江東区には食糧倉庫、同潤会アパートなど幾つかの残しておきたい近代建築があったにも関わらず
なかなか上手く保存活用が出来なかった為に、見るべき近代建築が少なくなっていることもあったのか
区地域振興部 文化観光課 観光推進係は
昭和7年(1932)に東京市の「深川食堂」として建てられ、その後、職業安定所、内職補導所、福祉作業所と変遷しながら
2009年10月10日に、区の観光案内、文化発信拠点、保存をテーマにした文化的複合施設として蘇らせた。
/Users/ishigenoriko/Desktop/深川食堂 | dream imagination.html
今見てもさしてモダンとも見えない概容であるが、昭和7年当時のこの門仲界隈を想像するに、木造の家ばかりであったろうから、かなり人目を引いたと想像する。
大正時代に入ると庶民の為の施設設計が積極的に行われるようになり、丸の内や上野などに東京市が食堂を造ったのだそうだ。東京駅、上野駅に降りる人々が大いに活用したのであろう。
ここ深川は富岡八幡宮の別当永代寺の門前町として発展した庶民の町の交通拠点であった。佐賀町には倉庫業者が
おり、荷担ぎの人足の人たちの公共の食堂として大いに盛ったものと思われる。
美しいタイル張りの階段、掃き出しタイプの窓、壁から張り出してつくった、連続窓などが当時としては随分
モダンを感じさせる要素であった。
区が観光に力をいれることに、あまり好印象をもっていなかった、観光より環境!でしょう
なんて思っていたが、今日こうして先生に解説して戴きながら、近代モダン建築をリノベーションし
リユースしながら文化発信拠点にしていることは極めて稀で貴重な事と伺い、文化観光課を
見直した。 確かにこうして愛すべきふるいたてもの、国登録有形文化財として活用する方針を打ち出した事に
盛大な拍手を送りたいし、真にそのたてものとしての価値を区民につたえつつ、ここから大いに文化芸術を発信して
戴きたい。
私もここで風呂敷活用展示でもしてみようかしら?!と思った次第である。
その後、赤札堂の前をとおり、
公園脇の石像灯明台
石造燈明台 明治31年在銘
石造燈明台 明治31年在銘 境内の南東にあります。高さは839.4cm、約370cm四方の燈明台です。
日清戦争の戦勝を記念して明治28年(1895)に起工し、31年7月に竣工しました。設計者は工部大学校(現東京大学工学部)第1期生の1人である佐立七次郎です。
中は煉瓦積みになっていて、本来は螺旋階段が付けられていたと思われます。周囲には建立のために寄附した人々の名前が刻まれた石板が貼られており、市川団十郎・尾上菊五郎・市川左団次といった歌舞伎役者や魚河岸の人々など幅広い人々によって信仰されていたことがわかります。
また、もともと上に八角形の火袋があったのですが、関東大震災で倒れたようです。しかし、本体は非常にしっかりした造りになっていて大震災と空襲も乗り越えて今にいたります。
そして、数矢小学校校庭をすぎ、旧弾正橋に至。
東京都江東区富岡にある八幡堀遊歩道にかかる人道橋。元は現在の中央区宝町の楓川に架橋されていた三ツ橋のひとつ弾正橋(だんじょうばし)であり、「旧弾正橋」「元弾正橋」とも称される。
鉄を主材料として造った鉄橋としては日本最古のものと言われ、国の重要文化財に指定されている。名称は橋の西側に在する富岡八幡宮に因む。
ピンの接合部に菊の紋形の花弁装飾が施されていることも有名である。明治11年(1878年)11月に京橋区の楓川に、アメリカ人技師スクワイヤー・ウイップルの発明した形式を元に工部省赤羽分局により製作、架橋された。当時は橋幅は9.1m(5間)あったと記録に残る。架設経費は4058円。付近に島田弾正屋敷があったため、弾正橋と称された。当時、馬場先門から本所や深川を結ぶ主要路であったので、文明開化のシンボル的存在の鉄橋であった。
しかし、大正2年(1912年)の市区改正事業により、北側に新しく弾正橋が架橋されたため、「元弾正橋」と改称され、さらに大正12年(1923年)の関東大震災後の震災復興計画によって廃橋となったが、その由緒を惜しんで現在地に移設。当時、橋下は八幡堀という河川であったが、後に埋め立てられ、現在のような人道陸橋となった。
昭和52年(1977年)6月27日に国の重要文化財に指定、また平成元年(1989年)には日本ではじめて米国土木学会より「土木学会栄誉賞」が贈られた。
別当永代寺跡地
八幡橋たもとに現存する木造建築のしもたや、空襲でも燃えなかったらしい、八幡様の樹木に守られたのかも、、
心なしか、モダン館に似ている!富岡出張所。
江東区にも見るべき建築遺産は沢山ありました!!
八幡橋をわたって学校に通学する子ども達の姿がとても印象的。
国の重要文化財を毎日踏みしめて登校する生徒はそういないと思う。
この豊かな都市空間環境を大切に育んでいくのは今を生きる私たちの役目でもある。
観光という視点の中に持続可能性という環境的視点も盛り込んで戴きたい。
なかなか上手く保存活用が出来なかった為に、見るべき近代建築が少なくなっていることもあったのか
区地域振興部 文化観光課 観光推進係は
昭和7年(1932)に東京市の「深川食堂」として建てられ、その後、職業安定所、内職補導所、福祉作業所と変遷しながら
2009年10月10日に、区の観光案内、文化発信拠点、保存をテーマにした文化的複合施設として蘇らせた。
/Users/ishigenoriko/Desktop/深川食堂 | dream imagination.html
今見てもさしてモダンとも見えない概容であるが、昭和7年当時のこの門仲界隈を想像するに、木造の家ばかりであったろうから、かなり人目を引いたと想像する。
大正時代に入ると庶民の為の施設設計が積極的に行われるようになり、丸の内や上野などに東京市が食堂を造ったのだそうだ。東京駅、上野駅に降りる人々が大いに活用したのであろう。
ここ深川は富岡八幡宮の別当永代寺の門前町として発展した庶民の町の交通拠点であった。佐賀町には倉庫業者が
おり、荷担ぎの人足の人たちの公共の食堂として大いに盛ったものと思われる。
美しいタイル張りの階段、掃き出しタイプの窓、壁から張り出してつくった、連続窓などが当時としては随分
モダンを感じさせる要素であった。
区が観光に力をいれることに、あまり好印象をもっていなかった、観光より環境!でしょう
なんて思っていたが、今日こうして先生に解説して戴きながら、近代モダン建築をリノベーションし
リユースしながら文化発信拠点にしていることは極めて稀で貴重な事と伺い、文化観光課を
見直した。 確かにこうして愛すべきふるいたてもの、国登録有形文化財として活用する方針を打ち出した事に
盛大な拍手を送りたいし、真にそのたてものとしての価値を区民につたえつつ、ここから大いに文化芸術を発信して
戴きたい。
私もここで風呂敷活用展示でもしてみようかしら?!と思った次第である。
その後、赤札堂の前をとおり、
公園脇の石像灯明台
石造燈明台 明治31年在銘
石造燈明台 明治31年在銘 境内の南東にあります。高さは839.4cm、約370cm四方の燈明台です。
日清戦争の戦勝を記念して明治28年(1895)に起工し、31年7月に竣工しました。設計者は工部大学校(現東京大学工学部)第1期生の1人である佐立七次郎です。
中は煉瓦積みになっていて、本来は螺旋階段が付けられていたと思われます。周囲には建立のために寄附した人々の名前が刻まれた石板が貼られており、市川団十郎・尾上菊五郎・市川左団次といった歌舞伎役者や魚河岸の人々など幅広い人々によって信仰されていたことがわかります。
また、もともと上に八角形の火袋があったのですが、関東大震災で倒れたようです。しかし、本体は非常にしっかりした造りになっていて大震災と空襲も乗り越えて今にいたります。
そして、数矢小学校校庭をすぎ、旧弾正橋に至。
東京都江東区富岡にある八幡堀遊歩道にかかる人道橋。元は現在の中央区宝町の楓川に架橋されていた三ツ橋のひとつ弾正橋(だんじょうばし)であり、「旧弾正橋」「元弾正橋」とも称される。
鉄を主材料として造った鉄橋としては日本最古のものと言われ、国の重要文化財に指定されている。名称は橋の西側に在する富岡八幡宮に因む。
ピンの接合部に菊の紋形の花弁装飾が施されていることも有名である。明治11年(1878年)11月に京橋区の楓川に、アメリカ人技師スクワイヤー・ウイップルの発明した形式を元に工部省赤羽分局により製作、架橋された。当時は橋幅は9.1m(5間)あったと記録に残る。架設経費は4058円。付近に島田弾正屋敷があったため、弾正橋と称された。当時、馬場先門から本所や深川を結ぶ主要路であったので、文明開化のシンボル的存在の鉄橋であった。
しかし、大正2年(1912年)の市区改正事業により、北側に新しく弾正橋が架橋されたため、「元弾正橋」と改称され、さらに大正12年(1923年)の関東大震災後の震災復興計画によって廃橋となったが、その由緒を惜しんで現在地に移設。当時、橋下は八幡堀という河川であったが、後に埋め立てられ、現在のような人道陸橋となった。
昭和52年(1977年)6月27日に国の重要文化財に指定、また平成元年(1989年)には日本ではじめて米国土木学会より「土木学会栄誉賞」が贈られた。
別当永代寺跡地
八幡橋たもとに現存する木造建築のしもたや、空襲でも燃えなかったらしい、八幡様の樹木に守られたのかも、、
心なしか、モダン館に似ている!富岡出張所。
江東区にも見るべき建築遺産は沢山ありました!!
八幡橋をわたって学校に通学する子ども達の姿がとても印象的。
国の重要文化財を毎日踏みしめて登校する生徒はそういないと思う。
この豊かな都市空間環境を大切に育んでいくのは今を生きる私たちの役目でもある。
観光という視点の中に持続可能性という環境的視点も盛り込んで戴きたい。