侘寂菜花筵(わさびなかふぇ)

彼岸の岸辺がうっすらと見え隠れする昨今、そこへ渡る日を分りつつ今ここを、心をこめて、大切に生きて行きたい思いを綴ります。

近松門左衛門と裁判員制度

2009-06-22 22:26:48 | Weblog
 今月の歌舞伎座、昼の部最後の演目「女殺油地獄」は片岡仁左衛門丈が放蕩息子与兵衛役を努めている。
 当たり役の一つであるが今回を最後になさる由、この最後の舞台を拝見出来る幸せに陶然とした。

 姿、形の良さはもう当たり前だけれども、所作の美しさ、立ち居振る舞いに華がある、、等賛辞は尽きない。
 
 が、近松先生の脚本は登場人物の心理描写が鍵になっていて、刻々と状況の変化の中でどのように心理の変化があるかが大事なところだ、と思う。
 鑓の權三重ね帷子でもおさいと權三が事実無根にもかかわらず不義密通の門で妻敵討にされてしまう、、そのプロセスの描き方にも女性心理の変化がまるで自身がその身であるかのように写実的に描かれていた。

 放蕩息子の与兵衛がどんどん堕ちて行くプロセスはせつなくて哀しく、人を殺すという極悪非道の罪を犯していながらも、その弱さ、もろさ、愚かしさをせめることは出来ても、その人を人、悪人と決めつけられない、、気がして仕方がない。

 同じ赤子で生まれていながら、何故、そんな不孝を犯してしまったのか、、その過程にこそ目をむけるべきではと芝居を見ながら、はじまったばかりの裁判員制度の事が脳裏に浮かんだ。
 それほど仁左衛門丈は与兵衛を型ばかりではなく心理の変化の襞襞まで描いていた。

 朝日新聞の記事で辺見庸氏は死刑制度に疑問を呈していた。すでに欧州では死刑制度は廃止されているらしい。私は彼の意見に大変共感する所大であった。

 もしも自分が裁判員に選ばれたら、到底死刑は選択出来そうもない、、人はなるべくして人殺しになるとは思えないら、、、

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