下伊那の道祖神⑬より
右手へ向かう山道の先が松島へ、となる
気がついて振り返ると・・・
なぜここに祀られたのか・・・
飯田風越高校郷土班の『風越山』30号(1985)によると、天龍村には6基の道祖神が報告されている。文字碑が4基、双体像が2基である。これまでにも触れてきたように、この地域には道標を兼ねたもの、あるいは新しいものには道路開削記念に建てられた道祖神が多い。そういう意味では嘉永年銘のある2基の「道祖神」は、いずれも道標を兼ねたものとして建てられている。さらにいずれにも「願主」が刻まれており、同じ「自慶院 大秀僧」と僧の名前が刻まれている。年銘のあるものはいずれも江戸時代末期のもので、最も古い銘のあるものは文化14年(1817)建立である。そもそも道祖神が建立されている場所であるが、天龍村の中心部にあたる平岡の満島神社に2基、神原の大河内の集落内に2基、ほかの2基はまったくの山の中にある。峠に建つ道祖神が多いのも、この地域の特徴でもある。そのひとつは平岡から遠山の名田熊に向かう谷京峠にあり、平岡が標高300メートルほどとすると、谷京峠は849メートルと、標高差550メートルほどある。またもうひとつは、神原の大久那から長島へ向かう道の鬼ヶ城にあるもので、偶然にも谷京峠と同じ849メートルほど標高に建てられている。実は大河内も標高でみると、ひとつはほぼ849メートルほどの標高に建てられている。もうひとつも840メートルほどと、天龍村にある道祖神6基のうち4基はどれも標高840メートルあたりに建てられているのである。
実は6基の道祖神のうち大河内にある双体像は以前より認識していたが、それ以外の道祖神を拝見したことはなかった。どうしてももう1基の双体像を拝見したいと、昨年末に鬼ヶ城近くにある道祖神を探しに山に入ったのだが出会うことができなかった。天龍村では最も古い銘文のあるもので、とりわけ人里離れた地にある双体像には魅力があった。大久那は平岡からみると天竜川を挟んだ西側の山上に家々が点在する地域。現在居住されている家は数えるくらいではないだろうか。平岡の対岸の松島から鬼ヶ城に行く道があるが、この道はさすがのわたしも通ったことはない。古き時代に仕事で大久那から和知野川沿いの合戸に出たことはあるが、昨年末も向方へ行ったついでに通ったものだったので、早木戸川沿いの戸口から入った。大久那の北はずれにある峠へ車を置いて、しばらく鬼ヶ城に向かって歩いていくのであるが、山道に迷ってその際は諦めたわけである。今回あらためて地図上でイメージを膨らませてから同じ道を鬼ヶ城に向かって歩いてみた。あとでわかったことであるが、鬼ヶ城に開いている村道から上れば、きっと歩く距離も短くその場所へ行けるようだ。この日も結局見つからず諦めようとしたとき、少し先に不自然な屋根のようなものが見えてそれでもと思って行ってみたら、目的の道祖神に出会えたわけで、ちょっと感動的な遭遇だった。
駒形の双体像はそれぞれが単独に立っているもので、頭上にある冠がちょっと見「馬頭」のようにも見えなくもないが、そうでもないとも見える。像向かって右側に「文化十四」とはっきりわかるが、ほかの銘文は風化していてはっきりしない。左側にも銘文が彫られていがはっきりしない。前掲書には「文化十四□十一月□」とあり、左側の銘文については「□□□」と読み取れていない。碑高37センチほどの小さなものである。石で囲われている上にトタンの屋根が掛けられているが、朽ちそうな感じ。今では祀る人はいないようだ。前掲書によると「地元の人はさいのかみと呼んでいる」とコメントされている。また祭祀場所について「大久那上旧道松島街道」と記されている。大久那から松島へ向かう道だったようだ。
もうひとつの双体像は大河内の池大神社下の道沿いにほかの石仏とともに建っているもの。こちらは肩を抱き寄せて手を握っている。像向かって右側に「村中安全」、左側に「施主与曽兵エ」とある。また背面に「安政六己子年 二月吉日」とある。こちらは碑高57センチと鬼ヶ城への道にあるものよりは大きい。
鬼ヶ城道の道祖神
大河内池大神社下の道祖神
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