韓国のトイレ事情について触れたところだが、トイレを中心に「衛生観」について以前触れたことがあった。そういう意味では、『現在学研究』1号(現在学研究会 平成30年10月1日発行)は「生活文化における衛生観」を特集していて興味深かった。昨日も触れた倉石美都氏の「トイレ空間からみた韓国人の清潔観」において、野外において用をたす話が報告されている。韓国では「トイレがあるにも関わらず、野外で用をたす男性もいる」という。もちろん日本でもそういう人がいないわけではないし、地方では珍しいことではないが。そもそも倉石氏の野外で用をたす話に目が留まった理由は、昨日長野市内のコンビニに立ち寄った際、コンビニ裏手のプレハブの物置とコンビニの建物間に向かって、おもむろに立ち小便をしている男性がいた。ちょっと最近では珍しい光景と思った。夜の飲み屋街でもない。真昼間である。もっといえば、コンビニなのだから、店の中に行けばトイレがあるというのに、あえて人目につく屋外で立ち小便なのだ。なんだ韓国も日本も、「そう変わりないぞ」と思ったわけだ。


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