「井筋」と検索すると、トップに登場するのは、Yahooでは“井筋とは - Weblio辞書”、次いで“太田切川の井筋”、“今に伝わる水資源「伝兵衛井筋」”と続く。用水路のことを「井筋」と呼んでいるわけであるが、検索結果からわかるのは、上伊那における独特な呼称であることは、そのヒット数でもわかる。しかし、それは上伊那だけで言われているものではなく、“高知の長閑な田園風景\(^o^)/ 今尚、受け継がれる鎌田井筋”や、“【愛知】尾張農林 大塚井筋の活用 新規採択へ検討”と言ったものもある。検索を続けていってわかることは、圧倒的に記事がヒットするのは、やはり上伊那、次いで高知県であって、「山田井筋」という名称も多出する。そもそも「山田井筋」は、そのまま「山田井筋土地改良区」という土地改良区の名称にもなっている。
先日の学習会で知ったことであるが、伊那市立富県小学校の校歌には、この「井筋」という単語が登場する。校歌2番の冒頭からである。
井筋に水は 満ちみちて
稔りゆたかな 富県の
田の面そよ吹く 涼風は
思いたのしい 歌はこぶ
1番では背後の山である「高烏谷」(たかずや)、そして眼下に流れる「三峰川」といった親しみのある地名が登場すると、2番で「井筋」を取り上げている。いかに「井筋」の存在が、この地域で大きいかを知らしめる材料と言える。もちろん水田地帯が、主たるこの地域の景観であり、それを作り上げた原点に用水路があったことは、歴史が伝えるもので、この地の生業を支えてきた存在は、この地で大きな意味を持っていることは確かなこと。とはいえ、かつてなら分かるが、現代において「井筋」という呼称はわかりづらい。そこで子どもたちに教える際にも、「井筋」とはいったい「何か」というところから始まるわけである。
伊藤伝兵衛が開削した富県への恵みの水。かつてヤマであった地を開拓させたのも、水のおかげなのである。とりわけ富県の段丘下にある東春近にとって、カリシキを求めた段丘上のヤマは、後に井筋の開削によって水田地帯となった。富県へ導水された水は、勢い東春近にも導水された。
さて、地域でもこの段丘上のかつての平地林のことを「ヤマ」と呼ぶ。伊那谷では、段丘上の地は平地林であったところは多い。井筋開削に伴って平地林は水田に変わっていった。用水が引かれれば、引くことのできるところすべてを開田するというのは共通していたのが上伊那だったのかもしれない。したがって以前にも記したように、上伊那には水田が多い。先日訪れた群馬県赤城山麓の裾野には、水田もあるが、必ずしもすべてを水田化していない。したがって水田と畑が混在している光景が当たり前のように見られた。ところが上伊那では、あるいは上伊那だけにあらず、長野県内では、水が引けさえすれば水田化する地域がほとんどだった。「よくも引いたもの」、そう思わせる水路は珍しくない。景観上の大きな特色と言える。
わたしも平地林のことも、高山も、同じように「ヤマ」と呼ぶ。市街エリアの人たちにはこの感覚がわからないようで、山でもないところを「ヤマ」と連呼すると、かなり違和感を与えるようだ。しかし、かつてこの地で農を営んだ人々にとって、「ヤマ」は山でもあり、「ヤマ」でもあったのである。
長野県上伊那に限って、用水・堰の地方漢字として「井筋」という文字を使用しています。
下伊那は「井」、「井水」、「用水」「その他」という地方文字が使用されています。
下伊那地方の調査は下伊那地方事務所が克明な調査結果に拠るものです。
諏訪盆地の各市町村史では、「汐(せぎ)」という文字を「堰」代用文字として使われいます。
松本平の多くの地域の市町村史では、堰の代用文字として「土辺にタ」という、日本漢字に無い文字を使用したと記されています。
松本平の調査は、長野県立図書館に依頼した結果です。
善光寺平と佐久平では、「堰」という全国的に使用されている文字を使用しています。
長野県は、各盆地が山脈で遮られ、各盆地の交流が少なかった為、各盆地独自の民俗文化が有り、用水の呼称がこんなにも違うのに、驚いています。
ブログにて、各盆地に残されている独自民俗習慣を今後と発信されることを祈念致します。