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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

これも御柱

2016-01-14 23:27:43 | 民俗学

 

 正月の道祖神の御柱といえば、中信地方の梯子形のほか、辰野町北大出多屋小路のものにみるヤナギ形は山梨県のオヤマと類似したもの、そして同じ辰野町羽場にみる七夕形はまさに七夕飾りのように竹に飾り付けたタイプで、これを御柱とは言い難いかもしれない。さらに川上村に見るオンベ形のようなシンプルなものもあるが、先日他にはないタイプをまたひとつ確認してきた。

 松本市神林は、他の御柱の事例との位置関係では、松本市上波田と同内田の中間、やや内田に近いところにある。この神林の町神というところは「町」とつくように仁科街道沿いに町割も見られる集落。その中ほどに松本藩の高札場が置かれた場所があり、市の特別史跡に指定されている。この高札場のある場所に道祖神が祀られている。その道祖神の脇に、柱の上に社が載せられたものがこの小正月に建っていた。この柱を御柱として報告されているのは小林経広氏である。「村の柱祭り-松本市・塩尻市のオンバシラを中心に-」(『長野県民俗の会会報』1号)」において、「過去実施された所」として神林を紹介している。いっぽう中信から南信にかけての御柱を詳細に調査した浜野安則氏「道祖神の柱立てと火祭りとの関係-安曇野・松本平・上伊那の事例から-」には、この神林の例については触れていない。見るからにほかの御柱とは異質なものだけに、実際のところ何と呼ばれているか確認してみると、やはり「オンバシラ」と言うらしい。かつてはサンクローの櫓をこの道祖神の脇に御柱とともに建てたといい、サンクローの高さはこの御柱より遥かに高かったという。家々が密集しているこの位置で、よくサンクローがされたものだと今は思うが、子どもたちにとってはこの高札場のある場所が一番の遊び場だったという。サンクローの方が高く作られたということになると、果たしてこの御柱にはどういう意味があったものか。そもそも社を高く揚げる形式は見たことがない。柱は毎年同じ柱が使われていて、古老が子どものころからこの柱だったという。柱を建ててその上に社を載せただけの簡単な仕組みである。松本市史「民俗編調査報告書第3集-神林を中心として-」(平成6年)に次のようにこの御柱のことが記されている。「一月十四日に道祖神の前の道に子供達が縄を張って通行人を止め、「祝っておくれや」といってお金をもらった。また、道祖神を建てるといって、三メートル程の柱を建ててその上に道祖神の祠を載せて祭った。これは近くの家の人がするが、注連縄を巻き、お供えを供えた。十四日から二十日までしておく。」とある。ようはここで通せんぼを子どもたちがしたという。さらに御柱のことについて「道祖神を建てる」と言ったようだ。集落で行った、というのではなく個人的に建てたものなのだろうか。

 ちなみにここの道祖神は「文化戊辰年」に建てられたもの。「戊辰」は文化5年(1808)である。


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