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「近代建築が都市空間に果たす役割と、その実現の為に我々に出来ることは何か」
はじめに
一章 愛すべき近代建築群「建築の何が喜びや感動をよびさますのか」
二章 近代建築が都市空間で果たす役割・保全と活用
おわりに
はじめに
今回、「都市空間研究a」を受講して、俄に生家岩手県・花巻の家の事が気になりだした。
建てられた時期からするとコンクリート作りの「蔵」 (写真1)は大正末期なので定義的には近代建築になる。母屋は戦後直ぐの昭和22年~23年のものなので現段階では、近代建築の範疇にはいらないが、重要文化財の条件としての築後50年は遙かに超えている。
大豆加工業を営んでいる実家の母屋は近年、あまりお目にかからない「店舗併用住宅」である。
見かけは二階建てだが、構造的には三階になっている。
一階の道路に面した右半分は帳場、後半部分は常居、仏間、座敷、厠、その間に坪庭があり、コンクリート作りの蔵が二棟ある。手前が家具、調度、衣類などの蔵で後ろ側が豆蔵になっていた。この蔵が第二次世界大戦の猛火の中を無事にくぐり抜けることが出来たのは壁一面に自家製の味噌を塗りたくったからだと何度も祖母に聞かされた。
左半分は工場になっており、ボイラー、豆腐工場、納豆工場、納豆室、もやし室が続いていた。
中二階には、住み込みで働いている男の人たち、女の人たちが、寝起きを共にしていた。
同じく二階に子供らの勉強部屋と祖母の部屋があった。
住み込みで働いている人の他に叔父の家族、兄弟姉妹でゆうに20人近い大家族であった。
三階はひろく、10畳が二つ、8畳が一つの座敷があり、襖を取り払うと「お振る舞い」が出来るようになっており、叔父達はここで婚礼披露をした。屋根は瓦葺き、道路側に面した二階は少し出窓になっており、バルコニーとまでは言わないが、凝った作りの木製手摺りが付いていた。
しかし、現在は残念なことに兄夫婦はこの家には住まず、かつてはおからなどの廃棄物を餌にして飼っていた、豚や鶏小屋のあった所に、新建材の細長い家を建てて、息子家族と二世帯同居をしている。
便利さの点で遙かに暮らしやすいのだろう。
かくして味わい深い木造建築は淘汰される、その現実を目の辺りにして、心中複雑ではある。が、工場はそのまま、納豆釜も納豆室も使用している。
単にノスタルジーとだけは言えない、何か、私たち日本人が戦後、経済大国になっていく過程で見失ってきたものの一つにこの住宅に対する無関心な流され方があるような気がしてしかたがない。
幼年期を過ごした昭和30年代、生家のあった、花巻は活気があった。様々な人々が商家併用住宅で生業を営んでいた。
桶屋、ブリキ屋、鍛冶屋、下駄屋、味噌屋、醤油屋、仏壇屋、魚屋、枚挙にいとまの無いほどのお店が生き生きと商いをしていたのだ。
が今は無惨にもその名残は微塵もない、通りを歩く人すら稀だ。
これが日本中のどの地方都市にも起こっている現実、のような気がする。
もう一つ残念な例を挙げておきたい。
同じく実家のある花巻の建造物だが、かつて文化の殿堂としてその偉容を誇っていた
「花巻公民館」(写真2) がなんと、今年3月末に取り壊されてしまっていたのだ。
この写真は、昨年、環境文化論「花巻」のスクーリングに行った際、宮沢賢治ゆかりの地他をくまなく見て回った折に、当時、花巻には珍しい洋風の香を放っていた公民館のその後を確かめようと立ち寄った折に写した。
今回記憶に残る建築として、是非取り上げておきたく、花巻市役所に問い合わせたら残念ながら上記の仕儀となっていた。戦後の復興著しい時代に文化、芸術を推進すべく西洋風のモダンな外観になったものと思われる。
帰省する度毎にこうして見るべきものが失われていくようで残念でたまらない。
宮沢賢治さん頼みだけでいいのだろうか!各商家はその商うものによって、特徴がありみがきこんで黒光りするようなウットリするような呉服屋もあった。つかっている材の持つ美しさもさることながら、それを自在に作り上げる職人達の意気地、誇りもそこにこめられていたろうし、愛着をもって、大切にすみ成していた人々が大勢賑やかに、暮らしてもいたのだ。家とは単なる入れ物なのではない、そこに暮らす人がおり、互いに影響しあい、コミュニィティ空間を形成してこそのものなのではないだろうか。
今回三日間の授業で午後から実際に、現地見学をしてみてさらにその思いは深まった。
思わずそのものに心動かされ、引き寄せられる良い物、美しいもの、がまだまだ、残っていた。それらを今回つぶさに見て回れた事は実に幸運であり、大いなる喜びであった。
だが、それだけで終わらせては勿体ない。
十二分に現在保全され機能している建造物の背後には幾多のそれを保全、保存し、今に活かそうとする熱情があったればこそだと思う。
次章で、三日間の見学で殊の外、心惹かれた建物、どこにどうして魅力を感じたのか、そしてそれらが、都市空間においてどのような役割を果たしているのか、故郷花巻のように残念な結果に終わらせないために今を生きる私たちに出来ることは何かを模索してみたい。
第一章 愛すべき近代建築群 「建築の何が喜びや感動をよびさますのか」
番外になるが、どうしても「歌舞伎座」(写真3) を上げたい。歌舞伎座さよなら公演と銘打ち、一年余に亘り興業してきた間、どれだけ足繁く通った事だろう。
古典から新作まであまたの作品が毎月、熱烈に繰り広げられた。役者の魅力もさることながら、この歌舞伎座という建物で上演されるからこその熱狂振りなのだと直感する。国立劇場でもなければ、明治座でも、演舞場でもない、歌舞伎座だからこその味わいがあるのだ。
1889年(明治22年)の第一期の外観は洋風であったようだが、第二期からは帝国劇場に対抗して和風の外観とした。その外観が今日まで続いたわけである。
地下食堂、一階二階三階席の売店、桟敷席、4階の一幕見席、全館赤絨毯が敷き詰められ、一階の玄関を入ると朱漆で塗られたつややかな円柱が迎えてくれる。入り組んだ地下通路の奥には楽屋が、最上階には床山さんの部屋があった。建物そのものがすでに呼吸をしているような、そんな感じのする空間で肌馴染みの良さを観客の誰もが感じていたと思う。
2005年から浮上した建て替え計画は様々な議論を重ね随分と保存の要望も出されたようだが、費用の面で結局は高層のオフィスビルを併設した劇場へと生まれ変わる事になる。実に惜しい。リニュアルさせながら継続使用をしている例を見聞きすると
可能性はあったのに残念だ。こういう事に税金を使っても私なら惜しくはないと思うが、文化予算はどんどん仕分けられているようでもあり、その傾向に対して、芸術立国を目指す我が校としては世に発信すべき事があるのではなかろうか。
いよいよ、スクーリングで現地観察した建造物に移ろう。
上野と言えば、東京国立博物館はかつての職場でもあり、愛着はひとしおである。
私が働き始めたのは昭和47年(1972)、東洋館 が出来て4年目頃。その東洋館一階で美術書コーナーを担当していた。今から想像出来ないほど全く暇な職場だったが、あれよあれよという間に、世の中は経済効率優先社会になり、博物館も独立行政法人となり、おっとりしてはいられない状況になっていった。
建築に関しては、殊の外ネオバロック様式の建物「表慶館」 は一目を惹く。入り口を入って直ぐ、美しいタイル張りの床が出迎えてくれる、天井に目をやると、ドームの中心から外光が注ぎ込んできて祝福されているかのような、一瞬教会の内部にいるような心持ちになる。
流線を描く階段も美しい。全体がどこまでも重厚であり、隅々まで西洋建築の粋をあつめた宮廷建築そのものである。片山東熊が赤坂離宮と同時期に設計したものと聞く。
イギリス派の辰野金吾のように留学して大學に学んでおらず、実地見学と建築書から独学で仏蘭西建築を学んだのだとか。その片山の最後の仕事となる赤坂離宮は世界に於ける最後のヨーロッパ系宮廷建築となった。
その赤坂離宮の報告をうけた明治天皇の一言が深く片山の心を傷つけた。それは、ひどく痛ましいエピソードではある。ショックを受けた片山は長らく床に伏し、大正4年には辞官し、その二年後に没したという。片山亡き後は、幕末から習得を重ねてきた西洋建築のデザインと技術と関連美術の集大成ともいえるような宮殿建築はやがて消えていく。
丸ごと西洋建築の表慶館のとなりに、和風が混在したような「本館」 がある。
それもそのはず、「日本趣味を基調とする東洋式にすること」「勾配屋根を必要とすること」という条件を掲げた設計競技に応募した渡辺仁は、鉄骨鉄筋コンクリート造の建物に和風の瓦葺屋根をのせ、開口部、手摺り、壁面に日本風のシルエット、プロポーションを採用する外観意匠で応えている。建物の意匠は帝冠様式とも呼ばれるが、こうした意匠を生んだ背景には、昭和初期のナショナリズムの高揚などの影響があったと考えられる。
2001年に「旧東京帝室博物館本館」の名称で重要文化財に指定された。
非常に安定感があり、見るものをして安心させる。 内部の意匠もおだやかでおちつきがある。正面玄関入って直ぐの大階段の両脇のステンドグラスは和風とも洋風とも名ぶしがたい美しさがある。
インドネシアのトンコナンと呼ばれる 棟持柱のある船形屋根の高床式家屋を思わせる反りのある屋根には鬼瓦が全部で33基あり、どれも違う顔をしている。陰陽道の方位学:鬼門の考えが反映されている。車寄せ正面は方位では南となり朱雀を顕す瓦が配されている。又西には白虎、東には青龍が配されているが、北の方角は本館の建物側になるので玄武を顕す瓦はない。
江戸時代、鬼門封じのため、天海上人の進言により、天台宗・東叡山「寛永寺」円頓院が造営されたというからその跡地に建った事もあり、本館の破風に取り付けたものかと想像する次第である。
現在ミュージアムショップのある地下一階は出来た当初は下足になっていて下駄をはいてきた来館者がスリッパに履き替えるようになっていた痕跡があった。しばらく営繕課のおじさん達や衛士さんたちの卓球場になっていた。
そのうち、アメリカやフランスの例にならいミュージアムショップを創ろうと、いわゆる「売店」ではないメトロポリタンのようなミュージアムショップをめざしたらしい。
本館は「ロ」の字状に展示室が配置されている。正面玄関からは地下だが、裏側からだと一階になる部分に様々な修理室や営繕の部屋があり、中庭では一時、ウサギを飼っていた事もあった。
次ぎに初日に訪れた日本橋界隈に移りたい。
流石に帝都東京の中心街だっただけあり、明治期の近代建築が荘厳さを誇示していた。
日本建築界の立役者と称される、辰野金吾による日本銀行本店は城塞を思わせる堅牢な石造三階建て、異国にきたかのような風情を醸し出してあたりを払っている様子は設計者の鼻息を偲ばせる。
日本橋、常磐橋、三菱倉庫本社、江戸橋と魅力的な建築物だらけなのだが、東京に来て初めてアルバイトをさせてもらった三越本店 を取り上げたい。
三越は明治37年に西欧式のデパートメントスタイルを採用、大正4年(1915)には建築家・横河民輔(横河工務所)設計による鉄骨5階建ての新店舗を完成させた。が、関東大震災で以前の店舗が焼けたため、横河の設計により再建(昭和2年:1915)されたのが現在の店舗。三越の建物外部のデザインは、大正期に竣工した先代の店舗のルネサンス調を継承したものだが、建物内の中央吹き抜けや細部のデザインは、この当時全盛を極めていたアールデコが用いられている。待合室はロココ調なのだが、妙に庶民的な風情があり、昭和の香りがする。
田舎にいるときから、「三越さん」はデパートの代名詞だった。アルバイトも三越さんならと許された位だ。クリスマスシーズンにレコード売り場で二週間、符牒で会話するお姉さん達を眩しく感じながら働いた。ここにも、東京国立博物館と同じ臭いがあった。働く人は鷹揚で職場に誇りを持っていた。来店する人にも三越さんをご贔屓にしている人は未だ多いと思う。
延宝元年(1673)8月、江戸本町1丁目(現日本銀行所在地辺り)に呉服店「越後屋」が開店。間口9尺(2.7m)の小さな借り店舗から、三越330年の歴史を経る。
「熈代勝覧」絵巻(原画はベルリン国立アジア美術館に所蔵) は、文化2年(1805年)頃の日本橋から今川橋までの大通り(現在の中央通り)を東側から俯瞰し、江戸時代の町人文化を克明に描いた貴重な絵巻物(作者不明)で、「熈代勝覧」とは、「熈(かがや)ける御代の勝(すぐ)れたる景観」という意味。 三井越後屋は、江戸の中心部の名所として「熈代勝覧」の中でも最大の大店として描かれている。
上野の博物館といい、三越本店といい、建物そのものが人を育てると言うこともあるのだと言うことを感じる。
3日目に訪れた横浜山手の西洋館群は実に良く保存され、広く多くの人々に公開、活用されている事は今後のあり方として大いに学ぶべきものがあると感じた。
いくつになってもこのような西洋の近代建築に触れると、少女時代に惑溺した「若草物語」「赤毛のアン」「あしながおじさん」などが想起され、物語の世界の人のような心地になる。山手234番館(写真19.20.21)は、4世帯用のアパートとして建てられたたものだと
言うことをスタッフの方が説明して下さり、その明かしとして入り口ドアが4つあることを示して下さった。広く明るい上げ下げ窓から室内を望む時、かつての日本人達は随分と自分たちと違う生活様式にウットリしたのではないだろうか。今でさえも光にあふれ、あたたかい暖炉があり、倚子とテーブルが望まれる室内は夢のようだ。
そんな気分を満喫しょう!ということになり、エリスマン邸の昔の厨房部分の眺めの良い喫茶店でティータイムをとった。
エリスマン邸は、生糸貿易商社シーベルヘグナー商会の横浜支配人として活躍した、スイス生まれのフリッツ・エリスマン氏の邸宅として、大正14(1925)年から15(1926)年にかけて山手町127番地に建てられた。設計は、「現代建築の父」といわれるチェコ出身の建築家アントニン・レーモンド。木造2階建て、和館つきで建築面積は約81坪。屋根はスレート葺、階上は下見板張り、階下は竪羽目張りの白亜の洋館。煙突、ベランダ、屋根窓、上げ下げ窓、鎧戸といった異人館的要素をもちながら、軒の水平線の強調など、設計者レーモンドの師匠である世界的建築家F.L.ライトの影響も見られる。昭和57(1982)年マンション建築のため解体されたが、平成2(1990)年元町公園内の現在地(旧山手居留地81番地)に再現される。1階には暖炉のある応接室、居間兼食堂、庭を眺めるサンルームがある。椅子やテーブルなどの家具は、レーモンドが設計したもの。
聞けば、銀座の「教分館」は同じくレーモンドの設計なのだとか、銀座通り沿いからみるビルディングはなんの変哲もないなんて間口の狭い本屋さんだと思ってしまうが、どうしてどうして、松屋通り側にある回転扉や、階段、各階のエレベーターホールなど近代建築を彷彿とさせるとおもっていたら、1933(昭和8)年12月に完成したものであった。ここには子どもの本の店「ナルニア国」が6階にあり、ブックトークの会を開催して、子どもの成長に欠かせない本の重要性を知らせる役目や、様々なイベントを開催している。そのナルニア国への行き来に、いいなあこの建物と感じていた。
二章 近代建築が都市空間で果たす役割・保全と活用
横浜山手の西洋館は「(財)横浜市緑の協会」が指定管理者として運営管理を担っていると聞く。このエリスマン邸の地下部分にはホールもあり、一般にも貸し出していて、絵本の読みきかせや音楽イベントなど、盛んに活用されているようだ。スタッフの皆さんはみなとても親切で保存・保全の活動の意義も十二分に理解をしておられる様子だった。
エリスマン邸のトイレには小さい人の為に座高を調節する用具も用意されており、流石女性ならではのきめ細かい心遣いだなあと感じた。小さい人から大きい人までを視野にいれている愛を感じた。
かつて東京国立博物館で働く、衛士、監視、営繕、修理室、電気室の人々は皆、長年、ここに住み着くようにして勤務する形態だったこともあり、館に対する愛着は生半可なものではなかった。ある意味で家族のような親密感があったともいえる。そんな時代の博物館と、今の博物館とでは全く異なるであろうが、こうして訪れて見ると、表慶館も本館も良く手入れが行き届き、その魅力、意義を広く普及啓発活動もしており、現代に活かしている事が十分にみてとれた。時代の推移と共に、失ったものもあっただろうが、これからも、可能な限りこの建物を保全活用することで、単なる入れ物としてではない、都市空間に於ける芸術空間として生き続けて欲しい。
冒頭で言及したように。建物は単に入れ物ではない、建物そのものがそこにかざりのように置かれているのではなく、活かされてこそのものだと、この三日間の現地見学でさらに思いを強くした。 今回見学した建物はいずれも都市空間にあり、機能しているものであった。そこには確実にコミュニィティが醸し出される。(デンマークの都市再回帰計画は近隣住民同士のコミュニケーション重視になっているそうだ。)
そしてそれらが活かされるにはそれなりの努力がいるということ、それも一個人で出来る物ではなく、様々な立場の人々の繋がりがあって実現するものなのだ。
現在私の住む東京都江東区の「深川東京モダン館」などはある意味好事例と言える。
江東区の観光・文化発信拠点 として国登録有形文化財建造物「旧東京市深川食堂」をリノベーションした施設で、江東区全域を対象とした観光案内スペースとして、また、新たな文化の発信スペースとして活用されている。
江東区には食糧倉庫、同潤会アパートなど幾つかの残しておきたい近代建築があったにも関わらず、なかなか上手く保存活用が出来なかった為に、見るべき近代建築が少なくなっていることもあったのか、区地域振興部 文化観光課 観光推進係は
2009年10月10日に、区の観光案内、文化発信拠点、保存をテーマにした文化的複合施設として蘇らせた。
今見てもさしてモダンとも見えない概容であるが、昭和7年当時のこの門仲界隈を想像するに、木造の家ばかりであったろうから、かなり人目を引いたと想像する。
ここ深川は富岡八幡宮の別当永代寺の門前町として発展した庶民の町の交通拠点であった。佐賀町には倉庫業者がおり、荷担ぎの人足の人たちの公共の食堂として大いに盛ったものと思われる。
美しいタイル張りの階段、掃き出しタイプの窓、壁から張り出してつくった、連続窓などが当時としては随分、モダンを感じさせる要素であった。
区が観光に力をいれることに、あまり好印象をもっていなかった、観光より環境!ではなんて思っていたが、近代モダン建築をリノベーションし、リユースしながら文化発信拠点にしていることは極めて稀で貴重な事と聞き、文化観光課を見直した。
こうして愛すべきふるいたてもの、国登録有形文化財として活用する方針を打ち出した事に、盛大な拍手を送りたいし、真にそのたてものとしての価値を区民に伝えつつ、ここから大いに文化芸術を発信して戴きたい。 その一助として区民として大いにこの場を活用することだと感じ、近々コーディネーターの井村さんに企画の提案をしに行こうと思っている。
おわりに
2010年5月30日にこの博物館裏庭茶室「春草盧」で茶話会を開催した。
裏庭には茶室が五棟あり、どれも一般に貸し出しをしている。その中でも殊の外野趣にあふれているのが「春草盧」 である。
緑が一段と濃いこの季節は外で野点風に立礼が一段と良い。自然との一体感がいっそう感じられ、利休が言うところの茶の原点に立ち返れるような気がする。
「茶の湯とはただ湯を沸かし茶を点てて飲むばかりなる事と知るべし」と利休百首にはある。本来お茶とはそう言うものだったのだと思う。春には春の花を愛でて床に置き、鳥の声や風の音、梢のそよぎに耳を澄まし、ただ一服の茶を共にする、その静寂の中での語らいがご馳走でもあろう。華美でなくともよい、必要最低限のものがあり、大きな空間でなくとも広い宇宙を感じる事は出来る、茶室こそはミクロコスモスの中にマクロコスモスを実相させてくれる稀有な空間でもある。
文明開化と共に嵐のように雪崩をうって、洋風建築に席巻される前の日本の建築はこの日本の気候風土に叶い、日本の中で調達可能なものを材にして、建物が建てられていた。その長い歴史の中で築かれた建築技法は、世界に誇るべきものがあったと思う。しかしこの間の西洋建築への傾倒の中で殆どかつての日本建築は見放される傾向にあり、日本中どこにいっても新建材で似たり寄ったりの呼吸しにくい家がたてられるようになり一時はシックハウスやシックスクールで騒がれもした。近年は環境面からもエコ住宅という視点が以前よりは注目されるようになった、とは思う。がまだまだ不十分だ。「天然住宅」というブランドを打ち出している建築家集団もいるが、まだメジャーではない。彼らは日本の仕材で日本の技術で家を建てるプロを養成することにも熱心だ。日本の材を使うことで荒れている山も蘇り持続可能性を取り戻す一助にもなる。
そのように循環する仕材を活かし、人にも地球にもその生を全うするにふさわしい建物造りにシフトして欲しいと切に願う。
そのような願いをもっていながら夭折してしまった建築家の言葉を最後に引用して終わりとしたい。大正期の青年建築家後藤慶二が①「過去とも将来とも付かぬ対話」(大正5年)②「建築を談じた後に」(大正6年)に記した文章である。
建築家は混沌たる宇宙の大本の中に其意志を感じ、そこに第二の自然を創造して人間に提供し、人間の住むに適した世界を創造する指命を有するのです。
中略
偉大なる自然の力を感得し不可思議なる人間の生を洞観して知識と理解との上に営まれる真の生活の内に自己を拡充し、、、、、覚醒的の思想と精神とによって建築がなされるときが真建築の生まれる時です」①
「建築家の心が神の心に一致した時始めて真の建築が出来る」②
参考文献
志村直愛・横浜家具を通して文化を考える会編「建築散歩24コース 東京・横浜近代編」山川出版社 2001年
藤森照信「日本の近代建築(上)-幕末・明治篇」岩波書店 1993年
藤森照信「日本の近代建築(下)-大正・昭和篇」岩波書店 1993年
藤森照信文・増田彰久写真「看板建築」三省堂1994年
井上章一「伊勢神宮魅惑の日本建築」講談社 2009年
神宮司庁「伊勢」神宮司庁 2008年
小澤弘・小林忠「活気にあふれた江戸の町『熈代勝覧』の日本橋」小学館 2006年
財団法人横浜市緑の協会「山手の丘の物語」財団法人横浜緑の協会 2009年
財団法人横浜市緑の協会「山手西洋館」財団法人横浜市緑の協会2010年
「近代建築が都市空間に果たす役割と、その実現の為に我々に出来ることは何か」
はじめに
一章 愛すべき近代建築群「建築の何が喜びや感動をよびさますのか」
二章 近代建築が都市空間で果たす役割・保全と活用
おわりに
はじめに
今回、「都市空間研究a」を受講して、俄に生家岩手県・花巻の家の事が気になりだした。
建てられた時期からするとコンクリート作りの「蔵」 (写真1)は大正末期なので定義的には近代建築になる。母屋は戦後直ぐの昭和22年~23年のものなので現段階では、近代建築の範疇にはいらないが、重要文化財の条件としての築後50年は遙かに超えている。
大豆加工業を営んでいる実家の母屋は近年、あまりお目にかからない「店舗併用住宅」である。
見かけは二階建てだが、構造的には三階になっている。
一階の道路に面した右半分は帳場、後半部分は常居、仏間、座敷、厠、その間に坪庭があり、コンクリート作りの蔵が二棟ある。手前が家具、調度、衣類などの蔵で後ろ側が豆蔵になっていた。この蔵が第二次世界大戦の猛火の中を無事にくぐり抜けることが出来たのは壁一面に自家製の味噌を塗りたくったからだと何度も祖母に聞かされた。
左半分は工場になっており、ボイラー、豆腐工場、納豆工場、納豆室、もやし室が続いていた。
中二階には、住み込みで働いている男の人たち、女の人たちが、寝起きを共にしていた。
同じく二階に子供らの勉強部屋と祖母の部屋があった。
住み込みで働いている人の他に叔父の家族、兄弟姉妹でゆうに20人近い大家族であった。
三階はひろく、10畳が二つ、8畳が一つの座敷があり、襖を取り払うと「お振る舞い」が出来るようになっており、叔父達はここで婚礼披露をした。屋根は瓦葺き、道路側に面した二階は少し出窓になっており、バルコニーとまでは言わないが、凝った作りの木製手摺りが付いていた。
しかし、現在は残念なことに兄夫婦はこの家には住まず、かつてはおからなどの廃棄物を餌にして飼っていた、豚や鶏小屋のあった所に、新建材の細長い家を建てて、息子家族と二世帯同居をしている。
便利さの点で遙かに暮らしやすいのだろう。
かくして味わい深い木造建築は淘汰される、その現実を目の辺りにして、心中複雑ではある。が、工場はそのまま、納豆釜も納豆室も使用している。
単にノスタルジーとだけは言えない、何か、私たち日本人が戦後、経済大国になっていく過程で見失ってきたものの一つにこの住宅に対する無関心な流され方があるような気がしてしかたがない。
幼年期を過ごした昭和30年代、生家のあった、花巻は活気があった。様々な人々が商家併用住宅で生業を営んでいた。
桶屋、ブリキ屋、鍛冶屋、下駄屋、味噌屋、醤油屋、仏壇屋、魚屋、枚挙にいとまの無いほどのお店が生き生きと商いをしていたのだ。
が今は無惨にもその名残は微塵もない、通りを歩く人すら稀だ。
これが日本中のどの地方都市にも起こっている現実、のような気がする。
もう一つ残念な例を挙げておきたい。
同じく実家のある花巻の建造物だが、かつて文化の殿堂としてその偉容を誇っていた
「花巻公民館」(写真2) がなんと、今年3月末に取り壊されてしまっていたのだ。
この写真は、昨年、環境文化論「花巻」のスクーリングに行った際、宮沢賢治ゆかりの地他をくまなく見て回った折に、当時、花巻には珍しい洋風の香を放っていた公民館のその後を確かめようと立ち寄った折に写した。
今回記憶に残る建築として、是非取り上げておきたく、花巻市役所に問い合わせたら残念ながら上記の仕儀となっていた。戦後の復興著しい時代に文化、芸術を推進すべく西洋風のモダンな外観になったものと思われる。
帰省する度毎にこうして見るべきものが失われていくようで残念でたまらない。
宮沢賢治さん頼みだけでいいのだろうか!各商家はその商うものによって、特徴がありみがきこんで黒光りするようなウットリするような呉服屋もあった。つかっている材の持つ美しさもさることながら、それを自在に作り上げる職人達の意気地、誇りもそこにこめられていたろうし、愛着をもって、大切にすみ成していた人々が大勢賑やかに、暮らしてもいたのだ。家とは単なる入れ物なのではない、そこに暮らす人がおり、互いに影響しあい、コミュニィティ空間を形成してこそのものなのではないだろうか。
今回三日間の授業で午後から実際に、現地見学をしてみてさらにその思いは深まった。
思わずそのものに心動かされ、引き寄せられる良い物、美しいもの、がまだまだ、残っていた。それらを今回つぶさに見て回れた事は実に幸運であり、大いなる喜びであった。
だが、それだけで終わらせては勿体ない。
十二分に現在保全され機能している建造物の背後には幾多のそれを保全、保存し、今に活かそうとする熱情があったればこそだと思う。
次章で、三日間の見学で殊の外、心惹かれた建物、どこにどうして魅力を感じたのか、そしてそれらが、都市空間においてどのような役割を果たしているのか、故郷花巻のように残念な結果に終わらせないために今を生きる私たちに出来ることは何かを模索してみたい。
第一章 愛すべき近代建築群 「建築の何が喜びや感動をよびさますのか」
番外になるが、どうしても「歌舞伎座」(写真3) を上げたい。歌舞伎座さよなら公演と銘打ち、一年余に亘り興業してきた間、どれだけ足繁く通った事だろう。
古典から新作まであまたの作品が毎月、熱烈に繰り広げられた。役者の魅力もさることながら、この歌舞伎座という建物で上演されるからこその熱狂振りなのだと直感する。国立劇場でもなければ、明治座でも、演舞場でもない、歌舞伎座だからこその味わいがあるのだ。
1889年(明治22年)の第一期の外観は洋風であったようだが、第二期からは帝国劇場に対抗して和風の外観とした。その外観が今日まで続いたわけである。
地下食堂、一階二階三階席の売店、桟敷席、4階の一幕見席、全館赤絨毯が敷き詰められ、一階の玄関を入ると朱漆で塗られたつややかな円柱が迎えてくれる。入り組んだ地下通路の奥には楽屋が、最上階には床山さんの部屋があった。建物そのものがすでに呼吸をしているような、そんな感じのする空間で肌馴染みの良さを観客の誰もが感じていたと思う。
2005年から浮上した建て替え計画は様々な議論を重ね随分と保存の要望も出されたようだが、費用の面で結局は高層のオフィスビルを併設した劇場へと生まれ変わる事になる。実に惜しい。リニュアルさせながら継続使用をしている例を見聞きすると
可能性はあったのに残念だ。こういう事に税金を使っても私なら惜しくはないと思うが、文化予算はどんどん仕分けられているようでもあり、その傾向に対して、芸術立国を目指す我が校としては世に発信すべき事があるのではなかろうか。
いよいよ、スクーリングで現地観察した建造物に移ろう。
上野と言えば、東京国立博物館はかつての職場でもあり、愛着はひとしおである。
私が働き始めたのは昭和47年(1972)、東洋館 が出来て4年目頃。その東洋館一階で美術書コーナーを担当していた。今から想像出来ないほど全く暇な職場だったが、あれよあれよという間に、世の中は経済効率優先社会になり、博物館も独立行政法人となり、おっとりしてはいられない状況になっていった。
建築に関しては、殊の外ネオバロック様式の建物「表慶館」 は一目を惹く。入り口を入って直ぐ、美しいタイル張りの床が出迎えてくれる、天井に目をやると、ドームの中心から外光が注ぎ込んできて祝福されているかのような、一瞬教会の内部にいるような心持ちになる。
流線を描く階段も美しい。全体がどこまでも重厚であり、隅々まで西洋建築の粋をあつめた宮廷建築そのものである。片山東熊が赤坂離宮と同時期に設計したものと聞く。
イギリス派の辰野金吾のように留学して大學に学んでおらず、実地見学と建築書から独学で仏蘭西建築を学んだのだとか。その片山の最後の仕事となる赤坂離宮は世界に於ける最後のヨーロッパ系宮廷建築となった。
その赤坂離宮の報告をうけた明治天皇の一言が深く片山の心を傷つけた。それは、ひどく痛ましいエピソードではある。ショックを受けた片山は長らく床に伏し、大正4年には辞官し、その二年後に没したという。片山亡き後は、幕末から習得を重ねてきた西洋建築のデザインと技術と関連美術の集大成ともいえるような宮殿建築はやがて消えていく。
丸ごと西洋建築の表慶館のとなりに、和風が混在したような「本館」 がある。
それもそのはず、「日本趣味を基調とする東洋式にすること」「勾配屋根を必要とすること」という条件を掲げた設計競技に応募した渡辺仁は、鉄骨鉄筋コンクリート造の建物に和風の瓦葺屋根をのせ、開口部、手摺り、壁面に日本風のシルエット、プロポーションを採用する外観意匠で応えている。建物の意匠は帝冠様式とも呼ばれるが、こうした意匠を生んだ背景には、昭和初期のナショナリズムの高揚などの影響があったと考えられる。
2001年に「旧東京帝室博物館本館」の名称で重要文化財に指定された。
非常に安定感があり、見るものをして安心させる。 内部の意匠もおだやかでおちつきがある。正面玄関入って直ぐの大階段の両脇のステンドグラスは和風とも洋風とも名ぶしがたい美しさがある。
インドネシアのトンコナンと呼ばれる 棟持柱のある船形屋根の高床式家屋を思わせる反りのある屋根には鬼瓦が全部で33基あり、どれも違う顔をしている。陰陽道の方位学:鬼門の考えが反映されている。車寄せ正面は方位では南となり朱雀を顕す瓦が配されている。又西には白虎、東には青龍が配されているが、北の方角は本館の建物側になるので玄武を顕す瓦はない。
江戸時代、鬼門封じのため、天海上人の進言により、天台宗・東叡山「寛永寺」円頓院が造営されたというからその跡地に建った事もあり、本館の破風に取り付けたものかと想像する次第である。
現在ミュージアムショップのある地下一階は出来た当初は下足になっていて下駄をはいてきた来館者がスリッパに履き替えるようになっていた痕跡があった。しばらく営繕課のおじさん達や衛士さんたちの卓球場になっていた。
そのうち、アメリカやフランスの例にならいミュージアムショップを創ろうと、いわゆる「売店」ではないメトロポリタンのようなミュージアムショップをめざしたらしい。
本館は「ロ」の字状に展示室が配置されている。正面玄関からは地下だが、裏側からだと一階になる部分に様々な修理室や営繕の部屋があり、中庭では一時、ウサギを飼っていた事もあった。
次ぎに初日に訪れた日本橋界隈に移りたい。
流石に帝都東京の中心街だっただけあり、明治期の近代建築が荘厳さを誇示していた。
日本建築界の立役者と称される、辰野金吾による日本銀行本店は城塞を思わせる堅牢な石造三階建て、異国にきたかのような風情を醸し出してあたりを払っている様子は設計者の鼻息を偲ばせる。
日本橋、常磐橋、三菱倉庫本社、江戸橋と魅力的な建築物だらけなのだが、東京に来て初めてアルバイトをさせてもらった三越本店 を取り上げたい。
三越は明治37年に西欧式のデパートメントスタイルを採用、大正4年(1915)には建築家・横河民輔(横河工務所)設計による鉄骨5階建ての新店舗を完成させた。が、関東大震災で以前の店舗が焼けたため、横河の設計により再建(昭和2年:1915)されたのが現在の店舗。三越の建物外部のデザインは、大正期に竣工した先代の店舗のルネサンス調を継承したものだが、建物内の中央吹き抜けや細部のデザインは、この当時全盛を極めていたアールデコが用いられている。待合室はロココ調なのだが、妙に庶民的な風情があり、昭和の香りがする。
田舎にいるときから、「三越さん」はデパートの代名詞だった。アルバイトも三越さんならと許された位だ。クリスマスシーズンにレコード売り場で二週間、符牒で会話するお姉さん達を眩しく感じながら働いた。ここにも、東京国立博物館と同じ臭いがあった。働く人は鷹揚で職場に誇りを持っていた。来店する人にも三越さんをご贔屓にしている人は未だ多いと思う。
延宝元年(1673)8月、江戸本町1丁目(現日本銀行所在地辺り)に呉服店「越後屋」が開店。間口9尺(2.7m)の小さな借り店舗から、三越330年の歴史を経る。
「熈代勝覧」絵巻(原画はベルリン国立アジア美術館に所蔵) は、文化2年(1805年)頃の日本橋から今川橋までの大通り(現在の中央通り)を東側から俯瞰し、江戸時代の町人文化を克明に描いた貴重な絵巻物(作者不明)で、「熈代勝覧」とは、「熈(かがや)ける御代の勝(すぐ)れたる景観」という意味。 三井越後屋は、江戸の中心部の名所として「熈代勝覧」の中でも最大の大店として描かれている。
上野の博物館といい、三越本店といい、建物そのものが人を育てると言うこともあるのだと言うことを感じる。
3日目に訪れた横浜山手の西洋館群は実に良く保存され、広く多くの人々に公開、活用されている事は今後のあり方として大いに学ぶべきものがあると感じた。
いくつになってもこのような西洋の近代建築に触れると、少女時代に惑溺した「若草物語」「赤毛のアン」「あしながおじさん」などが想起され、物語の世界の人のような心地になる。山手234番館(写真19.20.21)は、4世帯用のアパートとして建てられたたものだと
言うことをスタッフの方が説明して下さり、その明かしとして入り口ドアが4つあることを示して下さった。広く明るい上げ下げ窓から室内を望む時、かつての日本人達は随分と自分たちと違う生活様式にウットリしたのではないだろうか。今でさえも光にあふれ、あたたかい暖炉があり、倚子とテーブルが望まれる室内は夢のようだ。
そんな気分を満喫しょう!ということになり、エリスマン邸の昔の厨房部分の眺めの良い喫茶店でティータイムをとった。
エリスマン邸は、生糸貿易商社シーベルヘグナー商会の横浜支配人として活躍した、スイス生まれのフリッツ・エリスマン氏の邸宅として、大正14(1925)年から15(1926)年にかけて山手町127番地に建てられた。設計は、「現代建築の父」といわれるチェコ出身の建築家アントニン・レーモンド。木造2階建て、和館つきで建築面積は約81坪。屋根はスレート葺、階上は下見板張り、階下は竪羽目張りの白亜の洋館。煙突、ベランダ、屋根窓、上げ下げ窓、鎧戸といった異人館的要素をもちながら、軒の水平線の強調など、設計者レーモンドの師匠である世界的建築家F.L.ライトの影響も見られる。昭和57(1982)年マンション建築のため解体されたが、平成2(1990)年元町公園内の現在地(旧山手居留地81番地)に再現される。1階には暖炉のある応接室、居間兼食堂、庭を眺めるサンルームがある。椅子やテーブルなどの家具は、レーモンドが設計したもの。
聞けば、銀座の「教分館」は同じくレーモンドの設計なのだとか、銀座通り沿いからみるビルディングはなんの変哲もないなんて間口の狭い本屋さんだと思ってしまうが、どうしてどうして、松屋通り側にある回転扉や、階段、各階のエレベーターホールなど近代建築を彷彿とさせるとおもっていたら、1933(昭和8)年12月に完成したものであった。ここには子どもの本の店「ナルニア国」が6階にあり、ブックトークの会を開催して、子どもの成長に欠かせない本の重要性を知らせる役目や、様々なイベントを開催している。そのナルニア国への行き来に、いいなあこの建物と感じていた。
二章 近代建築が都市空間で果たす役割・保全と活用
横浜山手の西洋館は「(財)横浜市緑の協会」が指定管理者として運営管理を担っていると聞く。このエリスマン邸の地下部分にはホールもあり、一般にも貸し出していて、絵本の読みきかせや音楽イベントなど、盛んに活用されているようだ。スタッフの皆さんはみなとても親切で保存・保全の活動の意義も十二分に理解をしておられる様子だった。
エリスマン邸のトイレには小さい人の為に座高を調節する用具も用意されており、流石女性ならではのきめ細かい心遣いだなあと感じた。小さい人から大きい人までを視野にいれている愛を感じた。
かつて東京国立博物館で働く、衛士、監視、営繕、修理室、電気室の人々は皆、長年、ここに住み着くようにして勤務する形態だったこともあり、館に対する愛着は生半可なものではなかった。ある意味で家族のような親密感があったともいえる。そんな時代の博物館と、今の博物館とでは全く異なるであろうが、こうして訪れて見ると、表慶館も本館も良く手入れが行き届き、その魅力、意義を広く普及啓発活動もしており、現代に活かしている事が十分にみてとれた。時代の推移と共に、失ったものもあっただろうが、これからも、可能な限りこの建物を保全活用することで、単なる入れ物としてではない、都市空間に於ける芸術空間として生き続けて欲しい。
冒頭で言及したように。建物は単に入れ物ではない、建物そのものがそこにかざりのように置かれているのではなく、活かされてこそのものだと、この三日間の現地見学でさらに思いを強くした。 今回見学した建物はいずれも都市空間にあり、機能しているものであった。そこには確実にコミュニィティが醸し出される。(デンマークの都市再回帰計画は近隣住民同士のコミュニケーション重視になっているそうだ。)
そしてそれらが活かされるにはそれなりの努力がいるということ、それも一個人で出来る物ではなく、様々な立場の人々の繋がりがあって実現するものなのだ。
現在私の住む東京都江東区の「深川東京モダン館」などはある意味好事例と言える。
江東区の観光・文化発信拠点 として国登録有形文化財建造物「旧東京市深川食堂」をリノベーションした施設で、江東区全域を対象とした観光案内スペースとして、また、新たな文化の発信スペースとして活用されている。
江東区には食糧倉庫、同潤会アパートなど幾つかの残しておきたい近代建築があったにも関わらず、なかなか上手く保存活用が出来なかった為に、見るべき近代建築が少なくなっていることもあったのか、区地域振興部 文化観光課 観光推進係は
2009年10月10日に、区の観光案内、文化発信拠点、保存をテーマにした文化的複合施設として蘇らせた。
今見てもさしてモダンとも見えない概容であるが、昭和7年当時のこの門仲界隈を想像するに、木造の家ばかりであったろうから、かなり人目を引いたと想像する。
ここ深川は富岡八幡宮の別当永代寺の門前町として発展した庶民の町の交通拠点であった。佐賀町には倉庫業者がおり、荷担ぎの人足の人たちの公共の食堂として大いに盛ったものと思われる。
美しいタイル張りの階段、掃き出しタイプの窓、壁から張り出してつくった、連続窓などが当時としては随分、モダンを感じさせる要素であった。
区が観光に力をいれることに、あまり好印象をもっていなかった、観光より環境!ではなんて思っていたが、近代モダン建築をリノベーションし、リユースしながら文化発信拠点にしていることは極めて稀で貴重な事と聞き、文化観光課を見直した。
こうして愛すべきふるいたてもの、国登録有形文化財として活用する方針を打ち出した事に、盛大な拍手を送りたいし、真にそのたてものとしての価値を区民に伝えつつ、ここから大いに文化芸術を発信して戴きたい。 その一助として区民として大いにこの場を活用することだと感じ、近々コーディネーターの井村さんに企画の提案をしに行こうと思っている。
おわりに
2010年5月30日にこの博物館裏庭茶室「春草盧」で茶話会を開催した。
裏庭には茶室が五棟あり、どれも一般に貸し出しをしている。その中でも殊の外野趣にあふれているのが「春草盧」 である。
緑が一段と濃いこの季節は外で野点風に立礼が一段と良い。自然との一体感がいっそう感じられ、利休が言うところの茶の原点に立ち返れるような気がする。
「茶の湯とはただ湯を沸かし茶を点てて飲むばかりなる事と知るべし」と利休百首にはある。本来お茶とはそう言うものだったのだと思う。春には春の花を愛でて床に置き、鳥の声や風の音、梢のそよぎに耳を澄まし、ただ一服の茶を共にする、その静寂の中での語らいがご馳走でもあろう。華美でなくともよい、必要最低限のものがあり、大きな空間でなくとも広い宇宙を感じる事は出来る、茶室こそはミクロコスモスの中にマクロコスモスを実相させてくれる稀有な空間でもある。
文明開化と共に嵐のように雪崩をうって、洋風建築に席巻される前の日本の建築はこの日本の気候風土に叶い、日本の中で調達可能なものを材にして、建物が建てられていた。その長い歴史の中で築かれた建築技法は、世界に誇るべきものがあったと思う。しかしこの間の西洋建築への傾倒の中で殆どかつての日本建築は見放される傾向にあり、日本中どこにいっても新建材で似たり寄ったりの呼吸しにくい家がたてられるようになり一時はシックハウスやシックスクールで騒がれもした。近年は環境面からもエコ住宅という視点が以前よりは注目されるようになった、とは思う。がまだまだ不十分だ。「天然住宅」というブランドを打ち出している建築家集団もいるが、まだメジャーではない。彼らは日本の仕材で日本の技術で家を建てるプロを養成することにも熱心だ。日本の材を使うことで荒れている山も蘇り持続可能性を取り戻す一助にもなる。
そのように循環する仕材を活かし、人にも地球にもその生を全うするにふさわしい建物造りにシフトして欲しいと切に願う。
そのような願いをもっていながら夭折してしまった建築家の言葉を最後に引用して終わりとしたい。大正期の青年建築家後藤慶二が①「過去とも将来とも付かぬ対話」(大正5年)②「建築を談じた後に」(大正6年)に記した文章である。
建築家は混沌たる宇宙の大本の中に其意志を感じ、そこに第二の自然を創造して人間に提供し、人間の住むに適した世界を創造する指命を有するのです。
中略
偉大なる自然の力を感得し不可思議なる人間の生を洞観して知識と理解との上に営まれる真の生活の内に自己を拡充し、、、、、覚醒的の思想と精神とによって建築がなされるときが真建築の生まれる時です」①
「建築家の心が神の心に一致した時始めて真の建築が出来る」②
参考文献
志村直愛・横浜家具を通して文化を考える会編「建築散歩24コース 東京・横浜近代編」山川出版社 2001年
藤森照信「日本の近代建築(上)-幕末・明治篇」岩波書店 1993年
藤森照信「日本の近代建築(下)-大正・昭和篇」岩波書店 1993年
藤森照信文・増田彰久写真「看板建築」三省堂1994年
井上章一「伊勢神宮魅惑の日本建築」講談社 2009年
神宮司庁「伊勢」神宮司庁 2008年
小澤弘・小林忠「活気にあふれた江戸の町『熈代勝覧』の日本橋」小学館 2006年
財団法人横浜市緑の協会「山手の丘の物語」財団法人横浜緑の協会 2009年
財団法人横浜市緑の協会「山手西洋館」財団法人横浜市緑の協会2010年